既存のしばりを離れ新たな環境が実現できることを自由化というならば、昨今の合気道界は、さしずめ不自由化へ向けて歩を進めているような気がします。わたしが永年にわたり師事した黒岩洋志雄先生は、合気道についての考えに異議がある場合は相手が吉祥丸先生といえども堂々と自論を主張しました。その歯に衣着せぬ言動は時にけむたがられたりもしたようですが、相手に面と向かってものを言えた時代があったことをしのばせます。
この、『面と向かって』というのが重要なことで、大先生を頂点としてすべての弟子が同じ目標に向かって刻苦勉励しているという仲間意識があったので、もちろん先輩後輩として長幼の序はありながら、お互い遠慮なく意見を言い合える素地があったのであろうと推察しています。このことは、過日執り行われた黒岩先生の一周忌で拝見した若かりし頃の写真に、異論を唱えた当の相手の方々と一緒に並んで写っておられる姿を見て直感したことです。
写真からは、合気道の先行きがまだまだ不透明な時代に、一人びとりが斯道発展普及の当事者としての使命感をもって修行に明け暮れていた表情がうかがえました。先輩は後輩をいたわり、後輩は先輩を敬うというごく当りまえの人間関係があったであろうことは間違いのないところでしょう。そういう中で、黒岩青年が自論を唱えるのと同じように、他の方々もそれぞれのお考えがあったことであろうと、なぜか素直に受け止めることができました。
その時代、やはり合気道は未完の武道であり、これからますます成長していくべきものという認識が全員にあったのだと思います。このことは大先生が『爺はここまでやった。あとはお前たちがやっていくんじゃ』とおっしゃっていたと西尾昭二先生が証言しておられますし、また以前に紹介しましたように吉祥丸先生も『この武道は翁とその後継者の絶えざる努力によって、更に無限に向上し、その技法も益々飛躍発展して止まるところを知らぬであろう』とご著書で述べていらっしゃることから明らかです。
そのような経緯もあって、基礎、基本といわれるごく限られた根幹の技法、理合のみを共有し、それをどのように展開させていくかはそれぞれの志向や理念にもとづいて工夫を重ねることで間口と奥行とを大きくしてきました。百人いれば百通りの合気道を展開されたということは、みんなにそれぞれの合気道理解があったということです。
その後、つまり大先生ご逝去の後、遺された合気道技法が遂に完成したということも聞きませんから、いまでもその改良、向上の途上であることは明白です。そうであれば今も合気道に関わるすべての人がその大事業の当事者であることもまた明白だと思うのですが、どうもこのごろ、それはこうすべきだ、あれはやってはいけない、これこそが本物で他は間違いだ、というような狭量な思考が蔓延しているような気がします。これは、大先生、そしてまた吉祥丸先生や直弟子の先生方もまた世を去って、開祖から数えて孫弟子、曾孫弟子世代が中心となっている今、直弟子の先生方の理念や技法が発展とは逆に固定化してきているということの表れではないかと思われます。
従来、技法の拡散には特段の規制もなく、中にはこれが同じ名前の武道かと思うほど趣が大きく異なっているものもあります。技法の固定化あるいは保守化、それをここでは不自由化といっていますが、これはそのような状況に対する反動としてあらわれてきているのかもしれません。そういう状況下で幅をきかせるのが《開祖直伝》という肩書きのついた技法群であるわけですが、問題はそれを伝えた直弟子の方々がみんな武道センスにあふれ、大先生の体現された合気道の真の意味を理解しておられたというわけではないであろうということです(こんなことを書いていいのでしょうか)。その中には正鵠を射たものもあれば的外れのものもあったと考えるのがごく普通の判断です。先人の意見といえども、そのすべてが正しいと考えるのは贔屓の引き倒しで、合気道の健全な発展のためにはいささか考えものです。
合気道は良くも悪くも百花繚乱、自由度が高いのが長所ではなかったでしょうか。いましばらくはこのような状況が続いて構わないのではないかと、そのように考えています。つまり今はまだ不自由化すべき時期ではないと思います。なぜならば、淘汰に必要な吟味のための環境が整っていないからです。つまり誰かに『面と向かって』意見を述べ、かつ返答を得ることができる共通のテーブルがなく、したがって客観的検証ができないからです。こちらが一方的に意見を述べても、それに反論する相手がいないのであればそれは論争に値しません。それはまったくフェアではない。
そういう意味でわたしは昨年、分もわきまえず対象無制限の講習会を開催しました。当然ご批判もあるものと覚悟していますが、その批判こそ淘汰のための必要条件であろうと考えています。そのような壁をクリアしてこそ残すに値する技法でありましょう。そのようなやり方が許される状況の中で、各種技法が取捨選択され、淘汰されていくのが自然なあり方ではないでしょうか。そのためには、指導的立場にある方々には、それぞれの信ずる合気道を積極的に外に向けて発信、紹介していく努力が求められます。
いずれにしろ、それぞれの指導者の個性に支えられ多角的展開をみた技法群ですが、将来的には武道的存在意義というフィルターを通し淘汰されていくはずです。そしてそれは更なる展開を無限に生み出していく、それでこそ合気道の生命力が花開くというものです。