合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

99≫ 間合い その2

2009-04-27 19:04:03 | インポート

 今回は間合いというものを受け(先に突っかけていくほう)の立場から、横面打ちを例に考えてみたいと思います。

 合気道は、原則として一足一刀の間合いです。一歩踏み出せば相手に当たる距離でお互いが構えます(演武会でよく見かける、遠くからドタバタ走ってきて手首を掴んだり打ちかかったりというのは、この際論外です)。半身に構えた場合、この一歩が前足であるか後足であるかによって、状況は大きく違ってきます。後足から出るような、いわゆる歩み足は遠間からつめてくるような場合の遣い方です。すでに間境にあり、次の踏み出しで間中に入ろうとするとき、工夫もなしに後足を踏み出すことでこちらの正面をさらすことは原則として嫌うべきものと考えます(ただし、柔道や相撲など、理念が若干異なっていたり、突き、蹴り、あるいは斬りなどをあまり考慮しなくてよい武道では、真正面から組み合うことが基本とされることはあります)。

 しかし、各種教本では、横面打ちにおける受けの打ち方として、相半身から歩み足を遣い、後ろ手を大きく振り回して打っていくように表現されています。そのため、間合いを若干大きく取っているようです。多くの方がそのようにされているようですし、それはまあそういうことになっているのでしょうから文句を言わずにやれば良いところですが、へそ曲がりとしては、どうもひっかかるものがあります。

 わたしは、はじめから逆半身にとり、正面打ちと同じように振りかぶり、そこから相手側面に入りながら横面を打っていきます。ただし、これはわたしのオリジナルということではなく、いずれかの先生(西尾先生だったか?ただし先生は指導のときはあまり受けはやりませんし、取りでも後年は自然体に構えておられたようです)に教えていただいた方法だと思います。

 たしかに、一般的な相半身からの打ち込みには状況によっては合理的といえる理由がないわけではありません。ひとつは、短刀などを体の後ろに隠し持って斬りかかることを想定した場合です。ただ、既に武器の所持を知られている場合には隠す意味がなく、それを稽古で行うことにどのような理由があるのかはわたしの理解を超えます。

 もうひとつは、今の理屈とは逆で、後ろ手から打ってくることはないだろうと相手が思っているような場合には有効です。ただこれも、ストレート系ならまだしも、横面打ちのようなものでは、いわゆるテレフォンパンチと同じで、手刀が到達するまでの動作がよく見えるので相手(取り)に対処のための十分な時間を与えてしまいます。

 【それに関連して、ここで少し余談です。ちょっと前のK-1で、日本拳法出身の選手がリードパンチなしでいきなり後ろ手から縦拳ぎみのストレートを放っていき、おもしろいように相手の顔面をとらえていたのを観て、得心したことがあります。というのは、かつて黒岩洋志雄先生が次のようにおっしゃっていたことを思い出したからです。それは、『空手の人とボクシングをすると、こわいんですよ。なぜかっていうとね、あの人たちは一撃必殺が理念だから一発で倒すつもりで打ってくるんですよ。僕たちだったらジャブを2、3発だしてね、それから極めのパンチをだすでしょ。だから、むこうもそうしてくるだろうと思っているとね、いきなり重いパンチがくるので、こっちはあわてちゃうんですよ』というようなことでした。】

 本筋に戻ります。

 また、剣術の八相や脇構えのように左肩を突き出して相手に誘いをかけて打ち込む場合、また相手の斬り込みや突きを一歩引いてかわすような場合に半身を切り替えることは多々あります。ただしこれは後の先をとろうとするもので、合気道でいうところの取りの遣い方です。そのように、取りがあえて正面を見せることを厭わず半身を変えることはありますが、受けがわざわざ正面をさらしながら打ち込んでいく合理的理由はありません。

 そんなわけで、わたしが、相半身から後ろ手で打っていくことを肯んじ得ない理由を二、三あげてみましたが、実のところそれはオマケといってもよいくらいのものです。わたしがそうしない最も大きな理由は別にあります。

 それは、間をつめた先にある、相手と接触するその一点(空間と時間)の設定が合気道として非常に重要だという前提によります。後ろ足から大きく踏み出す打ち方では、移動量の大きさに比例して空間識の幅も大きくなり、その一点の緻密な設定を担保し得ないと考えるからです。つまり、打つべき時に打つべきところを打つ、その一点(接触点)に向かう精度が間違いなく落ちるということです。それでわたしは正面打ちの構えから打っていくようにしています。そのような精度は必要ないという考えももちろんあるでしょうが、これがわたしの考える合気道です。

 また、正面打ちの構えから、そのまま正面打ちにも横面打ちにも変化できるのは(剣術でも正眼から真っ向斬りも袈裟斬りも出すように)、攻める側のアドバンテージであると同時に、稽古法としても有効だと考えるからです。わたしはいくつかの限られた体遣いからいろいろな技を展開できることが合理的だと考えています(もちろん、その体遣いは稽古による様々な動きの集積に基づくものです)。ですから、構えにおいても、正面打ちの構えはこう、横面打ちの構えはこう、ということではなく、ひとつの構えからどちらもいけますよというのが本当ではないかと思っているのです(もしかしたら、ただのわたしの好みかもしれませんが)。このことは間合いの問題と直接には関係ありませんが、やはり攻防両者が接触するその一点に向かって、互いが正中線の確保と最大限の集中をもって臨むべきだと考えると、受けの打ちこみがいい加減なものでは真正の稽古にはなりません。

 間合いというのは、取り、受け双方の思惑によって作り上げられるもので、どちらか一方でもその精度を落とすようなことをすると、それこそ間の抜けた稽古になってしまいます。一分一厘の違いで命を長らえたり失ったりというのが武術の実相であることをわきまえて精進したいものです。


98≫ 間合い その1

2009-04-09 13:30:59 | インポート

 このブログで《間合い》という言葉をどれくらい使っているか、バックナンバーから調べてみたら、97項中17項に出ていました。間合いは武道を学ぶ者にとって極めて大切な空間認識であろうと思います(間合いには時間認識や意識も含まれますが今回はそれには触れません)。間合い感覚のない武道は武道ではないと言っても過言ではありません。

 話は一転して、合気道には教えたがりが多いと、自嘲も含めてこれまで述べてきていますが、教えることで自らも成長するということはあると思います。それは、説明の必要上、それまで何気なくやっていた動きを一旦細かく分解してまた組み直すという作業を経るからでしょう。その時、思いがけず新たな、というか内在していたけれども見逃していた解釈を得ることがよくあるのです。

 幸いにしてわたしは、合気道の技法と理論のそれぞれの第一人者といってよいであろう西尾昭二先生と黒岩洋志雄先生の教えを受けられる環境にありましたので(西尾先生には日曜稽古と呼んでいた主に有段者対象の稽古を約2年ばかりという短い期間でしたが)、かなりの部分で技法本来の意味を知ることができました。おかげで合気道の意義を過大も過小もなく、ごく適正に評価する能力を身に付けることができたと、これは若干過大評価をしております(俗に自惚れと申します)。

 しかしながら、いくら優秀な先生の教えを受けたとしても、その全てを受け継げるわけではありません。だとすると、肝心なところを教えていただいたあとは、それを物差しにして物事の理非を自分で判断していくことになります。

 以前に、西尾先生の技を黒岩先生に解釈していただいたということを述べていると思います。そのやり方で今回はそれを《間合い》にあてはめ、技法がどのように展開していくかを考えてみようという魂胆です(具体的にそう教わったということではなく、あくまでも考え方、やり方です)。

 ここでは、肩取りと片手取り(一教等)を例にとって、その違いを考えてみます。これを、単に掴む箇所の違いとだけ考えるようでは、二千手だか三千手だかの技数を誇るだけの上っ面合気道家と同じになってしまいます。これはいつにかかって間合いの問題なのです(バックナンバー64でも若干触れています)。

 やってみれば誰でもわかることですが、肩を掴むか手首を掴むかで最初の間合いが決定されます。肩取りは少し踏み込めば、パンチならフックが届く至近距離です。同様に片手取りはストレートの間になります。当然足運びも違ってきます。

 これで思い出されるのは西尾先生の肩取りの捌き方での運足です(今回は主に足に注目します)。先生のやり方はこうです。仮にこちらの右半身とすると、肩を取られると同時に左足を右足に揃えて並べます。そこから、表技なら左足を軸にして右足を後方に回し受けを自分の前面に泳がせるようにします。裏技なら両足を並べた状態から右足を右斜め後方に踏み移し、すぐに左足を右足前に追随させます。

 ここで大事なのは、両足を並べるということです。右半身から左半身に踏み替えをする途中の段階で、一旦靴を揃えるように両足を並べるのです。そこから右足を後方に回したり引いたりするのですが、このとき、体重をのせた膝はやや曲げ、腰の高さや位置を変えません。この足遣いは、当時教えていただいた大森流居合初発刀の血振りから納刀に移るときの踏み替えとほぼ同様のものです(今は夢想神伝流初伝として扱われています。同じく大森流を包含する無双直伝英信流では、突っ立った形になり、これだと体術的ではありません)。

 西尾先生が稽古に積極的に居合を採り入れておられたのは、合気道の理合が剣の理合と共通だからということだけではなく、実際具体的に同様の体遣いがあるからだということがこれでわかります。そのほかにも合気道に活かせる体遣いがいろいろあります。

 これが片手取りになると、両足を並べるのではなく、左足は右足先を越してもう少し相手方に踏み込んでいきます。あとは同様です。ここまで特に触れないできましたが、左足が出るとき、同時に左手を下から振り出し、顔面当てを入れます(もちろんかたちだけで実際に入れるわけではありません)。これはほぼアッパーカットのように顎を狙いますが、その適切な間合いを作るために、最初から間の近い肩取りでは両足を並べ、それより若干遠い片手取りでは左足を大きく踏み出すわけです(そうしないと当てがそれこそ当て外れになりますから)。これこそが、同様の技法でわざわざ肩と手首を分けて稽古する目的です。

 間合いは武道の核心ですから、これをおろそかにした稽古は考えられません。それを体で覚える仕組みが合気道のカタにはちゃんと組み込まれています。そこをわからないとせっかくの技法を宝の持ち腐れにしてしまいます。

 さて、いまでも教えを頂いている黒岩先生の真骨頂は、他に類を見ないその独特な技法もさることながら、以上のような、技を分析してその本来の意味を探り当てる技法解釈法にあると思っています。百花繚乱というか百家争鳴というか、とにかくいろんな価値観が入り乱れる現在の合気道界にあって、正しい技法解釈法に基づく明確な判断基準こそは道を外さないための利器でありましょう。