ネタは降る星の如く

とりとめもなく、2匹の愛猫(黒・勘九郎と黒白・七之助)やレシピなど日々の暮らしのあれこれを呟くブログ

思ってもみなかった話

2006-10-31 20:41:07 | しごと
 昨日のある出来事がきっかけで、思いもかけない方向に話が転がりだしている。悪い話ではなく、いい話ではあるんだけど。

 まだ決まった話ではないし、自分もその話に乗ると決めたわけではない。大体、今まで考えたこともなかった話なんで、今は急展開の成り行きに唖然としている状態……。

 なるようにしかならないし、最後の決断は自分でできる。とりあえず、ちょっとだけ考えてみてもいいかも知れない。
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連載記事「情報教育という新しい格差の現実」

2006-10-31 20:29:26 | 時事
日経BP いまどきのオトナ、いまどきの子ども
情報教育という新しい格差の現実(1) 玉虫色に輝く情報教育の陰で、なにがはじまっているのか
学ぶ内容はイメージできないが、覚えるべき内容は具体的な教科書…それが借りた「情報A」の教科書だった。しかも、「bit」にはじまり「GUI」や「文字化け」、ついには「ローカルエリアネットワーク」「プレゼンテーション」などが満載で、いかにも「情報教育」という教科書である。

構成を見ても「情報処理とコンピュータ」という概論的なものも、「Webページ」や「プレゼンテーション資料」の作成、そして「マルチメディア」とか「情報モラル」など、極めて盛りだくさんである。まさに「情報」に関する情報が豊富に網羅され、情報教育の総合商社のような感がしてくる。

けっして、出版元や編者の責任ではない。高等学校学習指導要領の「情報A」の内容として定められている各項目に対応させていくと、このような「なんでもあります」型になってしまうのも、仕方のないことかもしれない。それが「情報教育」かといわれれば、結論は曖昧になってしまう。

なんとなく、総花的な「情報」に関する情報で、「試験」にも「実習」にも、そして「養う」「育てる」ことも可能な、いわゆる玉虫色の「情報教育」が、この教科書から垣間見えるような気がする。


情報教育という新しい格差の現実(2)情報の授業が退屈と苦行の分化を強いる

当然かもしれないが、使い方といっても、それほど深くはないようだ。「Excelのマクロを教えて欲しいけど、そこまでは(A君)」「Wordって設定が難しくて(Bさん)」「文章校正は、役にたつのかなぁ(C君)」。時間とともに、すこしだけリラックスした三人の言葉から想像すると、教則本の第一章くらいなものらしい。

授業で時間をかけて、教則本の第一章では効率が悪すぎると思い聞くと、「入力に時間がかかるから(Bさん)」という。それぞれ違う高校に通っている三人が、異口同音にいうには、授業の多くは入力に時間が費やされてしまい、キーボードに慣れている生徒は「ただ待ってるわけじゃないけど、待ち時間もあります(C君)」「同じ文章を何回も入力したり(A君)」というのが実像のようである。

もちろん、三人だけの取材なので、すべての情報の授業が、入力に時間を割いているわけではないと信じたい。ところが、「みんながパソコンに慣れているわけじゃないし、はじめてキーボードにさわった人もいるし(Bさん)」のひと言が、その希望的な観測を色褪せてしまってくれた。

(中略)

この稿を読んでいただいている皆さんは、おそらく、キーボードなど楽々と使いこなしていることだろう。ところが、思いだしていただきたい。生まれてはじめて、キーボードに向かったとき、いきなり自由自在に入力できただろうか。「えーと、Aはどこだっけ」と独り言をいいながら、一文字入力するにも四苦八苦だったことだろう。

それが、(必要に迫られて?)教えられたりブラインドタッチ・ゲームを使ったりして、ホームポジションを知り、なによりも慣れることで、すこしずつマスターしていったに違いない。それも、一日や二日でないだろう。人によって差があるが、それなりの期間、キーボードの前で苦しんだ経験は、誰もが持っていると思う。

その苦行を、パソコンに触れたこともない高校生が、授業で強いられるのである。けっして楽しい授業ではないだろう。一方では慣れた生徒が入力し終えているのに、一文字ずつ入力させられるのだから、多感な高校生にとっては屈辱的ですらあるかもしれない。その結果「パソコンなんか嫌い」「情報科はいらない」となるのも自然だろう。

実習と称して、入力の練習をしているようでは、ただパソコン嫌いを増殖させるだけだろう。片方では、慣れた生徒が授業に退屈しきり、一方では、はじめてパソコンに触れた生徒が、パソコン嫌いとなり見向きもしなくなるとしたら、「育てる」(前出)どころか、格差を拡大再生産しているだけに過ぎないのではないだろうか。


情報教育という新しい格差の現実(3)競争原理が「成果」「有利」の視点を生む
だから(と思いたくはないが)、教科書は試験で評価しやすい内容になっており、キーボード入力やWordやExcelの使い方という「目に見える成果」を達成することに、汲々としているような気がしてならない。しかも、「結果だけを厳しく評価(Kさん)」される教師には、「おそらく情報の授業で、なにを教えるかなんて考える余裕もない(Kさん)」ことだろう。

教育について、軽々に論じることは戒めなければならないが、ひたすら具体的な成果を追い求めても、「情報化の進展に主体的に対応できる能力と態度」(前出)が育つとは、とうてい思えないのだが、いかがだろう。

(中略)

もちろん情報など授業で教える必要などない、パソコンの使い方を学ぶならパソコン教室に行け……すでに無意味な暴論だろう。ただ「情報化の進展に主体的に対応できる能力と態度」(前出)を養うのは、洪水のように垂れながされている情報と、いかに付きあい、いかに活用するのかという、出発点的な部分からはじめるしかないような気がする。

そこに「目に見える成果」とか「不利にならないように」という、流行の(?)競争原理を持ちこむと、「知識と使い方」に偏ってしまう。教育にも競争原理をという方向性については、賛否両論があり結論は不鮮明だとしても、せめて情報の授業だけでも、成果とか不利という観点から無縁であって欲しいと願ってやまない。(情報教育という新しい格差の現実-完)


 ふたつめの記事にいろいろコメントが入っていて、授業の一部を誇張してとらえているんじゃないかとか、記事の指摘通り使えない授業だとか、賛否両論。

 学校教育から離れているんで、実態のほどはわからない。ただ、もしも記事が指摘するような内容の教育だとしたら、それは使えない。ワードとかエクセルのハウツーを覚えるよりも先に、たとえばワンクリック詐欺やフィッシングに引っかからないためにどうしたらいいか、アダルト系などいかがわしいサイトにアクセスする時のリスクやトラブル対処法、掲示板やブログに書き込む時のマナーやトラブル対処法といった、ネット社会とのつきあい方の基本や情報の扱い方を教えるべきだ。タイピングとかソフトの使い方のような小手先の技は後でもいい。
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ゾウの自己認知能力

2006-10-31 20:28:43 | 時事
「おれはゾウ」と分かってるゾウ、米の実験で能力判明
 鏡を見て「自分だ」と認識する能力をゾウも備えていることが、米エモリー大学(ジョージア州)などの研究で分かった。

 ヒトと類人猿以外ではイルカだけに知られていた能力。研究者らは「複雑な社会生活を営むことと関係があるのだろう」と指摘、米科学アカデミー紀要(電子版)に30日発表した。


 「ヒトと類人猿以外ではイルカだけに知られていた能力」がゾウにもあったのかぁ。ゾウさん、なかなか賢いんですね。

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魏京生氏来日

2006-10-31 13:15:56 | 時事
「国内問題の解決に戦争を利用」
中国民主化のシンボル・魏京生氏が講演

 中国民主化運動のシンボル的存在である魏京生氏は30日、東京都千代田区の日本外国特派員協会で講演し、「アジアの安全保障のため日本は責任ある役割を果たすべき」との見解を示し、中国との関係を経済だけに限定せず、人権と民主化の問題に注視してほしいと語った。同氏は、1970年代末の中国の民主化運動の中核を担い、計18年間も政治犯として投獄された経験も持つ。

 魏氏は「民衆から支持されない(中国)政府は、不安定な国内にある問題を戦争で解消しようと思っている。台湾や韓国との戦争を長い間準備しているし、日本を標的とした核兵器を作らせるために北朝鮮を支援した」と主張。これまでの朝鮮戦争、中印戦争、中越戦争などは民衆の不満をそらすために引き起こされたもので、現在は次の戦争を起こすための機を伺っている状況だと解説した。


 んー、やっぱり弾圧を耐えてきた人の言葉は、重みがある。北朝鮮、韓国、中国、日本、米国という5つのダイナミズムをきちんと読まなければ東アジア情勢の安定は実現しないだろう。

「世界からの支援励みに」 民主活動家魏京生氏が講演
魏京生氏が初来日 中国の民主化運動家

 もう何年も前から企画されていた招聘が、この度ようやく実現した。主催者の皆さん、お疲れ様でした。
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森永卓郎が読む「再チャレンジ」

2006-10-31 13:07:21 | 時事
 タイトル「小泉構造改革をどう生きるか」から「小泉」の二文字がなくなっている……と指摘するのは、重箱の隅ですね^^;。サイトのページのプロパティには「小泉」の二文字が残ってるんですが……って、ますます重箱の隅(爆)。

構造改革をどう生きるか
~成果主義・拝金主義を疑え!~ 森永卓郎
第55回
安倍「再チャレンジ」施策の真の狙い

 安倍総理は、所信表明演説で次のように語っている。「新たな日本が目指すべきは、努力した人が報われ、勝ち組と負け組が固定化せず、働き方、学び方、暮らし方が多様で複線化している社会、すなわちチャンスにあふれ、誰でも再チャレンジが可能な社会です」。

 これを正確に読み取れば、安倍総理の意図は理解できるだろう。安倍総理は、「負け組」を減らそうとは言っていない。はっきりと言っているのは「負け組」を固定しない世の中にするということだ。つまり、これからも「負け組」が出ることを前提として、「負け組」の人が「再チャレンジ」できる世の中にしようというわけである。

(中略)
 再チャレンジ施策も同じことである。負け組がこれからも増え続けることを見込んでいるからこそ、安倍総理は再チャレンジを訴えているのである。もし、本当に負け組を減らして格差を縮小したいと思っていれば、企業が安易なリストラに走らないような政策をとるのが先決である。例えば、必要な規制を強化したり、雇用維持に補助金を出すといったことだ。

 しかし、安倍総理がそうした政策を採用する気配はない。むしろ、規制緩和、弱肉強食の競争を促進させ、一部の企業だけが栄えるように仕向けている。労働者は次々にリストラされ、企業もどんどんと淘汰されるだろう。それによって転落する者が増えるから、再チャレンジの施策が必要となるのだ。

 しかし、たとえ再チャレンジが何回できたとしても、それによって救われるのはほんのわずかの人たちだけだろう。社会自体が弱肉強食のままなのだから、弱者は何度チャレンジしても浮かばれることはない。

 だから、再チャレンジという言葉を耳にするたびに、わたしには芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」の一場面がどうしても頭に浮かんでしまうのだ。底辺に落ちて苦しんでいる人たちの上に、かろうじて垂らされた、一本のか細い「蜘蛛の糸」。「再チャレンジ」施策とは、まさにそのような存在ではないのだろうか。


 そして、もうひとつ指摘されている外国人労働の利用について。

 安倍総理が負け組を減らそうとは思っていない証拠が、もう一つある。それは、外国人労働者の移入政策である。

 政権公約のなかで、安倍総理は「自由と規律でオープンな経済社会」という項目のなかに「良いヒト・モノ・カネを世界から集積」と書いているのだ。

 もちろん、高度な技術や知識を持つ外国人労働者を招くのならば、問題はない。しかし、そうした高度な人材に対する入管規制について、日本は既にオープンな国になっている。となると、受け入れ規制を今後も緩和するとなれば、一般労働力を対象にするしかない。

 ここにきて厚生労働省は、フィリピンとの間で既に結ばれているEPA(経済連携協定)に基づき、2年間に1000人の看護師・介護福祉士を受け入れることを発表した。このことが、経済学的に何を意味するかは明らかだろう。看護師・介護福祉士の賃金が低下するのである。

(中略)

 好景気の時代には問題はなかったのだが、景気が悪くなると真っ先に解雇されるのは彼らである。景気変動のクッションの役割を果たしてきた彼らとその子どもたちは、今になって行き場所がなくなってしまった。

 そうしたことが社会不安を招く背景の一つとなっていることは否めない事実である。昨年から今年にかけて、フランスの移民二世・三世を中心とした若者たちが起こした暴動などは、その典型的な例だろう。

 もちろん、西欧で起きたことが、そのまま日本に当てはまるとは限らない。ただ、外国人労働者の受け入れには、徹底した議論が必要だと思うのだ。

 ところが、外国人労働者受け入れに対する雇用方針は、残念ながら、なしくずしに進んでしまっている。技能実習生の制度一つとってみても、それは本来の技術移転ではなく、低賃金労働の利用という別目的で使われるようになっている。


 日経ビジネス2006年9月11月号の特集「こんな国では働けない 外国人労働者『使い果て』の果て」をすぐに思い出した。製造業やサービス業において、すでに外国人労働者は非正規雇用の安価な労働力として組み込まれているのだ。たとえば、深夜のコンビニや弁当工場、製造現場では、彼らの存在なくして成り立たなくなってしまった。しかし、一方では、研修生として受け容れた彼らを労働力として使うなど、合法・違法の微妙なボーダーライン上で運用されており、しばしば違法な処遇がなされている。

 低賃金といえば、パート・アルバイト・派遣や請負労働など非正規雇用の業員の賃金が最低賃金を下回っても違法ではないこと、結果的に生活保護の支給対象となり得る月収を下回ることもある得ること、これも「負け組」の生活を苦しくさせることにつながっていると思う。

 外国人労働者の雇用と非正規雇用の賃金体系、これに手をつけない限りは「下流社会」への格差は広がっていくばかりだと思う。そして、安倍内閣はこれにはまったく興味を示さないだろう。
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さすがはイトイさん

2006-10-27 12:31:00 | 時事
 そのコピーのインパクトに惹かれて、記事を読みに行ってしまっただよ^^;。

ほぼ日経ビジネスオンラインSpecial
ディズニーランドにキティちゃんが入ろうとしたらどうする? 俺は止めるね

 「ほぼ日」サイトに掲示板がない理由という話題が中心なのに、なんて刺激的なコピーなんでしょう(笑)。

糸井 そうなんですよ。初期の頃は、もうどれだけ掲示板を作れと言われたか分からなかったですよ。なぜ、みんな掲示板を作れとあんなに言ったのかというと、アクセスが増えるからなんですよね。

 じゃ、なぜアクセスが増えるのかというのも、他人の意見が読みたいからじゃないんです。意見の対立とか、1人に非難が集中するなどの事故が起こるから。火事場は人気アイドルのステージよりも、人が集まるんです。

 やっぱりね、人って邪悪じゃないけれども、どう言ったらいいのかなぁ、「ああ、僕の命はあってよかった」と確認するための悲劇を見るというのは、大好きですから。特に、普段、お高く留まっているところが混乱したり、燃えたりするのは、きっとうれしいんでしょうね。みんなけしかけ合っていますもんね。

 そんな仕組みはやる必要はないな、と思ったんです。「ほぼ日」の立ち上げの頃、インターネットに詳しい人に参考になるお話をいろいろ聞いたんです。ネットの世界って、聞けば聞くほど「あ、僕がやる意味がない」というところに行くんですよ。だから、「ほぼ日」はネットの流儀だけではなく、あえて自分がやりやすいものとか、楽しいものをやってきたんですよね。

 例えば、今はあんまり増やしてはいないんですけれど、「ほぼ日」の「おサルさん」のマークなんかも作ったりしてね。あれだってウェブを知っていた人からは、「こんなキャラクターを作るのはウェブ的じゃない」と言われました。今だと、きっと「ほぼ日」はWeb2.0的じゃないと言われているんだ、と思うんですよ。トラックバック機能もないし、コメント欄なんかもないからね。

NBO 確かに、一読者の立場で見ると、「ほぼ日」はほかのサイトと違いますね。ネットを見ている感じがしない。


糸井 この間、ある有名なブロガーの人と初めて会ったのですが、「糸井さんのサイトはすごく孤高な気がする。どことも繋がりを断っている、離れ小島みたいな存在として、みんなが知っている」って言われまして。「え、僕はみんなのこと知らないぞ」と言ったんですけれどね(笑)。

NBO  双方向的じゃない。

糸井 ではないんでしょうね。でもね、例えば、僕が大学の総長だとして、「大学の知識はみんなのものです、皆さん、いつでもいらっしゃってください」と言ったら、大学なんて成り立たないですよ。構内で「えー、今からサンショウウオのキンタマについて研究します」とみんなが集まっている時に、「俺はキンタマを抜くのは嫌なんだ」というお客さんが入ってきたとしますよね。総長としては常に「もっともな意見だったら聞きます」というわけには、やっぱりいかないんです。

 ディズニーランドにキティちゃんが遊びに行きたい、と言ったらどうします? ネコのぬいぐるみを着て、「ニャー」と言って、ディズニーランドのチケットを買うために並んでいたら? 俺は止めますよ。キティちゃんのトラックバックは。(笑)

NBO 「お客様、その格好では・・・」と。(笑)

糸井 サッカーをやっている時は絶対に手を使わないですよね。そこで、手を使えるじゃないかと言われても、我々はその不自由を楽しんでいるんです、としか言えないんですね。

NBO  なるほど・・・つまり、インターネットの道具として、双方向の機能は出てきた。実は、そのツールを渡されただけなのに、ユーザーには「なんでもできる」ような万能感さえ勝手に備わってしまった。それが今のWeb論を取り巻く状況なのかもしれない。

糸井 僕も最近のWeb関連の本はいろいろ読んだんですよ。確かに、いいことがいっぱい書いてあります。いいことがいっぱい書いてあるんだけれど、みんな、有限のものと無限のものとごっちゃにしていると思うんですよ。

 有限の最たるものはやっぱり人生です。確かにみんなの意見を聞けて本当にいい時代になった。でも、みんなの意見を聞いているうちに死んじゃいますよと(笑)。極端っぽく言うと。


 なかなか含蓄のあることを話してますね。



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「魑魅魍魎」

2006-10-27 12:30:00 | 時事
 昨日に続いて、またも立花隆が記事アップ。しかも自分には好物の安倍晋三ネタ。

立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」この国の将来を委ねた安倍総理一族の魑魅魍魎

 立花隆独特の分析はないけど、最近の週刊誌に載った安倍首相関係の記事から、ふたつの奇怪な人脈の話。

 要するに安倍首相が、小泉内閣の官房副長官時代から幹事長時代にかけて、拉致問題の解決で功を焦ったのか、韓国人の「希代の詐欺師」にマンマと欺されていたという話である。

蓮池さんら、4人の拉致被害者は帰ってきたが、その後の展開が開けないで困っていたところ、安倍が小泉首相(当時)の親書を持って訪朝すれば、北朝鮮の中枢的指導者と会談できる上、蓮池薫さんの2人の子供、地村保志さんの3人の子供、曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんと2人の子供の計8人を日本に連れて帰ることができるようにしてやるという話が北朝鮮側から伝わってきた。

これはその後ほとんどその通り実現するのだから、半分以上ほんとの話だった。

ところが、秘密交渉の過程で安倍が頼りにした男が詐欺師だったため、話はどんどんおかしくなり、安倍は北朝鮮側の信用を失い、8人を連れて帰るという華々しい成功をおさめるチャンスを失ってしまう。それどころか、詐欺師に乗せられて、仲立ちの北朝鮮ロビイストに5000万ドルを渡す寸前のところまでいっていたというのだ。

驚くのは、この詐欺話の演出者である「希代の詐欺師朴在斗=パクジェドゥ」を安倍が「朴先生、朴先生」とあがめ、「安倍晋三外交顧問」の名刺まで作らせ、北朝鮮側の人物と秘密会談を持つときには、その場に立ち合わせたばかりか、通訳までさせていたというのだ。


 ……うーん、こういう人が首相で大丈夫なんでしょうか(汗)。

この詐欺話よりもっとあきれるのが、週刊朝日11月3日号の、「新興宗教慧光塾と安倍家のただならぬ関係」という記事である。

この「慧光塾(えこうじゅく)」というのは、経営コンサルタントを名乗っているものの、そのやっていることは、怪しげな「パワー」を売りものにする新興宗教といってよいような奇怪な組織である。

なにしろ、この会には、安倍家のゴッド・マザーである安倍洋子(岸信介の娘)さんまで出てきて、

「先生とのお付き合いも随分長くなるわけでございますけれども、亡くなった主人も大変お世話になりました。今、息子の晋三もいろいろご指導いただいておりますけれども、今後とも、健康のためにもまた政治の道でも道を誤ることのないようよろしくお願いします」

などと挨拶をしたりしている。安倍家は親子2代にわたって、この新興宗教まがいの怪しげなパワーの持主にドップリつかってしまっているのである。


 ……うーん、ますます胡散臭い。
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テンプレ変更

2006-10-27 08:00:00 | Weblog
 またテンプレ変更、またキティちゃんテンプレ使用。

 3枚あるキティちゃんのテンプレを全部経験してみたかったので(笑)。
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「タレントマネジメント」と「プロデューサー型上司」

2006-10-26 21:20:39 | しごと
 ふたつの記事がいわんとしているリーダーシップは、似ていると思う。

元マクドナルドの人材開発責任者が語る:
普通の人のためのリーダーシップ
年間1万人のリーダーたちに伝授してきた「タレントマネジメント」

 普通の現場リーダーが、普通の業務の中でできるリーダーシップはとてもシンプルである。

 個々のタレントに注目し、強みと可能性に着目するリーダーシップを、タレントマネジメントの新たなアプローチと定義したい。

 マネジメントの世界では、基準を定め、問題点を探り、目標を決めて改善をする、すなわち、「ギャップアプローチ」が主流である。コンピテンシーを明確にして目標を定め、成果をあげてきたことも事実である。しかし、この手法で成果をあげられる人材はトップパフォーマーがほとんどだった。全員がトップパフォーマーにはなれない。新たなタレントマネジメントのアプローチは、将来のトップパフォーマーを育成するため、強みと可能性に着目する、いわゆる「ポジティブアプローチ」であり、何よりも、普通の現場リーダーが、普通の能力でできるシンプルなアプローチである。


経営の視点からのキャリア開発~会社はお釈迦様の手になれるか~
第10回「これからのキャリア開発に求められる"プロデューサー型上司"」
部下の能力と適性、もっと言えば才能を見極めて、「このように進むのが、この人材にとってベストである」という仮説を持っておく必要が出てきます。本人が専門職を志向しているといっても、必ずしも本人の適性が専門職にあるとは限りません。単なる憧れにすぎない場合もあります。仮に上司から見た適性が本人の希望とは別に、管理職にあると考えるのであれば、その社員の適性に関してしっかり議論すべきです。色々な仕組みやコーチングといった手法もありますが、この議論をしっかりできるかどうかが、キャリア開発においては最も重要なポイントだと思います。


 自分の人材開発の仕事はもともと人材育成のプロデューサーだと思っており、部下に対するリーダーシップも、プロデューサーとして、部下の能力をうまく発揮できたり、部下に経験を積ませて新たな蓄積をさせたり、することが自分のリーダーシップだと思っている。そういう意味では、ごく自然に受け容れられた。
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ブッシュ・ドクトリンの翳り

2006-10-26 21:15:12 | 時事
立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」
第87回 イラク・北朝鮮問題で露呈したアメリカ覇権主義の幻影
最近、日本の政治家の中に、麻生外務大臣、中川政調会長など、日本も核武装是か非かの議論をすべしなどという人が登場しはじめた。

日本に核武装の可能性が本当に出てきたら、その潜在的な国力の大きさ故に、日本は一瞬にして、アメリカの「ナンバーワン・エニミー」に変わってしまうだろう。そしてその場合、本気で日本を叩きつぶそうとするかもしれない。


 ブッシュ政権が中間選挙で負ける可能性も考えつつ、日本の外交ポジションを修正する必要があるという考え方に賛成。でも、核武装には反対。使いこなせない武器は、持て余す。

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