合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

115≫ つくり

2009-11-26 11:54:26 | インポート

 113回≪稽古のスタイル≫で、受け側の攻撃すなわち掛かりに対応する体捌きが大切だと述べました。掛かりへの対応とは、要するにそこで適切な間合いを現出させるということです。細かく言えば何十種類もあるうちのどのような対応をしようとも、自分にとって有利、相手にとって不利な間合いを意識的に作り上げるのがここでの勘所です。

 そして今回はそれに続く動き、つまりいったん掛かりをさばいた後、極め技(一教の押さえとか四方投げとか)にいくまでの体遣いについて考えてみようと思います。これがうまくいかないと単なる力技を施さざるを得なくなりますので、やはり大切な要素ではあります。この部分の動きを≪つくり≫と表現する方もいらっしゃるようです。つくりは柔道の用語として知られていますが、合気道では必ずしも一般的ではありません(ということは、ことの大事さに気付かず、興味が薄いところにはそれを表す用語ができないということです)。

 合気道も柔道も成り立ちからして縁が深く、ここで言わんとするところは一緒ですので、このブログでも用語として≪つくり≫を採用することにします。いや、むしろこの部分の重要性を認識、表明する意味では積極的にこの用語を使うのが良いかもしれません。もちろん細かいところでは柔道と異なりますので、そこは分けて考えることにします。

 柔道においてつくりとは、相手を前後左右また斜めに押したり引いたりしながら崩すことで、ここから掛け(背負い投げとか足払いとかの極め技をほどこすこと)に移行します。つくりのないまま掛けにいってもほぼ技はかかりません。柔道草創期に対外試合で講道館が他の柔術流派に優越したのは、登場する柔道家一人びとりが柔術家としても、もともと強かったということはあるのですが、加えて、このつくりという考えを導入したおかげだといわれています。これこそ嘉納治五郎氏の工夫の賜物です。合気道だって実際に相手を投げたり倒したりするためにはつくりが絶対必要なのですが、現実にはわたしが思うほど重要視されてはいないようです。

 ところで、わたしの出身大学の合気道部は合気会系ではなく、いわゆる富木流といわれるものです。その特徴は柔道の乱取りの考え方を合気道に導入し、試合形式を取り入れたことです。創始者である富木謙治先生は柔道出身ですが、昭和初期から開祖のもとで合気道修行を始められ、戦前、戦後を通じて合気道の指導に尽力された方です。

 わたしは学生時分、体育の授業で柔道を選択していましたので柔道場には毎週行っておりましたが、そこは合気道部の稽古場でもあり、彼らの稽古を目にすることがよくありました。富木先生のお姿を拝見したこともあります。先生が合気道の指導者として活動されるようになった後も講道館との絆は保っておられた関係か、合気道部と柔道部は結構仲が良く、たがいに技をかけあって研究していることもありました。その中で今でも覚えているのは彼ら(合気道部)が崩しの工夫をしている姿です。どういうことをしていたかというと、相手を立たせて自分は相手の片手首を両手で掴み(要するに諸手取りです)、それにぶら下がるようにして、うさぎ跳びの要領で相手の周囲を回るのです。そうする中で立った相手が一番崩れる位置を見つけ出し、技に取り入れていくのです。試合では実際に自分の思い通りにならない相手を倒す必要がありますから、このような稽古方法を取り入れていたのでしょう。わたしたちよりはよほど崩しを重視している証です。

 さて、つくりですが、合気道と柔道の違いは時間です。柔道はつくりを一瞬のうちに済ませるようにしますが、合気道の稽古においては必ずしもそれほど急がなくてもよいのです。つまり、受けの掛かり、それに対応する体捌き、つくり、極めをやや時間をかけて施すようになっています。もう少し正確に言うと、つくりの部分で崩しに至るまでに若干の間をとってかまわないということです。あるいは崩しに時間をかけるといってもいいかもしれません。ここに転換や転身など回る動きが入ってくるわけで、これこそが合気道の特徴です。ただし合気道でも実際の崩しはほんの一瞬できめますので、これは稽古で崩しの感覚を錬るための方法です。

 そして、ここで大事なのは、回る動きのあいだ中、常に受けに対して圧力を加え続けるということです。ここは説明がやや難しいのですが、要するに受けの躯体が止まっている状態をつくらないということです。ものすごく単純化して言うと、例えば片手取り四方投げで、取りは受けの手首を掴みかえして動き出しているのに、受けのほうは取りに持たれた腕が肩関節を軸として持ち上げられるだけで体は動いていない状態、これではいけないということです。この場合、取りは動くべき方向すなわち受けへの力の加え方を誤っているのです。動き出しから終わりまで、取りは受けに対して常に力を加え続け、動かし続けていなければならないのです。でなければ取りは完全に受けに観察されているということになります。これではひとり相撲ならぬひとり合気です。

 受けの掛かりに適切に対応し、動いていくなかで徐々に受けを崩していく過程を体感するところに合気道の醍醐味がある、というのがわたしの考えです。四方投げだったら、受けの腕を潜り抜けたときには既に受けの顔がこちらの目の下にある、一教だったら、こちらが2歩進めたときには受けが横座りのように尻をついている、入身投げなら、こちらが受けの真後ろまで回りこみ受けの腰が前に流れている、そのような状態にもっていく動きです。ここで大事なのは正確な体遣いであり、決して力や速さではありません。

 このあたりのことは感覚的なものなので、どうしても稚拙な表現にならざるを得ないもどかしさがありますが、無駄な力を使わないで、ゆっくり動いても受けを崩せれば多分それが正解です。

 今回は相手と触れたところから終末動作に至る、その間のことをお話しました。


114≫ 特別寄稿 その3 なんば様より

2009-11-14 11:48:23 | インポート

 先日、試合形式のある合気道を修行されている≪なんば≫様よりコメントを頂戴しました。そこで、そのような立場からお気づきのところをお教え願いたい旨申し上げましたところ、早速興味深い経験談やご考察を寄稿してくださいました。

 とても貴重なお話で、このブログの読者の皆様にも是非お読みいただきたいと思います。そこで、コメント欄では更新を重ねるうちに読めなくなってしまいますので、いつまでもご覧いただけるよう本欄に掲載させていただきました。どうぞ今後の稽古の際の参考にしてください。

(なお、皆様から頂戴したコメントは、当方の管理画面では全て保存しております)

   

 ===特別寄稿 その3===  ≪なんば≫様より (以下原文のままです)

コメントありがとうございます。
僭越ながら試合で感じたことなどをコメントさせていただきます。

まず私自身の合気道の競技化に対する意見ですが,私は,合気道の完全な競技化には反対です。

合気道の技術の向上,技の習得を考えた場合,まずは型を正確に,繰り返し稽古して身につけることが必要だと思っています。

このため,合気道における試合では,勝つことだけを目的とせず,日頃の稽古の成果を試すこと,修得した型が実際にやった場合にどうなるかを検証することを目的とすること,これが第一だと思います。

もちろん,演武でなく試合ですから,勝ち負け度外視というわけではありません。

何が言いたいのかということですが,ただ勝てばよいという内容の試合では意味がないということです。
日頃の成果を試す機会として試合をすることに意味があると考えます。

本来は,日頃から考えて稽古しなければならないことですが,試合があることで,間合い,作り,崩し,技を考えて稽古できることにとても意義があると思います。

私自身の話をしますと,試合に出始めのころは,正に型稽古どおりに技をやろうとすることが多く,当然相手は型どおりの動きなどするはずありませんので,大した崩しもなく技を繰り出して力比べになってしまったり,技を掛けても手先だけで足がついていかずに途中で相手とぶつかったり,崩して技をかけたものの,手先で掛けている状態のため,相手がこちらの足につまずいて転んだり,そのときに,相手に腕を絡めていたために一緒に転んだりと,色々ありました。

間合いについては,試合では顔面への当て身なしというルールのため,お互い顔面を防御するという意識が低く,意外と近い間合いになります。
顔面有りなら不用意に近づくことも少ないとは思いますが,これはルールがあることの弊害だと思います。(もちろん素手で顔面ありの試合では,お互い怪我も多くなりますし,グローブを付けてしまったら打撃による攻撃を優先して,合気道技の検証の場にならない可能性が大きくなるため,顔面なしがよいと考えます。)

技に関して一番感じることは,動きが複雑な技は,実力差がなければほとんどかからないということです。

当て身はルールで限定された方法・場所にしか認められていないため,よほどいいところに入らない限りあまり効果が期待できません(顔面などがいくつか禁止されています)。
このため,体格差による優劣を覆すのが意外と困難です。

このような状況の中で,掛けやすいと感じる技は,側面入身投げ,肘当て呼吸投げ,腕絡み,肘締め,二カ条,連行法などです。
逆に掛けにくいと感じる技は,小手返し,四方投げ,一カ条,三カ条,四カ条,天地投げです。
お互い合気道を知っているということもあり,次にどのような動きをするのかわかりやすいものは防がれる場合が多いです。
また,実力が伯仲している場合,お互い技を出そうとするところで防ぐことが多いので,なかなか崩せない場面が多くなります。

このほか,合気道で必要かというところで悩みますが,試合では合気道技によるフェイントが意外と有効と感じます。
掌底を織り交ぜながらAの技を掛け,Aの技にかからないように相手が抵抗する,または逃げようとするところをすかさずBの技を掛けるというように,Aの技でフェイントすることです。
例えば小手返しを掛けて抵抗される(されそうになったら)肘締めをする。肘を極めると見せて側面入身投げをするなどです。

もちろんAの技で相手を制圧できれば,フェイントは必要ありませんが,きれいに決まるようなことはほとんど経験したことがありません。

だらだらと長くなってしまいましたが,私が試合を有効と考えるのは,合気道技の検証の場として,日頃の稽古で実践的な動きを研究・修得する場として緊張感を持って稽古するためのものとして非常に有効だと思うからです。
試合がなくても試合があるのと同じ稽古がずっとできるのであれば,試合は必要ないのかもしれませんが,日頃,全く試合に出ない人との稽古の状態を考えると,やはり試合には意味があるなと感じています。

合気道を始めてまだ数年ですので,合気道に対する理解も足りないためつたない文章でしたが,色々書かせていただきました。これからもよろしくお願いします。


113≫ 稽古のスタイル

2009-11-10 11:38:34 | インポート

 今回は稽古のスタイルについて述べようと思いますが、ここで言うスタイルとは姿、格好のことではなく、稽古の組み立て法ととらえていただくと良いと思います。これについてはそれぞれの道場でそれぞれの先生が様々に工夫しておられることと思います。

 その方法に一定の決まりはありませんので、いろいろな先生の指導を受けられるなら、それらの違いを経験するのも楽しく、参考になります。わたしがかつてO道場に在籍していた頃は、今日はあちらの道場でA先生、明日はそちらの武道館でB先生といったふうに、先輩の誘いや耳情報を頼りにあちこちで稽古や講習会に参加させていただいたものです。西尾先生や黒岩先生に出会ったのもそのような経緯からでした。

 ですがこのごろは万が一の事故発生時の責任の所在が厳しく問われることもあり、またその他もろもろの管理上の問題から自由な対外参加、交流が難しくなってきているようです。なにしろ10年ほど前、古巣のO道場を訪ねた折り、道場管理者が代替わりして(かつての道場長のお身内らしい)面識のない方であったこともあり、飛び入り稽古を断られ、時間の流れを実感した次第です。

 そのO道場時代のことを思い返してみると、常の稽古でも週に4人以上の先生の指導を受けられたことは幸せでした。ただその先生方も、自分の指導法はこれこれこうですとはっきりおっしゃった方はおられなかったように記憶しています。もちろんそのようなことを言わなくても独自に一定の方法をとっておられたのかもしれませんし、言ったからどうだということもないでしょう。ですが、教えるほうのスタイルがあるように、教わるほうにもスタイル(自分にとって身につきやすい方法)があり、それが合うか合わないかは上達に少なからず影響を与えることになります。

 たとえばわたしは、一通りの動きを理解してから動き出すタイプなので、≪始め≫がかかってもしばらくは頭で整理する時間が必要です。一方『間違ってもいいからまず動きなさい』という指導法をとる先生もおられましたので、『きみ、どうして始めないの』と声をかけられることもありました。まさか、教わるほうが自分のスタイルに合わせてくれとは言えませんから、あいまいな笑顔でごまかしていましたが、そういうこともありうると、いま自分が指導的な立場になって思い返しています。

 前置きが長くなりました。わたしの方法を述べますが、まず受けが取りに仕掛けていくこと(片手取りだとか正面打ちだとか)を仮に≪掛かり≫と表現することにします(武道用語としてもっとふさわしい言葉をご存知の方はどうぞお教えください)。わたしはこの掛かりに対応する取りの体捌きが最も重要だと考えています。それで、普段の稽古でも、ひとつの掛かりから複数の技を展開するような方法をとることにしています。

 具体的にいうと、今日は両手取りだと決めたら、両手取りの四方投げ、両手取りの一教、両手取りの入り身投げ、両手取りの天地投げ(これは当たりまえ)というように、一種類の掛かりだけを採用します。両手取りに対応した取りの体捌きにもいろいろありますから、一回当りの稽古では、これでも十分過ぎるほどです。

 指導者によってはわたしとは逆に、一教なら一教と技を決めて、いろいろな掛かりからの一教への誘導法を重点に指導される方もあるでしょう。わたしのやり方と違うからこれはダメだと思っているわけでは全然ありませんし、一つひとつの極め技を覚えるのにはむしろそのやり方のほうが優れているとさえ思います。事実、わたしの主宰する会のメンバーからは、わたしの指導法は審査向きではないとも言われています。なるほど、審査を念頭に置けば、確実に技を覚え、その数を増やしたい時に、体捌きなどを強調されてもありがた迷惑かもしれません。

 にもかかわらず、わたしが前述の方法を採っているのは、武道として最高のものを作り上げるには、間合い感覚が大切であり、そのためにはどうしても体捌きが重要だと思うからです。その体捌きは足遣いに支えられていますが、この足遣いというものは身に付けるのに時間がかかり、その割には地味で成果もすぐには見えない、とても根気のいる稽古です。四方投げや一教などの個別の極め技もそれぞれ難しいのは言うまでもありませんが、足遣いがいい加減ではそれらの技もハナから成り立ちません。

 そのように、一定の掛かりに対して適切に応じていく動きを、その日の稽古の課題とするわけです。お互いが構えたところから、動き出しに合わせてスッと理想的な間合いをつくるのですが、これが言うに易く行なうに難しというやつです。そして、全身に力をこめてギュウギュウ押しつけたり引っ張りまわしたりするのではなく、受け、取り双方がともに主体的に、それぞれ最適な位置取りを丁寧に探るような動きを展開していくのが良い稽古だと思います。

 それに比べれば個別の極め技などは、それこそちょっとしたコツでなんとか形になります。それを黒岩先生は『あとはオマケですから』とおっしゃっています(これはこれで工夫が必要ですが、知ってしまえばできるという性質のものです)。

 先にも述べたように、わたしのやり方が全ての人にとって最善というわけではありませんが、武道として何が大事かというところだけはご理解いただきたいものと思います。