合気道の世界ではよく手首が太くがっしりした人がいます。よほど鍛錬したのであろうことに疑いはありません。合気道人としての風格が感じられます。わたしなどはその逆で、細くてまことに頼りない風情です。
ところで、合気道の稽古では決して相手とぶつかってはいけない、というのがわたしの認識です。ここで、ぶつかるというのは衝突だけを意味するものではありません。力ずくで押さえる、投げる、無理に関節をきめる(相手を痛めつける)なども広い意味でぶつかることに含まれます。そこで、関節技でぶつかるというのはどういう状況を指すのか、まずはこれを考えてみたいと重います。
合気道ではよく手首関節を攻めますから、それに耐えうるように少々のことでは音を上げない程度には鍛えることが必須になります。
手首の強さには二種類あって、ひとつはガチガチに硬くしたもの。なかには『この手首、どうやったら曲げることができるんだろう』と思うくらい鍛えに鍛えた手首の持ち主もいます。ただ多くの場合、望んでそのように鍛えたというよりは、激しい稽古によるケガの結果固まってしまったということが多いようです。このような手首は外力に相当耐えますが、柔軟性に欠けるので対応限界を超えると一気に体勢が崩れたりします。
もうひとつ、これが理想的なもので、捻りや曲げに素直に対応できる柔軟な手首です。外力への対応範囲が広いと思わせる、とてもうらやましいもので、このような手首の持ち主は生来の特長でもありましょうが、練成当初から正しい鍛錬法を用いていたのでしょう。強い手首は柔らかいのです。むやみに硬いだけのものは強いというのとは違います。
わたしはほんの少しだけ空手をやったことがありますが、まじめに拳立てをすると比較的短期間で拳頭が鍛えられますし、同時に手首を強くすることができます。わたし自身は拳頭がごつごつになるのは好みませんでした。こじつけかもしれませんが、身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり、という教えが頭にあったせいだと思います。硬い拳頭はわたしには正常ではない状態と見えたのです。その拳こそが空手家の身分証明みたいなものですが、そんなに鍛えて何を殴ろうとするのだろう、過剰品質ではないのかという疑問が解けないままやめてしまいました。
同じことが合気道における手首の鍛錬にも言えるのではないかと思います。合気道であれ何であれ、若い頃は鍛えただけの反応があるので勇んで鍛錬に励みます。それを否定するわけでは全くないのですが、前述のようにそういう人は往々にして、それと一緒に故障をかかえていることがあります。鍛えたはずなのにその度が過ぎた鍛錬が結果として古傷に変わっていくのです。これが、年齢がいくにしたがってレベル低下の原因となったりします。過ぎたるは及ばざるがごとしというのがよく当てはまります。
さて、合気道は武道ですから実際に使いものにならなければ価値が半減します。ですから、それ(使いものになること)を目指して身体を鍛えるのは至極当然のことです。しかしごく一般的な愛好者(この人たちが圧倒的多数で合気道界を支えている)のレベルで考えると、対人稽古において限界ぎりぎりまで攻めたてることには賛同できません。それは故障を惹き起こすばかりで、かえって鍛錬の道から遠ざかってしまいます。
修練というのはあくまでも合理的であるべきです。そこからすると、相当痛くなるまで相手の技に対応しない(我慢する)ことは武道的センスというものの対極にあると言わざるを得ません。合気道の受身というのは相手の技を完成させない(未完に終わらせる)ことを目的としています。たとえば、投げ技において、受けは取りに投げられているのではありません。自発的に転がっていくことによって取りの必殺技を最終形に至らせないで中途で終わらせるのが本来の意味です。これは関節技でも同じことで、痛くて押さえられたり飛んだりするのではなく、取りの意図の一歩先を読んで自分から動くのです。
ところで、立ち技二教(小手回し)で故障することが多い部位は手首でしょうが、昔の硬い畳での稽古では意外なことに膝の皿(膝蓋骨)を傷めることが多かったそうです。技のかけあいは約束ごとだからわかりそうなものですが、それでも急に攻められると痛くて膝から落ちていくためです。やはり注意深く相手の動きを読むことが肝要です。
関節技をかけられたとき変に頑張って強さを誇示するのはよしたほうが良いでしょう。むしろ、稽古相手が正しい動きを身につけられるように応じてあげることのほうが意味があります。鍛錬の度合いは特別な目的をもっている人(ケガをしてもそれ以上に得るものがあると考えている人)以外は、つつがなく稽古が進むことがよほど大切です。稽古の目的をはっきり認識することが肝要です。
そもそも小手回しなどで攻めてくる敵というものは想定しにくいですしね。
ところで、合気道の稽古では決して相手とぶつかってはいけない、というのがわたしの認識です。ここで、ぶつかるというのは衝突だけを意味するものではありません。力ずくで押さえる、投げる、無理に関節をきめる(相手を痛めつける)なども広い意味でぶつかることに含まれます。そこで、関節技でぶつかるというのはどういう状況を指すのか、まずはこれを考えてみたいと重います。
合気道ではよく手首関節を攻めますから、それに耐えうるように少々のことでは音を上げない程度には鍛えることが必須になります。
手首の強さには二種類あって、ひとつはガチガチに硬くしたもの。なかには『この手首、どうやったら曲げることができるんだろう』と思うくらい鍛えに鍛えた手首の持ち主もいます。ただ多くの場合、望んでそのように鍛えたというよりは、激しい稽古によるケガの結果固まってしまったということが多いようです。このような手首は外力に相当耐えますが、柔軟性に欠けるので対応限界を超えると一気に体勢が崩れたりします。
もうひとつ、これが理想的なもので、捻りや曲げに素直に対応できる柔軟な手首です。外力への対応範囲が広いと思わせる、とてもうらやましいもので、このような手首の持ち主は生来の特長でもありましょうが、練成当初から正しい鍛錬法を用いていたのでしょう。強い手首は柔らかいのです。むやみに硬いだけのものは強いというのとは違います。
わたしはほんの少しだけ空手をやったことがありますが、まじめに拳立てをすると比較的短期間で拳頭が鍛えられますし、同時に手首を強くすることができます。わたし自身は拳頭がごつごつになるのは好みませんでした。こじつけかもしれませんが、身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり、という教えが頭にあったせいだと思います。硬い拳頭はわたしには正常ではない状態と見えたのです。その拳こそが空手家の身分証明みたいなものですが、そんなに鍛えて何を殴ろうとするのだろう、過剰品質ではないのかという疑問が解けないままやめてしまいました。
同じことが合気道における手首の鍛錬にも言えるのではないかと思います。合気道であれ何であれ、若い頃は鍛えただけの反応があるので勇んで鍛錬に励みます。それを否定するわけでは全くないのですが、前述のようにそういう人は往々にして、それと一緒に故障をかかえていることがあります。鍛えたはずなのにその度が過ぎた鍛錬が結果として古傷に変わっていくのです。これが、年齢がいくにしたがってレベル低下の原因となったりします。過ぎたるは及ばざるがごとしというのがよく当てはまります。
さて、合気道は武道ですから実際に使いものにならなければ価値が半減します。ですから、それ(使いものになること)を目指して身体を鍛えるのは至極当然のことです。しかしごく一般的な愛好者(この人たちが圧倒的多数で合気道界を支えている)のレベルで考えると、対人稽古において限界ぎりぎりまで攻めたてることには賛同できません。それは故障を惹き起こすばかりで、かえって鍛錬の道から遠ざかってしまいます。
修練というのはあくまでも合理的であるべきです。そこからすると、相当痛くなるまで相手の技に対応しない(我慢する)ことは武道的センスというものの対極にあると言わざるを得ません。合気道の受身というのは相手の技を完成させない(未完に終わらせる)ことを目的としています。たとえば、投げ技において、受けは取りに投げられているのではありません。自発的に転がっていくことによって取りの必殺技を最終形に至らせないで中途で終わらせるのが本来の意味です。これは関節技でも同じことで、痛くて押さえられたり飛んだりするのではなく、取りの意図の一歩先を読んで自分から動くのです。
ところで、立ち技二教(小手回し)で故障することが多い部位は手首でしょうが、昔の硬い畳での稽古では意外なことに膝の皿(膝蓋骨)を傷めることが多かったそうです。技のかけあいは約束ごとだからわかりそうなものですが、それでも急に攻められると痛くて膝から落ちていくためです。やはり注意深く相手の動きを読むことが肝要です。
関節技をかけられたとき変に頑張って強さを誇示するのはよしたほうが良いでしょう。むしろ、稽古相手が正しい動きを身につけられるように応じてあげることのほうが意味があります。鍛錬の度合いは特別な目的をもっている人(ケガをしてもそれ以上に得るものがあると考えている人)以外は、つつがなく稽古が進むことがよほど大切です。稽古の目的をはっきり認識することが肝要です。
そもそも小手回しなどで攻めてくる敵というものは想定しにくいですしね。