合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

290≫ 手首のことなど

2016-02-28 14:51:08 | 日記
 合気道の世界ではよく手首が太くがっしりした人がいます。よほど鍛錬したのであろうことに疑いはありません。合気道人としての風格が感じられます。わたしなどはその逆で、細くてまことに頼りない風情です。

 ところで、合気道の稽古では決して相手とぶつかってはいけない、というのがわたしの認識です。ここで、ぶつかるというのは衝突だけを意味するものではありません。力ずくで押さえる、投げる、無理に関節をきめる(相手を痛めつける)なども広い意味でぶつかることに含まれます。そこで、関節技でぶつかるというのはどういう状況を指すのか、まずはこれを考えてみたいと重います。

 合気道ではよく手首関節を攻めますから、それに耐えうるように少々のことでは音を上げない程度には鍛えることが必須になります。

 手首の強さには二種類あって、ひとつはガチガチに硬くしたもの。なかには『この手首、どうやったら曲げることができるんだろう』と思うくらい鍛えに鍛えた手首の持ち主もいます。ただ多くの場合、望んでそのように鍛えたというよりは、激しい稽古によるケガの結果固まってしまったということが多いようです。このような手首は外力に相当耐えますが、柔軟性に欠けるので対応限界を超えると一気に体勢が崩れたりします。

 もうひとつ、これが理想的なもので、捻りや曲げに素直に対応できる柔軟な手首です。外力への対応範囲が広いと思わせる、とてもうらやましいもので、このような手首の持ち主は生来の特長でもありましょうが、練成当初から正しい鍛錬法を用いていたのでしょう。強い手首は柔らかいのです。むやみに硬いだけのものは強いというのとは違います。

 わたしはほんの少しだけ空手をやったことがありますが、まじめに拳立てをすると比較的短期間で拳頭が鍛えられますし、同時に手首を強くすることができます。わたし自身は拳頭がごつごつになるのは好みませんでした。こじつけかもしれませんが、身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり、という教えが頭にあったせいだと思います。硬い拳頭はわたしには正常ではない状態と見えたのです。その拳こそが空手家の身分証明みたいなものですが、そんなに鍛えて何を殴ろうとするのだろう、過剰品質ではないのかという疑問が解けないままやめてしまいました。

 同じことが合気道における手首の鍛錬にも言えるのではないかと思います。合気道であれ何であれ、若い頃は鍛えただけの反応があるので勇んで鍛錬に励みます。それを否定するわけでは全くないのですが、前述のようにそういう人は往々にして、それと一緒に故障をかかえていることがあります。鍛えたはずなのにその度が過ぎた鍛錬が結果として古傷に変わっていくのです。これが、年齢がいくにしたがってレベル低下の原因となったりします。過ぎたるは及ばざるがごとしというのがよく当てはまります。
 
 さて、合気道は武道ですから実際に使いものにならなければ価値が半減します。ですから、それ(使いものになること)を目指して身体を鍛えるのは至極当然のことです。しかしごく一般的な愛好者(この人たちが圧倒的多数で合気道界を支えている)のレベルで考えると、対人稽古において限界ぎりぎりまで攻めたてることには賛同できません。それは故障を惹き起こすばかりで、かえって鍛錬の道から遠ざかってしまいます。

 修練というのはあくまでも合理的であるべきです。そこからすると、相当痛くなるまで相手の技に対応しない(我慢する)ことは武道的センスというものの対極にあると言わざるを得ません。合気道の受身というのは相手の技を完成させない(未完に終わらせる)ことを目的としています。たとえば、投げ技において、受けは取りに投げられているのではありません。自発的に転がっていくことによって取りの必殺技を最終形に至らせないで中途で終わらせるのが本来の意味です。これは関節技でも同じことで、痛くて押さえられたり飛んだりするのではなく、取りの意図の一歩先を読んで自分から動くのです。

 ところで、立ち技二教(小手回し)で故障することが多い部位は手首でしょうが、昔の硬い畳での稽古では意外なことに膝の皿(膝蓋骨)を傷めることが多かったそうです。技のかけあいは約束ごとだからわかりそうなものですが、それでも急に攻められると痛くて膝から落ちていくためです。やはり注意深く相手の動きを読むことが肝要です。

 関節技をかけられたとき変に頑張って強さを誇示するのはよしたほうが良いでしょう。むしろ、稽古相手が正しい動きを身につけられるように応じてあげることのほうが意味があります。鍛錬の度合いは特別な目的をもっている人(ケガをしてもそれ以上に得るものがあると考えている人)以外は、つつがなく稽古が進むことがよほど大切です。稽古の目的をはっきり認識することが肝要です。

 そもそも小手回しなどで攻めてくる敵というものは想定しにくいですしね。

289≫ 理にかなった稽古法

2016-02-14 17:14:23 | 日記
 今回は、前項で触れた『どういう方法を用いれば理にかなった稽古になるか』ということについて、思うところをお示しします。なお、以下に述べることは、普段から工夫を重ねることが大切だと考えている人に向けたものです。合気道を生活を豊かにするための趣味の範疇ととらえている方には、かえって混乱するだけかもしれませんのでお勧めしません。

 既に述べているように、合気道の稽古の本質は技法の練習を通じて武道的身体や感覚、思考を練り上げるところにあります。とにかく、武道にふさわしい各能力を獲得しないことには何も始まりません。もちろんその練習は結果として各技法の向上につながりますから単なる身体づくりで終わるものではありません。

 さて、どういう方法を用いれば理にかなった稽古になるか、もったいをつけるのほどのものでもないので早速種明かしをします。それは各技法鍛錬における一連の動きにおいて、取りは一切受けの手首や腕、道着などをつかまないで終末動作までもっていく工夫をすることです。

 あれ、そんなこと合気道では普通にあるじゃないかと思われたでしょう。実はそうなんです。その代表的なものは天地投げでしょうか。それをはじめとして、呼吸投げと称する技の多くで受けの手首などはつかみません。ですからそれらを含めて考えていただいてかまいません。

 それではわたしがお勧めする稽古法は従来のそれとどこが違うのか、ちょっとくどいですが説明にお付き合いください。

 普通におこなわれている合気道の稽古は《虚》の稽古です。虚の裏には《実》の技法が隠されていることはだいぶ前に述べています。かいつまんで言うと、受けに手首などをつかませて投げたり押さえたりするのが虚、取りが自分からつかまえにいって技を施すのが実です。現実の世界では、投げられたり押さえられたりするまで相手の手首をつかまえているということはあり得ません。このあたりは合気関連書籍などで『手を放そうと思ってもできない。それは気の作用である』などと解説されることがありますが、それを信じているのは物事を疑わない素直で良い人たちなのでしょう。

 実際の格闘では相手の動きに頼るなどということはありません。むしろ相手はこちらが望まないことを仕掛けてきます。呼吸投げなどのように取りが相手をつかまえずに翻弄して投げるのは、稽古法としてそういうふうにする理由があるからです。あくまでも稽古法としてです。それがわかっていないとファンタジーの世界の住人になってしまいます。

 その理由とは、稽古においては、つかまないほうが力まず体の自由度が大きいからです。ある程度の熟練者でないと、つかんだ途端にてきめんに動きが悪くなります。たとえば『相手の手首をしっかりつかんでください』と言うと、肩から指先まで腕全体がカチカチに硬くなってしまいます。それでは合理的な(相手にしっかり力を伝える)動きはできません。ですから稽古においては受けにつかんでもらって、こちらは楽に動く練習をするわけです。

 なお、こちらがしっかりつかんでも腕がカチカチにならないで肩や肘の関節を緩く保つことは練習すればだれでもできます。相手の手首をしっかりつかんだら、相手の人にその腕を軽く振ってもららうのです。合理的につかめていれば、自分の腕もゆらゆら揺られます。

 さて、それは良いとして、取りがいっさい受けの手首をつかまない稽古法です。例として相半身片手取り四方投げを取り上げます。この場合、取りはつかまれたほうの手で相手の手首をつかまえ返すのが普通です。これが、受けをつかまない稽古法では掌を開いたまま、つまり握れろうと思えば握れるかたちにして握らないようにします。

 実際にやってみると、つかみ返す稽古を長年やっている人ほどついつい握ってしまいます。それは決して間違いではありませんが、ここでやろうとしていることは合理的な動き(この場合は双方の手が描く理想的な軌跡)を見出す稽古ですから、腰を落としたりつま先の角度を変えたり手の振りかぶりの高さを変えたりいろいろ工夫しながら最後まで受けの手首をつかまないでやってみてください。受けのつかみ手が外れるようでしたらそれは合理的な動きになっていないということです。なぜならば、取りにとっても受けにとっても手や腕が無理のない軌跡をたどるときこそが合理的で強力な技になるからです。もちろん受けの協力(正しい動き)は絶対に必要です。このあたり、なかなかうまく説明できませんが、やってみればわかります。

 同じことは一教などでもできます。このような稽古をしていると、通常、さも取りが受けを投げたり押さえたりしているという理解が間違っていることに気づくはずです。取りも受けもそれぞれに課せられた動きを正しくなぞることによって技法が成り立つのです。

 以上おわかりのように、これは《虚》の稽古法を徹底したものです。もちろんいつもそのようにやろうというわけではなく、折に触れて技法を検証するために有効だということです。そのような工夫をしながら、最終的には自分からつかんでいく《実》の技にたどりつくのが理想であると思います。

288≫ 合気道の稽古ってなんだ

2016-02-01 17:44:58 | 日記
 合気道をきちんと稽古しておられる方で各技法がそのまま実戦で使えると思っている人はあまりいないでしょう。もちろん、工夫を重ねそれを徹底的に稽古し、凡人のわたしなどの想像を超える技量の持ち主がいるかもしれないことまでは否定しません。たぶん、みんなそうなりたいし、そうでありたいと願ってはいるでしょう。

 しかし、普通の稽古でそのような超絶技巧を得ることはまず不可能です。考えてもみてください。日常生活の片手間で週に何度かの、しかもせいぜい1時間か2時間程度の稽古をしたくらいで達人になることはありえませんよね。

 でも、わたしはその普通の稽古にケチをつけたいのではなく、むしろその普通さに秘められた可能性を知ってほしいと思うものです。上述のように、普通の社会人が費やすことのできる限られた稽古時間では高いレベルで使いものになる技法を獲得することはほぼ絶望的ですが、その技法を獲得するための土台となる身体と意識を整備することは可能です。その身体と意識とは武道が武道であるために必須の要素です。

 武道的体遣いと武道であるがゆえの意識の持ち方がなければそれは武道ではありません。稽古はそれを獲得する唯一の方法です。要するに、わたしたちが行うべき稽古というものは、個別の技術の向上そのものを目指すというよりはそれらの技法鍛錬を手段ととらえ武道にふさわしい心身を練り上げるものだと考えるほうが妥当ではないかと思うのです。

 心身とひとまとめに言っていますが、間口が広すぎるので以下本項では特に身体について述べます。このことについて二人の柔道家の言を引用しておきます。

 ひとつは、よく知られていることですが、現代柔道の生みの親である嘉納治五郎師が合気道を見て『これこそわたしがやりたかった柔道だ』と言って、3人の弟子を大先生のもとに送り合気道の練習をさせたことです。師が見たのは演武と稽古でしょうが、慧眼の持ち主はそこに武道鍛錬の理想形を見つけたに違いありません。

 もうひとつ、昭和39年の第18回東京オリンピック柔道無差別級決勝で惜しくもオランダのアントン・ヘーシンク氏に敗れた神永昭夫氏は、後に少年柔道を批評し『ろくに体もできていないのに試合が多すぎる。試合を減らしもっと基礎鍛錬に時間をさくべきだ』と言いました。立ち木を相手に背の皮がむけるほど背負い投げの打ち込み練習をした木村政彦氏の鍛錬法が知られていたことも思いあわせ、勝った負けたの前に技法練習を通じた武道的身体作りの重要性を指摘した氏もやはり慧眼の持ち主というべきでしょう。ちなみにわたしも当時テレビで氏の負け試合を観て悔しがったひとりですが、仙台市出身の氏を同県人として誇りに思います。

 さてそのように、優れた武道家は日常の稽古鍛錬において何が重要かはよくご存知のようです。むしろ合気道家こそがその点を理解し強調すべきですが、往々にして誤った理解をしている人がいます。

 どういうことかというと、稽古を単純に一教だの四方投げだの、個別技法の向上の機会ととらえ(それはそれで間違いではありませんが)、他の要素に気がまわらない人がままあるということです。つまり、技法練習の主人公は《取り》であると決めつけてしまい、それと同等かあるいはそれ以上に《受け》の練習でもあることに気づかないのは稽古の意義をよく理解していないと言わざるを得ないということです。

 合気道の稽古というものは、取りは取りのなすべき動きを、受けは受けのなすべき動きをそれぞれ正確に調和させて進行するものであるということに尽きます。ですから、力をもって投げようとか押さえようとかしないでよいのです。というか、そういうことはすべきでないのです。

 それを、合気道の稽古の意味を知らない門外漢が合気道は八百長だとか実戦に向かないとか言うのはご愛嬌として(一面事実ではあります)、稽古者自身が勘違いしてはいけません。まあ、八百長でもかまいませんが、せめて予定調和くらいは言ってほしいとは思いますがね。

 とにかく、取りがひとりで張り切り、やたら力んで受けを制しようなどと思わないほうが賢明です。ではどういう方法を用いれば理にかなった稽古になるか、そのことは次回に例示したいと思います。