113回≪稽古のスタイル≫で、受け側の攻撃すなわち掛かりに対応する体捌きが大切だと述べました。掛かりへの対応とは、要するにそこで適切な間合いを現出させるということです。細かく言えば何十種類もあるうちのどのような対応をしようとも、自分にとって有利、相手にとって不利な間合いを意識的に作り上げるのがここでの勘所です。
そして今回はそれに続く動き、つまりいったん掛かりをさばいた後、極め技(一教の押さえとか四方投げとか)にいくまでの体遣いについて考えてみようと思います。これがうまくいかないと単なる力技を施さざるを得なくなりますので、やはり大切な要素ではあります。この部分の動きを≪つくり≫と表現する方もいらっしゃるようです。つくりは柔道の用語として知られていますが、合気道では必ずしも一般的ではありません(ということは、ことの大事さに気付かず、興味が薄いところにはそれを表す用語ができないということです)。
合気道も柔道も成り立ちからして縁が深く、ここで言わんとするところは一緒ですので、このブログでも用語として≪つくり≫を採用することにします。いや、むしろこの部分の重要性を認識、表明する意味では積極的にこの用語を使うのが良いかもしれません。もちろん細かいところでは柔道と異なりますので、そこは分けて考えることにします。
柔道においてつくりとは、相手を前後左右また斜めに押したり引いたりしながら崩すことで、ここから掛け(背負い投げとか足払いとかの極め技をほどこすこと)に移行します。つくりのないまま掛けにいってもほぼ技はかかりません。柔道草創期に対外試合で講道館が他の柔術流派に優越したのは、登場する柔道家一人びとりが柔術家としても、もともと強かったということはあるのですが、加えて、このつくりという考えを導入したおかげだといわれています。これこそ嘉納治五郎氏の工夫の賜物です。合気道だって実際に相手を投げたり倒したりするためにはつくりが絶対必要なのですが、現実にはわたしが思うほど重要視されてはいないようです。
ところで、わたしの出身大学の合気道部は合気会系ではなく、いわゆる富木流といわれるものです。その特徴は柔道の乱取りの考え方を合気道に導入し、試合形式を取り入れたことです。創始者である富木謙治先生は柔道出身ですが、昭和初期から開祖のもとで合気道修行を始められ、戦前、戦後を通じて合気道の指導に尽力された方です。
わたしは学生時分、体育の授業で柔道を選択していましたので柔道場には毎週行っておりましたが、そこは合気道部の稽古場でもあり、彼らの稽古を目にすることがよくありました。富木先生のお姿を拝見したこともあります。先生が合気道の指導者として活動されるようになった後も講道館との絆は保っておられた関係か、合気道部と柔道部は結構仲が良く、たがいに技をかけあって研究していることもありました。その中で今でも覚えているのは彼ら(合気道部)が崩しの工夫をしている姿です。どういうことをしていたかというと、相手を立たせて自分は相手の片手首を両手で掴み(要するに諸手取りです)、それにぶら下がるようにして、うさぎ跳びの要領で相手の周囲を回るのです。そうする中で立った相手が一番崩れる位置を見つけ出し、技に取り入れていくのです。試合では実際に自分の思い通りにならない相手を倒す必要がありますから、このような稽古方法を取り入れていたのでしょう。わたしたちよりはよほど崩しを重視している証です。
さて、つくりですが、合気道と柔道の違いは時間です。柔道はつくりを一瞬のうちに済ませるようにしますが、合気道の稽古においては必ずしもそれほど急がなくてもよいのです。つまり、受けの掛かり、それに対応する体捌き、つくり、極めをやや時間をかけて施すようになっています。もう少し正確に言うと、つくりの部分で崩しに至るまでに若干の間をとってかまわないということです。あるいは崩しに時間をかけるといってもいいかもしれません。ここに転換や転身など回る動きが入ってくるわけで、これこそが合気道の特徴です。ただし合気道でも実際の崩しはほんの一瞬できめますので、これは稽古で崩しの感覚を錬るための方法です。
そして、ここで大事なのは、回る動きのあいだ中、常に受けに対して圧力を加え続けるということです。ここは説明がやや難しいのですが、要するに受けの躯体が止まっている状態をつくらないということです。ものすごく単純化して言うと、例えば片手取り四方投げで、取りは受けの手首を掴みかえして動き出しているのに、受けのほうは取りに持たれた腕が肩関節を軸として持ち上げられるだけで体は動いていない状態、これではいけないということです。この場合、取りは動くべき方向すなわち受けへの力の加え方を誤っているのです。動き出しから終わりまで、取りは受けに対して常に力を加え続け、動かし続けていなければならないのです。でなければ取りは完全に受けに観察されているということになります。これではひとり相撲ならぬひとり合気です。
受けの掛かりに適切に対応し、動いていくなかで徐々に受けを崩していく過程を体感するところに合気道の醍醐味がある、というのがわたしの考えです。四方投げだったら、受けの腕を潜り抜けたときには既に受けの顔がこちらの目の下にある、一教だったら、こちらが2歩進めたときには受けが横座りのように尻をついている、入身投げなら、こちらが受けの真後ろまで回りこみ受けの腰が前に流れている、そのような状態にもっていく動きです。ここで大事なのは正確な体遣いであり、決して力や速さではありません。
このあたりのことは感覚的なものなので、どうしても稚拙な表現にならざるを得ないもどかしさがありますが、無駄な力を使わないで、ゆっくり動いても受けを崩せれば多分それが正解です。
今回は相手と触れたところから終末動作に至る、その間のことをお話しました。