合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

147≫ 不自由化

2011-01-31 17:04:24 | インポート

 既存のしばりを離れ新たな環境が実現できることを自由化というならば、昨今の合気道界は、さしずめ不自由化へ向けて歩を進めているような気がします。わたしが永年にわたり師事した黒岩洋志雄先生は、合気道についての考えに異議がある場合は相手が吉祥丸先生といえども堂々と自論を主張しました。その歯に衣着せぬ言動は時にけむたがられたりもしたようですが、相手に面と向かってものを言えた時代があったことをしのばせます。

 この、『面と向かって』というのが重要なことで、大先生を頂点としてすべての弟子が同じ目標に向かって刻苦勉励しているという仲間意識があったので、もちろん先輩後輩として長幼の序はありながら、お互い遠慮なく意見を言い合える素地があったのであろうと推察しています。このことは、過日執り行われた黒岩先生の一周忌で拝見した若かりし頃の写真に、異論を唱えた当の相手の方々と一緒に並んで写っておられる姿を見て直感したことです。

 写真からは、合気道の先行きがまだまだ不透明な時代に、一人びとりが斯道発展普及の当事者としての使命感をもって修行に明け暮れていた表情がうかがえました。先輩は後輩をいたわり、後輩は先輩を敬うというごく当りまえの人間関係があったであろうことは間違いのないところでしょう。そういう中で、黒岩青年が自論を唱えるのと同じように、他の方々もそれぞれのお考えがあったことであろうと、なぜか素直に受け止めることができました。

 その時代、やはり合気道は未完の武道であり、これからますます成長していくべきものという認識が全員にあったのだと思います。このことは大先生が『爺はここまでやった。あとはお前たちがやっていくんじゃ』とおっしゃっていたと西尾昭二先生が証言しておられますし、また以前に紹介しましたように吉祥丸先生も『この武道は翁とその後継者の絶えざる努力によって、更に無限に向上し、その技法も益々飛躍発展して止まるところを知らぬであろう』とご著書で述べていらっしゃることから明らかです。

 そのような経緯もあって、基礎、基本といわれるごく限られた根幹の技法、理合のみを共有し、それをどのように展開させていくかはそれぞれの志向や理念にもとづいて工夫を重ねることで間口と奥行とを大きくしてきました。百人いれば百通りの合気道を展開されたということは、みんなにそれぞれの合気道理解があったということです。

 その後、つまり大先生ご逝去の後、遺された合気道技法が遂に完成したということも聞きませんから、いまでもその改良、向上の途上であることは明白です。そうであれば今も合気道に関わるすべての人がその大事業の当事者であることもまた明白だと思うのですが、どうもこのごろ、それはこうすべきだ、あれはやってはいけない、これこそが本物で他は間違いだ、というような狭量な思考が蔓延しているような気がします。これは、大先生、そしてまた吉祥丸先生や直弟子の先生方もまた世を去って、開祖から数えて孫弟子、曾孫弟子世代が中心となっている今、直弟子の先生方の理念や技法が発展とは逆に固定化してきているということの表れではないかと思われます。

 従来、技法の拡散には特段の規制もなく、中にはこれが同じ名前の武道かと思うほど趣が大きく異なっているものもあります。技法の固定化あるいは保守化、それをここでは不自由化といっていますが、これはそのような状況に対する反動としてあらわれてきているのかもしれません。そういう状況下で幅をきかせるのが《開祖直伝》という肩書きのついた技法群であるわけですが、問題はそれを伝えた直弟子の方々がみんな武道センスにあふれ、大先生の体現された合気道の真の意味を理解しておられたというわけではないであろうということです(こんなことを書いていいのでしょうか)。その中には正鵠を射たものもあれば的外れのものもあったと考えるのがごく普通の判断です。先人の意見といえども、そのすべてが正しいと考えるのは贔屓の引き倒しで、合気道の健全な発展のためにはいささか考えものです。

 合気道は良くも悪くも百花繚乱、自由度が高いのが長所ではなかったでしょうか。いましばらくはこのような状況が続いて構わないのではないかと、そのように考えています。つまり今はまだ不自由化すべき時期ではないと思います。なぜならば、淘汰に必要な吟味のための環境が整っていないからです。つまり誰かに『面と向かって』意見を述べ、かつ返答を得ることができる共通のテーブルがなく、したがって客観的検証ができないからです。こちらが一方的に意見を述べても、それに反論する相手がいないのであればそれは論争に値しません。それはまったくフェアではない。

 そういう意味でわたしは昨年、分もわきまえず対象無制限の講習会を開催しました。当然ご批判もあるものと覚悟していますが、その批判こそ淘汰のための必要条件であろうと考えています。そのような壁をクリアしてこそ残すに値する技法でありましょう。そのようなやり方が許される状況の中で、各種技法が取捨選択され、淘汰されていくのが自然なあり方ではないでしょうか。そのためには、指導的立場にある方々には、それぞれの信ずる合気道を積極的に外に向けて発信、紹介していく努力が求められます。

 いずれにしろ、それぞれの指導者の個性に支えられ多角的展開をみた技法群ですが、将来的には武道的存在意義というフィルターを通し淘汰されていくはずです。そしてそれは更なる展開を無限に生み出していく、それでこそ合気道の生命力が花開くというものです。


146≫ 実戦論

2011-01-17 14:46:04 | インポート

 年が明けてぼんやりしているうちに、まもなく大寒を迎えようとしています。そろそろ本格的にエンジンに火を入れなくてはいけませんね(これも電気自動車の時代になったら死語になるのでしょう)。

 昨年末にいただいたコメントでは、ここにお運びいただいている方どうしの意見交換があり、そこに寄せられた貴重なご意見をわたしも参考にさせていただきました。そこでのテーマのひとつが《強さ》の獲得にあるように思いましたので、過去文の重複になるところもありますが、これこそが武道における最重要の課題ですので、あらためてわたしの認識を述べてみることにいたします。

 まずはへ理屈から。ある言葉が何を意味するかについての共通理解がないと話が噛み合わないことがあります。今回の場合は《強さ》と《実戦》について定義しておく必要があります。実戦における強さについて語ろうと思うからです。

 さて、《強さ》には、身体的頑健さ、精神的強靭さ、競争技能の巧みさなど、いろいろありますが、今回意図するのは秀逸な制敵技法展開のことです。武道の本質的存在意義はそこにあると考えるからで、精神の涵養や健康の増進、保持なども武道の強さと大いに関係はあるのですが、この際は副次的なものととらえることにします。

 そこでまず言っておきたいことは、合気道のように決められたカタを繰り返すことで能力を高めていこうとする体技には、上手・下手の基準はあっても、強い・弱いという評価軸はないということです。稽古を重ねていくことによって直接的に手に入れられるのは上手さ、巧みさであって、自分で感じ取れたり客観的に認められる相対的な強さというものではありません。

 それでは、合気道において強さを手に入れるのは叶わぬ夢なのでしょうか。わたしはそうは思いません。本音を言えば現代武道で最も強さを獲得できるのは合気道だと、これはいささかならず贔屓目があるかもしれませんが、そのように思うのです。その理由は後で詳述することとします。

 次に《実戦》論です(【実践】論ではありませんのでご注意ください)。一般に実戦的というと直接打撃空手(いわゆるフルコンタクト)や反則の範囲を最小限にした格闘技(究極を意味するアルティメット格闘技と呼ばれる)を想起する方が多いのではないでしょうか。たしかに、最もストリートファイトに近い感じがします。とはいえ、やはり競技という範疇での強さであり、真の実戦に臨んでの強さというのは、それらとはいささか趣きを異にしますし、まして少年漫画などに出てくる無手で大勢の悪人をなぎ倒す正義の味方の、あのような夢のあるものではありません。これまでも言っております通り、闘争というのは本来、手段、方法を限定しません。ですから、一般的格闘競技で禁じ手とされる目潰しや金的蹴り、あるいは武器の使用などが、攻め手からも受け手からも当たりまえのように繰り出されるものなのです。

 勝つためにはどんな卑怯なことでもする、そのように、闘争というのは人間存在(自分も含めて)の価値を無視し、残忍なことを躊躇なく実行できる精神を持ち合わせているかどうかで勝ちも負けもするものです。そのようなことは善良な市民であろうとする人間には到底かなわないことのように思えますが、それでも大義名分があれば(戦時のように、あるいは某宗教原理主義者のように)、案外あっさり道を踏み外すことが可能です。そこには、戦争にも大義とルールがあるというのと同じように、ほとんど偽善的な価値観が息づいています。

 しかし、少なくとも個人のレベルにおいて、そのような、戦う相手に対し容赦なく攻撃をしかけ、ケガや場合によっては死に至らしめることも可能な闘争技術を発揮することは、今日的価値観からは決して許されるものではありません。無制限の強さと言うのは畢竟非合法の強さのことです。ここをまずはきちんと踏まえ、それでも想定される危険な状況にどのように対処できるか、これについて考えてみます。

 前段で、現代武道で最も強さを獲得できるのは合気道だと言いました。この強さというのが、実は先に述べた(非合法の)実戦における強さであって、ほとんど世に受け容れられそうもない強さです。そんなもの身に付けたってしかたがない、と言えばその通りです。ただ闘争技法の強さとはそもそもそういうものですし、自分に向けてそのような威力が加えられる可能性がないとも言い切れないご時世ですので、それについて考慮さえもしないとしたら、それは武道家の怠慢ではなかろうかと思います。

 さてそれでは、なぜ合気道か。その理由のひとつが試合のないことです。試合のある競技武道では、試合で勝てば強いという意識が生ずることで、あまり試合に利することのない技法には意識、興味が向きにくいということがあると思います。そしてまた試合で有効な技術(得意技)につながる体遣いは、意識の上で思いのほか応用展開が利かないということもあります。どういうことかといいますと、たとえば柔道の刈る足はそのまま蹴り足にもなり、掴み手は突きにもなるのに、また空手の前蹴りは金的蹴りそのものなのに、そんなことを試合で行使すれば反則になるのでそういう意識がそもそも芽生えにくいのです。そこではせっかくの多機能技法が単機能にされてしまっています。

 そこまで露骨でなくても、空手や柔道の試合において、武道的に優れていると思われる技法が試合ではほとんど評価されず(たとえば空手の裏拳、柔道の自護体)、場合によっては減点の対象になったりしているのを幾度も観ています。それでは修練の甲斐がありません。その点、合気道はカタ稽古中心の体術の特徴として体の隅々まで神経を張り巡らせ、ある種の状況の想定のもとに自在な体遣いを可能にしています(ただし稽古における想定はかなり限定されたものですが)。

 もうひとつの理由が、これも試合のないことと関係しますが、上手は上手なりに、下手は下手なりに技の有効性について考える機会が多いということです。この《考える》という行為は物事の深化には不可欠です。外からの情報だけではなく自分の言葉で理解することで、借り物ではない技法になっていくのです。 

 ところで、実戦とは不測の事態の連続です。前段で触れたように、競技武道では競技武道なりの合理性からひとつの動きにひとつの意味しか持たせませんが(単機能)、合気道の動きにはいくつもの意味、展開があります(多機能)。どちらが不測の事態によく対応するかは明らかです。そのような多面性、多角性に対応しやすいのが、逆説的ですが約束事の稽古ばかりやっている合気道ではなかろうかと思っているわけです。どこをどう応用すればそういう状況に対応できるかについて、その一部はこれまでにも本ブログで触れていますが、一番大切なことは固定観念の打破です。そのためには《個別の技をありがたがらない》という意識が大切です。

 もう一つ大事なこと、といいますか実は最も大事なことは《間合い感覚の獲得》です。間合いが勝負の8割を決めます。現代武道でそれに対応できる稽古法を持っているのはおそらく合気道が一番ではないでしょうか(肩取りは肘打ちやフックに変化しうる間合い、片手取りは順突きあるいはストレートの間合いというように)。もっとも、これ(稽古法)がそのような意味を持つと知らなければ宝の持ち腐れになりますが。間合い感覚は、ボクシングは別格として(間合いで成り立つ種目ですから)、一般スポーツの分野でもそれと無縁なものはありません。まして合気道ではもっと意識されるべきであろうと思います。

 以上、合気道は強いということのいくつかの理由を提示しましたが、それらのすべてを貫いているのは、つまるところ意識の持ち方なのです。どのような意識をもって稽古に取り組むか、稽古の意味を見出すか、それが強さを獲得できるかどうかの分岐点です。

 ところで、このごろ合気会の中枢では、合気道を護身術の範疇で語られることをあまりお望みではないようだと聞きました。たしかに護身術というのは目的と手段がかなり限定されますので、間口の広い合気道をその側面だけで語るのは不可能です。しかし、だからといって、その分野における効用を無視してよいということにはならないと思います。

 そのような片手落ちの評価を覆すために合気道家のなすべきことは、これまで述べたことと相反するように思われるかもしれませんが、実は各種技法を正しく駆使しての心身の練磨なのです。なぜかといいますと、実戦という意識を前面に押し出し過ぎると、万が一のときに、敵といえども人をあやめるおそれが無きにしもあらずということとなり、結果として武道練達者が反社会的存在の烙印を押されてしまう可能性があるからです。それではいくら武道の本質を極めたといったところで世間が許すはずがありません。

 そこで求められるのが、結局のところ、自他を尊重する合気道の精神と各種技法なのです。以前に奥村繁信先生の教えとして紹介した、『殺して勝つのは下、傷つけて勝つのが中、無傷で取り押さえるのが上で、合気道はこの上を目指す』ということです。これを武道家としての技量も心構えもない者(わたしのような)が聞きかじりでのたまっても笑い話にもなりませんが、しっかり修行を積んだ合気道家の言としてはこれ以上のものはありません。

 技というものはどれだけ稽古しても、自由勝手に動き回る相手に対し、そう容易にかかるものではありません。その精度を少しでも高めるために日々の稽古はあるわけです。はっきり言って、これは短時日で手に入れられるものではありませんが、そこでの方法論が間違っていなければ必ず強さを獲得でき、かつその強さを発揮しないで済む環境に身を置くことができます。そこまで行ってはじめて『護身術なんて小さい小さい』と言えるのではないでしょうか。


145≫ ややこしい話

2011-01-05 15:46:29 | インポート

 あけましておめでとうございます。

 年頭にあたり、こんな勝手なブログに辛抱強くお付き合いいただいている皆様に心から感謝し、本年もご健勝で公私にご活躍されますようお祈り申し上げます。

 昨年は近隣諸国との間に、近年にない不協和音が奏でられました。歴史的にも、隣り合った国どうしはギスギスした関係であることが多いようですが、国家にはそれぞれの価値観があり、それぞれの国益を求めてせめぎ合うのが普通なのであって、そのために日常的に外交、内政に尽力することこそが政治の役割です。

 その政治が国民の信頼を勝ち得ていないわが国の現状はまことに憂慮すべきことですが、わたしはむしろそういう世情の内側でひそやかに醸成されてきつつある国民の不寛容をこそ心配しています。ネット上を飛び交う様々な意見を側聞していると日本人はこんなに狭量であったろうかと思ってしまいます。

 それでも表面的には善隣友好を唱えるから話がややこしくなるのです。札束で頬を張られながら微笑を返すという図式ですね。これ、みっともないですけど案外日本人もしたたかであると言えば言えなくもないなと思えてしまいます。

 もっとも、そう言うわたし自身それほど寛容だというわけでもありませんが、なにしろ《武士は喰わねど高楊枝》が立ち位置で、ヤセ我慢こそ美徳だと思っているような時代遅れ人間ですから、空きっ腹をかかえながら口先だけは《愛と和合》を唱えている昨今です。

 ところで、国家間の摩擦と個々人の衝突は規模の違いこそあれ、発生のメカニズムはよく似ているように思います。そもそも摩擦や衝突というものは互いの力の差が大きければ生まれてきません。初めの時点でどちらか一方が制圧されるか庇護されるかに決まっているからです。いい大人が子供相手に真剣勝負を挑むことなどあり得ません。

 しかし、ひょっとしたら自分が優位に立てるかもしれない、という微妙な状況下では個人レベルでは闘争が、国家レベルでは戦争が発生する可能性があります。ですから、そのような問題を惹き起こさないためには圧倒的な力量差を確保するか相互利益を生み出す仕組みを工夫するのが常道です。もっとも、そういう理屈が通用しないこともありますが、より出現の可能性の高い状況への対応法を考えるのが合理的というものでしょう。

 わたしたちの場合、それは合気道を通しての人格の陶冶と技能の練磨をもって事に対処するということになります。上で述べた理屈に従えば、人格も技能の習得も生半可なものではなく相当程度のレベルでなくてはならないということになります。そこまで達しないまま争いの場に臨めば《生兵法は大ケガのもと》で終わってしまいます。それでもケガで済めばまだいいほうで、生命を含むあらゆる財産を失うこともありますから、よくよく慎重であらねばなりません。

 逆に言えば、どうしても戦わねばならない時は一切合財を失う覚悟で臨めということになります。《人を呪わば穴ふたつ》といいます。穴とはもちろん墓穴のことで相手用と自分用を用意しての相打ち覚悟を意味します。その覚悟ができないのであれば戦ってはいけない、そういうことです、国であれ個人であれ。

 ところで、わたしたち現代武道家は、戦わないために戦う技術を磨くというややこしい道を歩んでいます。わたしはそのややこしさの解明こそが武道精神を養うエネルギーそのものだと思っています。武道修行には大いなる頭脳労働が求められると考える所以です。どうせ一般素人からは戦いの役に立たないと思われている合気道ですから(そのような見方が誤りであることを次回に論ずる予定にしていますが)、せめて頭だけは精一杯使おうではありませんか。

 新年からややこしい話ばかりで申し訳ありませんが、かつて黒岩洋志雄先生が『わたしたちがやっていることは、国に置き換えれば国を守るということと同じなんですよ。個人であれ国であれしっかり守る気概がないといけませんよね。でも守るってのは難しいんです』とおっしゃったことがあります。普段あまり天下国家を論ずることがありませんでしたし、さらにそれを合気道に関連付けられたので今でも印象に残っています。

 まずはそのような心の置き所をしっかり定め、次回は闘争術としての合気道の可能性について考えてみることにします。