せせらぎせらせら

日々思うこと

5時は夢中

2007-12-30 | せらせら
緩やかに巡り行くものだからこそ、わざわざ区切りをつけてまで定期的に仕切りなおしを図ろう、という先人たちの意思の表れであるかもしれない年末年始にまで無意味に反抗して「12月31日と1月1日の朝日がそんなに違って見えるかい?」と言ってしまいそうになる青春真っ盛りな一面と、その意図を汲んで真摯に今年一年の自分を振り返り、次なる一年に背水の布陣で望まんとする一面がメンタルの表層部の国境付近で紛争を勃発しつつある午前5時。

形式的にとはいえ、区切りが近づいてくると正体不明の焦りに駆り立てられるもの。
正体が分からないことがかえって事態を深刻化する。

最近、僕の周りに多い「真夜中は荒れ模様」な人たちは、結局のところモラトリアムが崩壊するときに立てる音が言葉となって口から出てきてたり、あるいは崩壊のエネルギーが指を動かして結構な長さの文章を打たせてたりする結果なのだろう。

と、勝手に自分と重ね合わせてみたりする午前5時。

書いているうちに5時じゃなくなっちゃいそうだから、長くなる前に止めとこう。

もう残りのふと思ったことは箇条書き。

■花は「こぼれる」とか「散る」とか「崩れる」美しい動詞で幕を下ろすんなら、人間は生きてるうちに自分の最後に相応しい動詞を選んでおいても良いんじゃないでせうか。

■俺が暖かい布団の中で、中盤に差しかかって面白くなってきた小説を読んでるときにも、凍えて死んでいく人もいるんだよな~とか。

■いや、午前5時は「真夜中」って言うより「早朝」だな。とか。

■崩壊のエネルギーは原子にしても自我にしてもバンドにしても、良くも悪くも凄い。

形あるものみな

2007-12-30 | せらせら
現段階で、【穴】とはズバリ【存在の欠如】だと言い切ってしまっていいと思っている。

まんまやんけ。(←なんで出だしから関西弁やねん!?)

そう、まんま。

“まんま”なのだ。




人の脳は、存在をまず外観から受ける第一印象で物事を認識する。

しばらく見つめ続け、より深く識っていく過程で次々と新しい認識が生まれ、その度に古い認識が壊れていく。

そうやって、認識は徐々に表面的なところから内面的なところへと変遷してゆく。(そこで引き返すことを薦める人もいるが、それはその先は基本的には実生活に必要無いし、場合によっては支障をきたすこともあるからという老婆心によるのだろう。)

最終段階に入ると完全に非物理的に物理的存在を見つめることになる。(芸術家肌と称される人たちが得意とする認識方法)

その結果もたらされる形而上学的理解をさらに深め、なおも新たなる認識を模索していくと、

不思議なことに、暗く深い土の中に掘り当てた石櫃に入っているのは最古の認識に他ならない。

最初に見た“まんま”そのもの。

ただし、その「最古の認識」を認識することは最古の認識とは似て全く非なるもの。



如何に人間が生まれながらにして知ることを欲する生き物であろうとも、

その認識を全幅の歓びで迎えられる人はいないと断言する。

(経験がある人になら言うまでもなく理由が解かると思うし、経験の無い人には言うこと自体に意味がないだろうから敢えて書かない。しかもその行為は俺の中では無粋なマネだし。)


話がそれた。(←某哲学者の口癖)


要するに、大切なものを失うということは「ドーナツの穴を残してドーナツを食べる」ことに非常によく似ている。


完全に「要するに」の使い方間違ってるな・・・。

そういや、ぜんぜん逆じゃないのに「逆に」と言うのが口癖の人がいるが、あれと同じだ。

随想を超えて

2007-12-28 | せらせら
今のアパートに引っ越してから2年。
早くも更新料という借り手には特に意味を見出せない出費が僕一人の家計を襲うワケですが、恥ずかしながら、この住まいに関していまだに明確にならないことが1つある。いや2つか。

せいぜい5×13センチという長方形の枠に整然と収まっている3つのスイッチ。

一番下が浴室の換気扇のものであることだけは確かなのだが、上と真ん中のスイッチが浴室とトイレどちらの電気のスイッチであるのか、点けてみるまで定かでない。



入居してしばらくしたある時期に、もう間違うまいと思い立って「こっちがフロ、こっちがトイレ、んで、こっちがフロ、だから当然こっちがトイレ。」とカチカチ孤独な実験を繰り返したことがあるのだが、不思議なことに数日経つとスイッチの配置が入れ替わってしまっていたのだ!
しかも、どうやらヤツらめ、数週間ごとに律儀にくるくると席替えをしていやがる!


きっと僕が鍵を掛け忘れて出かけた間に何者かが不法に侵入し、盗聴機を仕込むついでにでも浴室のスイッチとトイレのスイッチを入れ替えていったに違いない。



もっとも、「現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、より単純な方を選ぶべきである」というオッカムさんの言葉を持ってくれば、裁判で全面的に負けるのは僕の記憶の方であることは疑う余地も無いが・・・。(つぶやき:一度でいいからバッって「勝訴」って書いたやつを高々と掲げてみたい。裁判は大変そうだからヤだけど。)



冷静に自己分析すると、どうやら僕が「どうでもいい」と判断したものごとは、その瞬間、自動的に“極めて”という強調詞を冠して記憶の穴に落とし込まれるらしい。

「ふん、所詮2択ならば『間違ったならもう一方が正解』というだけのことだ。」と、
間違いから訂正が完了するまでに1秒を要さない事柄ならば、ほんの数ビットであろうとも脳の記憶メモリをそのために使うことを、本心の部分では無駄だと考えているということだろう。




しっかし、こんなことをわざわざ今年最後のライブの日に随想を超えてブログに書くことの方がよっぽど無駄なのにね。

さ~行くか。

愚痴と漢字の意味と現代的価値基準

2007-12-28 | せらせら
みんなが、一つの漢字が持つ意味を知れば、現代人の口数は激減するんじゃないだろうか。

(減ればいいってもんでもないけど。)


会意や形声に分類される漢字は、それ自体に哲学を含むものが多い。

(漢字である以上、アジア系哲学に限定されてしまうが。)


漢字というのは、形の美しさだけでなく意味に心を巡らせる楽しみ方もある。

現代的な書道はその意味を重視し、大きく形を崩すことを厭わず、一見すると何と書いてあるのかさえ読み取れないこともあるが、その形状から受ける印象と実際の文字の意味が一致していれば形而上学的な合致を物理的に成し得ていることになり、アートとしては素晴らしい。


現代アートの特徴は、その手段の向こう側にある形なきものを物理的に表現することに突出していることだと思う。

『どれだけ物理的もしくは論理的に破壊しつつ、形なきものを明確に顕せるか』に固執した表現を現代的と言って過言ではないと思う。


セピア色の話

2007-12-27 | せらせら
二十年近く前の正月のこと。



母屋の座敷で祖母と兄が「突」の漢字を巡って声を荒げていた。

宿題で出だされた書初めの手ほどきを受けていた兄が、祖母の書いた字に異議を唱えたのが事の発端のようだった。

「穴」に「大」と書いて「突」。

のはずが祖母は・・・

「穴」に「犬」と書いたらしい。

当然、学校で習った漢字と違うので、そりゃ兄は文句を言います。

折りしも兄は血気盛んなお年頃。

もとより血気盛んな気性だったので、売り言葉に買い言葉で口論になったらしい。

僕は当時、正解を知る由もないので傍で眺めながら、子供心に「素養のある祖母」がそんな間違いをするもんかな?

などと、対岸の火の粉が届かない距離にいそいそと避難していた。

そんなセピア色の正月。






そしたら、つい先日、ひょんなことから事の真相が明らかになった。

「突」は旧字体では「穴」に「犬」と綴っていたらしいのだ。

おそらく祖母は改訂があったことを知らず、自分が慣れ親しんだ「突」に自信をもっていたのだろう。

敢えて軍配を上げるなら兄の勝利ということになるのだろうが、ここは「2人とも正しかった」と平和的に決着をつけるのがよかろうと思う。

微笑ましい思い出は美しいほうがイイに決まっている。



そして、今日も世界では「自分たちの正義」同士がぶつかって大切なものが失われ続けているのだ。






今度の正月には祖母の墓前で手を合わせながらこう伝えようと思う。



「ばあちゃん、あなたは間違ってはいなかった。でも、・・・でも、やっぱり辞書を引くことって大事ですよね。」

と!!

自由と孤独

2007-12-27 | せらせら
最近の研究テーマは専ら「如何にして孤独は孤独のまま存在するか」。

僕自身が孤独を愛し、其れゆえ嫌い、癒されるべく群れの中でほのかに煌めく孤独を探してしまう。

敢えて孤高と書かないのは、自らの価値観に於ける孤高は他の価値観に於いては鰯に過ぎないという事実に基づいて、より文章に汎用性を持たせる為である。



ザックリ言ってしまえば、凡人の耐久力は長時間の孤独に耐えうるものではない。
故に「孤独は訪れるにはいい場所だが、滞在するには寂しすぎる。」といった言葉があるのだと思う。

求めすぎた代償として不本意ながら得られる孤独の苦しみ。
その耐え難い苦痛から解放されるために手に入れた物を人目に触れぬ深いところに仕舞い込んでしまう傾向が特に男性に見られる。
彼らは一同に口を閉ざし鰯の仮面を被ることで群れの中に違和感なく紛れ込もうとする。




真の自由とは個人の中に絶対的な価値観を構築することによって得られるもの。

しかし人が自由を求める以上、切り離すことができない孤独がついてまわる。

そして現実には、人は他との関係の中に生きざるを得ない。
(最近では穴理論的に自分そのものよりも周辺部にこそ自分の本質があると言えるのではないかとすら考えている。)

結果として当人にとっての適度に束縛と自由のバランスが保たれる位置を見つけ、そこに身を置くことを選ぶのである。

人を欺くことに喜びを見出す人でない限り、鰯の仮面を被るのは決して気持ちのいいことではなく、多くの人は嫌悪感を示す。
それは一目瞭然の事実で、例を挙げるならば鰯に向ける営業スマイルというのはどうしても嘘臭さを拭えないものだし、不器用な人ほど内側に負のエネルギーを溜め込むことにもなる。

人は発生する苦痛を無意識のうちに最小限に留めようとするので、逆に耐えうる限り可能な孤独と自由の最大値を求めることになる。

つまり、それぞれが所属するコミュニティの中でも、対孤独耐久性の高い者はよりアウトサイドへ、低いものはよりインサイドへと位置する訳だ。

もっと簡単に言うと、「端っこが落ち着く」と言う人は自由と孤独を愛する人間だと言えるし、そういう人ほどいわゆる超人に近い存在である可能性が高い。



※これは、あくまでも穴を掘る人種に限った考察なのであまり一般的ではありません。

完全に私事ですが、そういったことを頭に入れておくと食人の際に無闇に嗅ぎまわることなく、美味しい人間を探し出せるということになる。


読書の時間

2007-12-27 | せらせら
読みたい本が3冊手元にあるのだけれど、
僕は通常、電車の中と布団の中ぐらいでしか本を読まないので、
あ、電車の中と言っても、さらに条件があって、
「一人で乗る場合で、尚且つ江ノ電以外の路線でのみ。」
(江ノ電に乗るとついつい景色に目が行くからね。)
にしか本を読まないので、
しかも、仕事には、あ、仕事と言っても唯のアルバイトですが、大抵は自転車で行くし、仮に大雨が振ってやむなく電車で行くとしても、乗車時間はたかだか3分程度なので、
本を開いて閉じる間に気持ちが読書モードに切り替わって「いざ!」と言うのが精一杯で、
それは布団の中でも言えることで、僕は本が好きなのニモカカワラズ、活字を見ると眠気が促進する体質があるようで、数ページ読み進めたところで記憶を失い、翌日は「あれ?昨晩どこまで読んだっけ?」と読み終わりを探すため読んだ箇所をまた追っていくという作業を布団の中でやっているうちに眠くなってくるので、
実際にはあまり本が読めないのです。

土方さんの本なんて、まだ開いてもない!

仏教とニヒリズム

2007-12-26 | せらせら
仏教を考えていて、
「そーか!そーだ!仏教ってニヒリズムに他ならないんだな~。」
と誰かに言ったら、
「ニヒリズムが仏教的な考え方なんじゃないの。」
と誰かに言われて、
時代的にそりゃそーだ、ってことで話が落ち着いた。


しかし、それが誰だったかが思い出せない。

最近、物忘れが激しい気がするのです。

まぁいい。

「なすべきことはすべて 私の細胞が記憶していた」と谷川さんも言っていた。

月に吼えて一人

2007-12-26 | せらせら
一事が万事ではなくても確かに一事は万事の一部だ。

そう考えると、一粒の砂から学ぶことは多い。


そこからしか放つことができないメッセージやエネルギーがある。他の何者もできない、他の何処にもない。

そう考えると、開かずにはいられない。
(ただし常に開いていると何かと疲れる。)


不自然でも成り立っている以上は真実だし、真実じゃないものは一瞬たりとも存在できない。

そう考えると、喜びも悲しみも苦しみも楽しみも怒りも憎しみもあらゆるものを愛おしく思える。(つもりになれる。笑)


イビツな形じゃないとピッタリとはまれない場所があるし、イビツであればあるほどピッタリはまったときに得られる感動も大きい。

そう考えると、若さ(≒愚かさ)ってイイな~



彼女は言った。

「老婆は一日にして成らず ですよ。」

それはそれは優しい微笑みでした。

王様と耳のロバは穴

2007-12-26 | せらせら
少し前に巷で騒がれていた【ゆとり】の敗因は、ゆとりの性質に対する大人の認識不足の一言に尽きる。

そもそも、ゆとりとは何だ。

その定義付けをどのレベルで世間は共有したのだろうか。

僕の思う【ゆとり】とは、
やらなくていい事をやる時間。
やらなくていい事に没頭できる心。


仮にそのゆとりを手に入れたとしても、ゆとりを有効に使うためにはそれなりのスキルが必要になる。
そのスキルも身につけさせず、いきなり子供にゆとりだけを与えて一体どうしろと言うのだろう。無垢な子供に一方的に何を期待する。

(まぁ、実際のところ学校教育がそうしたところで親や塾がその方針に乗って子供にゆとりを与えたとは到底思えないが。)

とにかく僕は、社会で生きるゆとりを持たず暮らしている大人が、自分たちの望んだ幻想を子供たちに押し付ける形でカタルシスを求めただけの茶番だったと、今になって思うのですが。



珍しく無性に何かを批判したくなるのは、精神が不安定になってる証拠だな。
いかんね。


風邪をひくとき

2007-12-25 | せらせら
あくまで、僕の場合ですが、風邪をひくときに「風邪を許可してる」感覚がある。

自分でも不思議な感覚なんだけど、体が風邪に支配されることを許可するというか、彼らの軍門に下る瞬間に“自ら進んで”敗北宣言をしてる感じ。

基本的に僕は「定期的な小病が大病の予防になる」という考え方なので、風邪などの小病を絶対的に拒んでいるワケではないというのが背景にあるのかもしれないが、そういう【拒絶と甘受の間の灰色な選択】の誘惑は【穴の求心力】に通じるものがある。

おそらく、この手の感覚はその種の人間には力強く共感してもらえると思うのだけれど、穴を掘る行為が(白と黒だとか良心と欲望のような2人の自分ではなく)同一の自分の中で拒絶と甘受が融け合うように成されていくことによってのみ進められる極めて特殊な行為だということ。

そして、掘り進むにつれて磁力のように求心力が強まっていくので、灰色を維持するためにはより多くの拒絶の材料が必要になってくる。
それは先人の言葉や行いだったり、あるがままな自然の姿だったりするのだが、そういうものを意識して集めていかないと、自分が穴を掘っていたはずが自分が穴の一部になってしまう。

それがとても恐ろしい。

風邪をひくことを許可するときには必ず、健康であることへの羨望をもって許可しないと、再び穴の外で自分の存在を確認することができなくなってしまうってことだ。


不思議みたいなもんだね~

2007-12-23 | せらせら
ふらりと立ち寄ったティールームで、初めて会ったはずの人たちと初めてではない会話をしてみたり、

時計は21:55で止まり、

RESTは休符をも意味し、

女性は生命を内包し、男性は煙草を吹かして孤を愉しむ。 


決定的な場面では、必然を感じる繋がりが危うく目に見えそうになる。

普段は見えにくい連鎖が、確かにあると。

蜘蛛女は黄色い嘴に餌を運び、レオナルドは黄金色の○□だ。

それならば、金沢は今日もイイ天気か。

アニッシュ・カプーア【世界の起源】

2007-12-22 | せらせら
空間に空いた大きな穴。

作品と対峙した瞬間に「キタ!」という直感。

ニヒリズムの具象化を試みたものだというものは一目瞭然だが、「凝視するほどに鏡と化す」この作品は、ここ数年の僕自身が内に築いてきた思想に酷似するモノだった。

最近の「穴」に対する異常なまでの興味は、この穴と向き合うための準備だったのかも知れないとさえ思った。

しかも、作家のカプーアさんがインドの人だったとは!まあ必然すぎるほどの必然だ。


んで、考えた。

創造的な人間は【無】を以って【有】たらしめ、さらに創造的な人間は【人間をして『【無】を以って【有】たらしむ』を成す。

古典的な表現に自信がないので、使役の使い方間違ってるかも。
現代口語的には
「クリエイティヴな人は芸術の何たるかを知り、さらにクリエイティヴな人は周囲の人間にも芸術の何たるかを感じさせてくれる。」

これなら伝わりやすいか。


僕はHAN・BENNINKの映像を見たあと、全ての音に音楽の可能性を聴いた。

彼は真にミュージシャンだと思う。