「ほんとは○○したいんだけどね…」って発言を聞くと、やりたいなら早くやればいいじゃん、と思う。
やらないんなら、その“ほんと”はウソなんだと思う。
死ぬときに「あれやってりゃよかったなぁ」なんて思ったらヤじゃない?
俺はイヤだ。
惰性で生きて、惰性で老い、惰性で死ぬなんて、考えただけでもゾッとする。
ま、ラクはラクなんだろうけど。
ごめん。言い過ぎた。幸福の形は人それぞれだよね。
最近、頭が固くなってイカン。
「ほんとは○○したいんだけどね…」って発言を聞くと、やりたいなら早くやればいいじゃん、と思う。
やらないんなら、その“ほんと”はウソなんだと思う。
死ぬときに「あれやってりゃよかったなぁ」なんて思ったらヤじゃない?
俺はイヤだ。
惰性で生きて、惰性で老い、惰性で死ぬなんて、考えただけでもゾッとする。
ま、ラクはラクなんだろうけど。
ごめん。言い過ぎた。幸福の形は人それぞれだよね。
最近、頭が固くなってイカン。
自分ではほとんど使わないけど「ぱねぇ」って言葉がかなり好き。
「半端じゃない」→「ハンパない」→「ぱねぇ」
う~ん、無駄がない。
言葉のアイデンティティを損なうことなく、ここまで簡素に表現できるとは。
お見事。
誰が言い始めたかは知らないけど、引き算で創造するのは大事だと思うし、過不足ない状態ってのはそれだけで美しいと思う。
「ぱねぇ」。ふつーに辞書とかに載って欲しいもんね。
例えば、お茶の席で「結構なお点前で…」の代わりに「ぱねぇ」と言ってみてはどうか。
国会で子供のようなヤジを飛ばされたら「あんたら、ぱねぇな」と返してみてはどうか。
使い古された行為や言葉は、どうしても形骸化して本来の意味を失ってしまう。
そこに新しいものを置くことによって、場が彩りを取り戻すのであれば、その行為はもはや芸術と言っても過言ではないと思う。
こと言葉には、常にそういうふうに呼吸していてもらいたい。
古いものの良さ、新しいものの良さ。
島崎藤村的に考えると、恐らくどんな言葉よりも「ぱねぇ」がはまるシチュエーションというものがあって、他の言葉では置き換えることができない唯一無二の効果をもたらすことができるはず。
人も言葉も、そういうところに置くことで、本当の意味で生きることになる。
『宇宙戦争』って映画があるじゃないですか。
あれ、昔あった映画のリメイクらしいんですね。
僕はスピルバーグ版のほうしか見てないんですが。
宇宙人がいきなり現れて問答無用の殺戮を始めるわけですよ。
その圧倒的な科学力の前に人間はなす術なし。
巨大なマシーンから発射されるレーザーで粉みじんに消されちゃうんです。
理屈が通じない相手って恐いな~って思います。
名もなき草その1「おはー。今日もいい天気だね!」
名もなき草その2「おはーってお前、古くね? あ、やべ。今の風、超やべー。スガスガしい! やっぱこの時期は朝が最高に気持ちええわ」
名もなき草その3「ちょっと、アレ見て。なんか来たよ。なんか手に持ってる……。え? ウソ!? やめろって!! おい、やめ……ギャース!!」
名もなき草その1&その2「ギャース!!」
大量殺草鬼・U(俺のことね)「ふ~、朝の労働は気持ちがよいゼ。やっぱ田舎暮らしはこうでなくっちゃ! 東京のヤツらも早く来て、こういう健全な汗を流すといい。これで帰ってシャワーを浴びれば、ストレスなんか全部流れていっちゃうってもんよ」
いきなり鎌を持って現れ、バッサバッサとなぎ倒していく人間。
なるべくなら、除草剤を使わずより人力に近い形で、やっつけてやるのがせめてもの誠意。
装備を全部外して、素手で殴り合うプレデターみたいに。
当然、殺るからには殺られる覚悟も必要。そのうちM・ナイト・シャマランの『ハプニング』みたいに、草たちに逆襲されても文句は言えません。結局、『宇宙戦争』でも宇宙人たちはウイルスにやられちゃったしね。
あと、名もなき草呼ばわりするのも失礼な話なので、近いうちに野草事典でも買おうかと思ってます。
ま、全部自己満です。
どうあがいても僕には「殺す」行為を正当化は出来ません。
俺の欲求のために死んでもらいますとしか言えません。
罪悪感が残らないように、「誠意」などという言葉を使ってみるも、つまりは道化でしかありません。
同族を殺せば世間から責められるのに、他の種族はいくら殺してもほとんど責められない、害虫や雑草に関しては殺さないと周囲の農家さんから責められる始末。
人間社会はひどく独りよがりだ。
それでも、分業化が進んだ都市部で殺すことを知らずに生きていくのもアレなので、田舎でそういう生の経験(草だって刈れば、血に相当するものを流す。泡を吹くやつもいる)をしながら生きるほうが性に合っています。
自然界には生も死も無数にある。自分自身もその1つに過ぎないことを肌で感じたい。
—前略
礼奈「結局、ユウは私のこと、何も分かってない…」
俺「そんなことない、分かってるって(棒読み気味)」
礼奈「じゃあ、私が今1番欲しい物、何だか分かってる?」
俺「(きた。厄介な質問。しかしコレを外すと更に厄介な事態を招くことは必至!!)……指輪?」
結婚したときは、そんな束縛の象徴のような物をわざわざ身に付けることはない、ということで納得してもらい指輪は買わなかったものの、先日の妹の結婚式を見て、やはり欲しくなったのだろうという読みだ。
しかし、礼奈の回答は意外なものだった。
礼奈「やっぱり! 全然分かってないね。答えは『ミキサー』よ。私がどれだけ健康志向か、知らないでしょ! 毎朝、野菜やフルーツをミックスして飲みたいの!!」
俺「分かるか!! っていうか、そんなん欲しいならすぐ買え!!」
分からない。女という生き物が分からない。
分からないから、分かり合おうとする姿勢が大事なんだと思う。
僕らはそれを愛と呼べばいいんだと思う。
でも、愛があっても、この質問には答えられないと思う。
だって、どう考えても「指輪」だろ、ふつー。
静寂と対話することによってのみ、人は真に成長することができるのではないか。
そして現代社会には、そういう場が少なすぎるのではないかと思う。
穴の中で、穴に拒絶されながら生きる。
それが僕の願望であり、これを捨てることによって、僕らは幸福になる。
しかし、その幸福は僕が辿り着くべきものなのか。
僕はそういう類の幸福に満たされる人間なのか?
人生をかけて追求すべき形は、存在と欠如の融和、即ち、それはたゆたう紫煙の曖昧さであり、よりソリッドに言えばドーナツに象徴される○○(感覚的には掴みつつあるが、○○に置くべき単語、概念と言ってもいいかもしれない何かを僕はまだ見付けられていない)と考えている。
そのために、生きていく上で必要最小限の線は力強く引きながらも、その行為の意味を理解し、同時に恐怖することを忘れてはいけない。
線を引く喜びに支配され、その行為に対する恐怖心を失ったとき、僕の中核をなす何かが死んでしまうだろう。
裏を返せば、それさえ忘れずにいれば、どこで何をしようとも僕は僕で在り続けられるということでもある。
人生のなかで、真を見付けたのなら、全身全霊でそれを守り通すこと。
さもなくばすべては徒労に終わる。
自分の生きる場所って、自分で作っていくもんだと思うんだよね。
他人が用意した居場所にピッタリはまれる才能を持ってる人はそれでいいんだけど、僕や僕が共感するような人たちは、そこから何らかの形ではみ出すタイプが多いみたい。
はみ出し方はいろいろだけど、自分の居場所がどこにもないような錯覚にとらわれて自殺なんてのは、もってのほか。
そうなる前に、僕らみたいなアウトサイドでこっそり楽しんでる人間と出会って人生の楽しみ方を見出せればいいんだけど、ピッタリはまれる人たちに囲まれて暮らしていると、どうしても自分がダメなヤツに思えてきちゃうんだろうね。
友人のゲンキくんの名言にこんなのがある。
「イビツな形にはパワーがある」
その通りだと思う。そして、本来、正円の形で生きられる人なんてそうそういるもんじゃないと思う。
個々に完成した形が整然と並ぶ幾何学的な社会もいいけど、不完全な形がピースとなって全体を構成するような社会のほうが、より人間的で美しいよね?(感性の問題だけど)
微力ながら、そんなコミュニティを作っていきたいと思い、瀬戸内の離島で暮らしてます。
アウトサイダーにはスーツはキツすぎる。百姓はスーツとか着ないからいいね。
ところで、百姓の「姓」って漢字は仕事のことなんだって。
農産物を作るには、それに付随する様々なことを自分でやる必要がある。つまり百の仕事をやるから百姓。
メディアなんかでは差別的なニュアンスを含むという認識の単語だけど、実際の農家と話していると百姓と自称することが多いことに気付く。
その根底には、なんでも自分でやってやるっていう気概が感じられる。
自分の居場所は自分で作ってやる!っていう気概。
でも、現状、日本の農業は個人では難しいので、僕の理想はあくまでDIO。
Do It Ourselves.
(故ロニー・ジェイムスさんのファンではないよ。笑)
みんなで楽しみながらいきましょ~。
このところ、ブログを書く回数が減っている。
僕にとってブログとは、文字による自己存在の彫刻。
荒木さんが、馬のレースを描きながら人間存在の本質を削りだそうとするように、僕はとりとめもない文章を綴って自分の本質を模索する。
「忙しい」というのはただの言い訳で、本来は何にも優先して自らと向き合う必要が僕にはあるはずなのだ。
形而上学的なものに重きをおく僕にとって、自分の小ささ、醜さ、愚かさ、ふがいなさ、そういうものを思い知ることがすごく重要なのだから。
昨日、ふとした瞬間に春を感じた。
太陽暦とか日照時間とか気温とかは関係なく、感覚的に「ああ、今は春なのだ」と思った。
海に向かう道を歩きながら、静かなみかん畑のなかから「パチン」と、切れ味の悪いハサミでヘタの付け根が切り取られた音が響いた。その瞬間に。
なんなんだろうね、そういう感覚の根底にあるものは。
『誰かが植物の茎を切ったこと』と『僕のなかで季節が変わったこと』。
まったく関係のない2つの事象が同時に起こったってことが、すごく自然で、また不思議でもあった。
ほんと、なんなんだろう?
今、その瞬間を思い返すと、あまりにも愛おしく思えたので、ドライジンをストレートで飲んでみたものの、これといった答えにはたどり着けなかった。
それでいいんだろうね。きっと。
口のなかに残る、かすかな柑橘の香り。
計らずして、そんなドライマティーニに舌鼓。
こんなに美味いカクテルを飲んだのは、いつぶりだろう。
昼。
たろーさん(肉屋)「今日、何時にする?」
僕(柑橘加工会社販売促進部)「え、なんか約束してましたっけ?」
たろーさん(パスタ3級)「いや、突発的に」
僕(NPO農音・柑橘バイヤー見習い)「何するんすか?」
たろーさん(奥さん失踪中)「パスタの試食会」
僕(奥さんと別居中)「仕事終わるの9時くらいになりそうですが」
たろーさん(天理教信者)「OK」
僕(無宗教)「ちなみに何ソースですか?」
たろーさん(山愛好家)「創作」
僕(むしろ海派)「パスタは何を使うんですか?」
たろーさん(39歳)「普通のやつ」
僕(32歳)「普通て……(笑)。太さは?」
たろーさん(愛読書『ぜんぶわかる人体解剖図』)「……。1.7か1.8だったと思う」
僕(愛読書『SBR』)「1.8は太すぎでしょ!」
たろーさん(ブルース・スプリングスティーンファン)「終わったら電話してよ」
僕(ヴァン・ヘイレンファン)「終わったら電話します」
そんなこんなで、中島にパスタ愛好会が誕生しました。
メンバーは上の2人と岡田さん(クールな有機農家)の3人。
岡田さん(中島歴12年)はまだ加入させられたことさえ知らないが。
21:15
大内邸の玄関先には、にんにくがキツネ色に焦げたいい匂いが漂っていました。
キッチンを覗くと、創作パスタのハズが、何かのレシピをメモったらしき紙がありました。
結局、使ったパスタはトルコ産の見たことない銘柄のものでした。しかも太さは1.6ミリ。嗚呼、真実はどこに?
きのこと鶏とタマネギとピーマンを炒め、ポークソテー用のトマトソース(業務用)で味を整えるという荒技。そんな…。レシピ無視ですかい。でも見るからに美味そうだ。
残念ながら、せっかく松山で買ってきたバターの風味は、ポークソテーソースと入れすぎたオリーブオイルにかき消されていましたが、ガツンと濃い味で一番搾りを2缶も頂いてしまいました。
惜しむらくは、ソースを絡める時間を計算に入れてなかったようで、かなり茹ですぎだったパスタ。
ところで先日、僕の強い要望により、トミナガ(島のスーパー)にボスコのエクストラヴァージンオリーブオイルが置かれるようになりました。
これでみんな安心して島に移住できるね♪
次はホールのブラックペッパーを入れてもらうよう嘆願してみます。
あと、ついでに今夜、登山部も結成されました。
当面の活動予定は5月に石鎚山の天狗岳を制覇すること。
たろーさん(実家は豆腐屋)は、山に登ることで心と体の接点が最大になるのだと主張します。
僕は「ふ~ん、そんなもんですか」と応えておきました。
食後にコーヒーを飲みながら、「テレビは早く買ったほうが良いよ。で、NHKを見るといい」と言うたろーさん(PS3とPSPを所持)に、僕はEテレの『0655』を強く勧めておきました。彼はその番組名を聞いてニュース番組だと思ったようでした。
帰り際に、「3月14日には、ダメ~な感じの男2人でクッキーでも焼いて、島のおばちゃん&おばあちゃんたちに無差別に配りましょう」と提案したら、「その日は俺、島にいないから無理。いても、やだ」と断られました。その口調からは「俺、ダメじゃねーし」というニュアンスが感じ取れました。
僕は「じゃあ、別の企画を考えておきます」と言い残して大内邸をあとにしました。
なんだか、楽しい中島ライフ。
田舎暮らしで、こんな微妙な空気感が味わえるなんて。……素敵です。
日曜日には岡田さん(東京から移住したパイオニア)宅で、鶏のさばき方講座が開かれるそうです。
予定があるけど、間に合えば飛び入りで参加してみるつもりです。
たろーさん(アンチ日教組)曰く「人は食べなければ生きていけないということ。そして人の時間は限られていること。それが重要なんだよ」。
僕は今、イノシシを食わせたワニの肉を無性に食べてみたいのです。
このところ夜の空気を吸いすぎている。
追い打ちをかけてこの雨だ。
バランスを保つのはことのほか難しく、どちらかに傾きすぎれば、しばらく戻れない危険もある。
自分のコントロールは苦手ではないが、たまには暴走したくもなる。
基本がずぼらな性質なので、ありのままでいようとすれば、止まった空気に溶ける煙のように、ただたゆたうだけの塊になる。
決して悪いこととも思わないが、今はそれは避けたい。
かといって、ハリキリすぎてもいいことはない。
しばらくは脱力して静観しよう。
分からぬ以上、むやみに力を加えるのは得策ではない。
少年は幼稚園が嫌いだった。
そこには大好きな母がいないからだ。
少年を置いて去ろうとする母に、顔をくしゃくしゃにして泣きつき、いつも母を困らせた。
幼稚園も3年目を迎える頃、少年の父は転勤になり家族で松山市に引っ越した。
そして少年は新しい幼稚園に通うようになった。
登園初日。
右も左も分からぬ少年に、1人の男の子が歩み寄った。
「幼稚園に来たら、まずこのノートにこうやってシールを貼るんだ」
友達ができ、少年はあんなに嫌いだった幼稚園を楽しいと思えるようになった。
新たな土地で萎縮していた少年の心に、その小さなシールの思い出が深く刻まれた。
27年後。
父親になった2人は、いつか自分たちの娘が互いに仲良く遊ぶ日を楽しみにしていた。
初対面の日、少年の娘サヨコは男の子の娘イチカの顔にシールを貼った。
あの日のことを誰が教えたわけでもなく。
「あの時のお礼だよ。」
日々は小説よりも奇なり。
でも明らかに嫌がってるな、イチカちゃん。(笑)
つい先日、不意に島のおばあちゃんがこんなことを口走った。
「蕎麦屋がきた」
蕎麦屋?
出前??
島の言葉で「そばえ」とは、通り雨のこと。
動詞形は「そばえる」。
漢字ではどう書くのかと尋ねてみたところ、笑いながら「どう書くんやろうねぇ」と。
どうも響きが方言っぽくないのが気になって調べてみたところ、俚言集覧(りげんしゅうらん)という江戸時代の辞書に行き着いた。
要するに方言というより、昔の言葉が生きているということらしい。
なんかいいね、こういうの。
まぁ、そりゃあ午前4時半というのは、葛藤の時刻である。
明日のために寝るべきか、明日以降の人生ために思索すべきか。
どちらにするか迷いつつ、濁り酒を一杯。
そして草枕はなぐさむ—
輪郭をもたない形が頭のなかで遊んでいる。
捕まえさえすれば、どうにでも形を与えられそうなのに、どうやっても掴めない。
それもそのはず。流動的であることが心地好い。もとより、本気で掴み取る気など
ない。
その意味では、僕にとってはすべてが遊びごと。
どれだけ楽しく遊べるか。
ジョンスコとMMWのジャムを見ていて、「これは旅だな」と思った。
決まったテーマ(出発点)があって、ソロを回す。ソロは次第にヒートアップして、「おいおい、そんなとこまで行っちゃって大丈夫なの?」とソワソワしながら見てしまう。そんな心配を笑い飛ばして、彼らはブッちぎり、完全にイッてしまう。
でも、アイコンタクト一発でしっかりテーマ(終着点)に戻って来るんだよね。ホント、ヒヤヒヤものの冒険だよ。あれこそアドベンチャーだよ。やっぱり危険を冒してこそ楽しいんだろうね。
酒を注ぎ増す—
子持ちの夫婦が、仲違いしたわけでも、仕事で強制的に単身赴任を食らったわけでもなく、別居してるってのはどうなんでしょうか?
すごく奇妙なようで、見方によってはごく自然な気もする。
僕は妻・礼奈(♀)と人生をシェアし、友人・大友さん(♂)と生活をシェアしている。
(ところで、疑惑すら浮上してないのに断っておくけど、僕はゲイでもバイでもないのです。ストレートにヘテロなのです。)
見方によっては、というのはこういうこと。
自身の中に湧き起こるエランビタールを形で表現できるなら、絵を描き、彫刻を作ればいい。音で表現できるなら音楽をやればいいし、言葉で表現できるなら詩でも小説でも書けばいい。
芸術というのは、時代に合わせて複雑になっていく。
artの語源を考えれば、それも当然のこと。
現代的な芸術の在り方は、人類史上最も複雑であって然るべきでしょう?
これまでになかった表現方法、もしくはこれまで誰も表現方法と認識していなかった表現方法で表現されるて然るべきなんです。
なぜなら、これまで何人たりとも歩んだことのない時代を、僕らは生きているのだから。
酒を飲み干す—
まあ、いいや。説明するのが面倒くさくなってきた。
明日のために寝ますわ。
では!
すべては遊びごと。
最期のときに、笑っていよう!
僕の周りには一癖も二癖もある連中が多いので、必ずしも先に進むことを良しとしないんです。
そういった生き様を見ていると、芸術というのは形にするものではなく、軌跡のことをいうのだという気がしてきます。
生きるじたばたと言いますか、行き着くところまでの過程そのもの、目に見えないその線こそが芸術をなし得るんじゃないか、と。
だから、本来、1つの作品を真剣に鑑賞しようと思えば、その一挙手一投足から目を離してはいけないんです。
お金を払って美術館に行ったら、気に入った作品の前では何十分でも全神経を集中して対峙するでしょう?
それと同じことを生活のなかでもしていかないと、ややもすると肝心なところを見落としてしまいます。
でもどんなに近しい距離にあっても、他人のことを四六時中鑑賞し続けるわけにもいきませんし、自分には自分の表現がある。
だから、僕はせめて自分からは目を離さないようにしておきたいんです。
それが生きることを真っ向から楽しむことに繋がりますし、痛みや苦しみも味わい深くなる。
そうしてまた新しい表現が生まれるんだと思うんですよ。
重ねて重ねて深みが増していくんだと思うんです。まるで古い酒のように。
まぁ、冒頭でも申しました通り、それを良しとするかどうかはその人次第ですが。
とりあえず、脇目もふらず生きてみろ。
ストーブの上で 鍋がクツクツと音を立て始めた。
夜のしじまに 小さな泡が弾ける。
いかにも金属的な張りのある増幅で 部屋に絶え間なく響く音。
島の夜はかくも静かで 思慮深い。
言い表せぬ感覚と言ってはならぬ感情を内に秘め
夜の闇に煙がたゆたえば 繋がれた日々が連鎖して止まぬ。
たぐり寄せる輪郭のない形。
そして自ずから成る新たな形。
こんな夜もまた 紫煙の細糸によって繋がれていくだろう。
そうして 中也のカクテールが味わいを増す。
また冬がやってきました。
冬はあんまり好きじゃないのに。