せせらぎせらせら

日々思うこと

ドーナッツを巡る珍事

2008-11-30 | ぎらぎら
                     イラスト提供 サイ君



―観察日記より抜粋―

9月25日(木)
―またあの男がやってきた。今日もドーナッツを半分だけ食べたところで手を止め、U字型になったドーナッツを片手に持ったまま角度を変えては眺めながら、匂いのキツい煙草を吹かしている。20台後半に見えるケド、平日休みって…仕事は何をしてるんだろ。ニートかな。―

9月29日(月)
―また彼が来た。今日は珍しく同じドーナッツを二つ注文した。一つはすぐU字型に食べ、もう一つは手をつけず結局ずっと眺めていただけだった。なんかキモチワルイ!
あの煙草は近くの煙草屋さんに売っているガラムという煙草らしい。―

10月3日(金)
―また“U”が来た!今日は友達を連れてやってきた!ドーナッツを挟んで「死」がどうとか「欠如させる」とかボソボソと話していた。無性に気になる!お店が暇だったらもっと盗み聞きできたのに!
ガラム、買ってみたけど不味い。もったいないけど全部捨てた。カネ返せ!―








10月8日(水)午後3時35分、ちょうどスズキさんが電柱の上で電線の修理作業を終え、イケガミさんが湘南台でサイトウ宅の二度目のベルを鳴らそうとしている頃、なんと僕は東京の片隅で、こともあろうに医師の懸命な心肺蘇生を受けていた。




幸いにも、人間観察が趣味というモンスター・ドーナッツ(通称モスド)の女性アルバイト(21歳学生)が事の一部始終を目撃していた。

女性アルバイトの証言
「あの人、いつものようにコーヒーとドーナッツを一つだけ注文したんですけど、ちょうどそこの席、いつもこの席に座るんです。座ったあと、すぐに食べてしまったのか、気付いたらドーナッツは無くなってました。それから何か思いつめたような表情でしばらく―20分ぐらいかな。それぐらいの間じっと食べ終わったお皿の上をただ見つめてたんです。以前からおかしな行動はしてたんですけど、いつもならずっとドーナッツを見てるのに、今日はいつもよりボーッとただのお皿を見つめてるから何かあったんだろうなぁって私もいろいろと勝手な想像をしてたんです。そしたら、おもむろに“何か”を口に入れたようでした。でもそれが何かは見えませんでした。でもおかしいんですよ!テーブルの上には食べるようなものはもう“何も無かった”のに!!」

その後、不思議に思った彼女がコーヒーのお代わりを持って近づくと、僕は何やらモクモクとそれを反芻するように味わっていたかと思った次の瞬間には真っ青な顔色になって宙を掻くようにテーブルの上に倒れこんだらしい。

すぐさま救急隊が駆けつけたのだが、チアノーゼを認めただけで喉内に異物らしきものはなく、救急車内も困惑のうちに病院に担ぎ込まれた。

僕の死因は検死官によって“窒息死”と判断されたが、目撃証言から他殺の可能性は極めて薄いということで、原因の究明に関しては警察の側もうやむやのまま、この出来事は文書化されソソクサと棚にしまわれてしまったのだった。


もちろん知人の間でも様々な憶測が飛び交ってはいたが、僕をよく知る友人たちは皆「きっと、穴だね。」と口には出さずとも思っていたようだ。


なんの自慢にもならないが、おそらく“ドーナッツの穴”を喉に詰まらせて死ぬという珍事は、ドーナッツ200年の歴史の中でも僕をおいて他には例を見ないだろう。

正直なところ、“穴”を食べようとしたのは僕の意志だが、死ぬつもりなど毛頭なかったし、まして“穴”が喉に詰まるなどと、いったい誰が予測できただろうか。

事故というべきか自殺というべきか、僕は、ただ「よく判らない。」とだけコチラの友人にも話している。

ホントによく判らない。“僕が穴を食べたのか、穴が僕を食べたのか。”さえも。










10月15日(木)
―あの日、警察の人に“U”ことムラカミユウキが死んだと聞かされてから、もう一週間。私の中にポッカリと何かが開いてしまったみたいで仕事も手につかない…。―

猫の気まぐれたるや

2008-11-30 | ぎらぎら
                  画像提供 いったんもめん



先ほどの暴走手記の副産物として、また一つ発見があった。

まだ仮説だけれど、オートマティスムを筆記ではなく肉体全ての行為として生活に取り入れることは精神活動と肉体との距離を限りなく近づけることなのではないか。

それは或いは舞踏によって土方巽氏が目指した境地なのかもしれない。


そうだ。僕はそれを実践した常軌を逸する言動をする女性を知っている。

彼女は不意に「猫耳をつけたピンクの目玉の親父が・・・」と呟いたこともあるし、また何故だか高速道路のパーキングエリアでスリッパを履いたままバスを降りて踊っていたこともある。猫の気まぐれたるや理解も予測も不可能。

彼女は刹那主義者であり、シュルレアリストであり、パラドックスの具現であり、暗闇のメルヘニストであり、楽天的なペシミストであり、独自のエステティクスをもって超現実を日常とする者だったのか。

真に稀有だ。

雨が降ると肉を食べたくなる、あるいはメセニーさんに救われる。(フローチャート)

2008-11-28 | ぎらぎら
雨が降る。

気分が塞ぐ、または鬱ぐ。

思考がほわりとネガティブになる。

堀り下がった結果、人類の諸醜の根底に“喰う喰われるの関係”を見る。

「奪い合う」から「与え合う」へのパラダイムシフトを模索する。

人間に葉緑体を移植すればどうだろう。基本的に日光と水と二酸化炭素があれば生きられるようになると、人は晴雨のバランスの良い土地で日がな日向ぼっこに明け暮れるだろう。そのうち省エネのために思考も止めて、やがては人間のような形をした植物のような何かになるだろう。そこへ他星から知的生命体がやってきたとき地球生命の進化の道程を見て一つの美の究極を知るだろうか。と妄想する。

グゥ。腹がへって、ふいっと美の世界が崩れ去る。

現実の冷たさがネガティブを加速する。

動物の連鎖の全てが負の連鎖に思えてくる。

人としてそこに在ることそのものをカルマと捉える。

否応なく自己消滅を妄想する。

即座に悲しませたくない人の涙が頭をよぎる。←心地好い束縛:幸せなことだと思う。

存在と消滅が織り成す矛盾にやるせなさだけが募る。

名状しがたい刃にさらされクサクサとささくれた心が、無性に罪に罪を重ねたくなる。

そうだ、今週末は思いっきり肉を喰らおう。(ビールだって飲もう。)

何であろうと死ぬまでは生きるのだ。

(パット・メセニーのように人が人でありながら美しいものを生み出せる人もある。それがお慰みだ。ささやかなりしも。)

秋とか嘘とか

2008-11-28 | ぎらぎら
以下、思いっきり嘘っぱちです。

ある学者の計算で、どんなにミニマルな生活を送っても本来地球の自然環境が育める人間の数はせいぜい10億人が限度だということが判った。

さぁホントだったらどうする?

個の生が全体の死を意味する場合にも、やはり個のとる行動は生にしがみつくことだろうなぁ。

例えば、ガン細胞だって「俺たち、増えすぎるとこの体自体がヤバイらしいぜ」などと、お利巧なことにはならない。

知能を持ったガン細胞なら、人から意識を奪って体だけ生かしたまま限界まで増え続けるだろうね。怖いわ~。

ってな感覚を地球が持ってたらどうしよ。

細胞自殺ことアポトーシス【Apoptosis】の語源はギリシャ語の「apo-(離れて)」と「ptosis(下降)」に由来し、「(枯れ葉などが木から)落ちる」という意味らしい。

秋です。

きっと人類的に秋です。

なおも発展しようとする人類はちょっと季節感を欠く無粋な生物です。

時間

2008-11-28 | せらせら
時間というテーマを考え始めるとなかなかそこから離れられない。

時間は1つの事象ではなく、あらゆる事象に影響するものだからだ。

そのテーマが時間を考えることではなく、時間を踏まえた物事を考えることだからだ。

液体を考えるときは、固体としての答えを探すときりがない。

運動の法則としての解決しかないのだろう。

眠り

2008-11-28 | せらせら
時間が僕等に与えるものと、時間が僕等から奪うもの。

両の目を見開けば仮にそれらが同量だとしても、どうも感情に関しては中和ということはない。

深まる喜びや悲しみでお腹がいっぱいになったら、ちょっとくらいは休憩したくなる。

そんなときも、時間は止まることをしないから、僕はふてくされて眠る。

嗚呼、眠い。


せせらぎ

2008-11-22 | せらせら
また一人、大きな荷物を背負ってやってきた。

重そうに。辛そうに。

川原の石の上にどっかと腰を下ろし、あとは徒、せせらぎに視線を落とす。



せらせら・・・。せらせら・・・。

せせらぎが泣いている。

時折、背中越しに咥えた煙草から悲しみが立ちのぼっては、融けるように流れていく。

その流れに時間も合わさって、さらさらと静寂があたりを包む。温恭の響き。



幾ばくかいろんなものが一緒くたに流れて、ようやく、男はよいしょというように重い腰を上げた。

そして、荷物を背負って「ふん」と鼻を一度鳴らした。

踏み出して、足取りは軽やかなる。




ここはそういうところ。

.mtp

2008-11-18 | ぎらぎら
年をとると違いを愉しむようになったり、下らないダジャレが口をついて出たりするのは、知らず知らずのうちに同じ部分を認識する能力が身についている証なのかもしれない、と不図思った。(とか言って俺はまだ20代だぞ、このやろー!)

異質な二物を共通点を踏まえた上で、省略して識別するってことは、メタファーは天然の圧縮方式という見方もできるな。拡張子は.mtpか。

ならば読書などで他者のメタファー観を学ぶことは、それ自体が編集能力の開発でもあるわけだ。

離見とメタファー観

2008-11-18 | ぎらぎら
離見の見をもって自己を捉えれば、一体どこまでが自己と言えるだろうか。

自己を取り囲む無数に張り巡らされた関係によって、自己が構成されていることを考えれば、一体どこまでが自分の喜び、自分の痛みとして感じられるだろうか。

僕はいろんなものと和してみたい。

和してこそ差というものが活きてくるように思える。

違いを愉しむということは、すなわち共通の部分を知っておくことが前提となる。

異質なものを結ぶメタファーの重要性は、少なからずそのあたりにあるのではないか。




友と見ることによって

2008-11-18 | せらせら
この年になって(と言ってもまだ20代だぜ!文句あっか!)、思いのほか世界は脆いように思うようになった。

人々が短い一生を世界に重ね、その刹那のスパンで世界に急激な変化を無理強いすれば簡単に崩れ落ちる。

幼い頃、父や母が絶対であったように、最近まで世界もまた僕にとって絶対だった。

いつしか親を人としてみるようになった子供のように、人類が社会を世の中を星を銀河を生命として見るようになれば、そこに親睦も生まれる。

そうして初めて共存という道が拓けていく。


エコだ、省エネだ、と誰かに煽られるがままに踵を返すのは、人類としてあまりに急激な一種の独裁的方策ではあるまいか。

まずは友となれ。

そうして共にあれ。

むしけらけらけら けせらせら

2008-11-18 | せらせら
湖岸の岩は浸食が遅い。

一方、海の荒波にさらされる断崖は急速に浸食が進む。

僕たちの世代はそのどちらの美に学ぶべきか。

(とはいえ、たかだか人間の時間感覚では、どうもそのどちらにも大差がないように思えて仕方がない。)


独裁:一人で丸ごと世の中をひっくり返そうなどは、夢見るヘソが縁側で茶と泪を啜るに似る。

思想の共有が時間差で世に滴り、垂水の石を穿つが如く、はじける雫の儚きに似る。

そういうものは須らくせらせらと儘ならぬ喜びを口ずさむべし。




夕暮れの街に咲く鮮やか過ぎる華

2008-11-17 | ぎらぎら
知人の間ではすでに、その奇想天外な言動で不動の地位を確立しているワカバヤシさん。

彼女は絵描きだったが、それ以上にアーティストだった。


一年ぶりの再会に、彼女は平然と頭にドーナツを冠して現れた。

「ええ、、っと。それは?なに?」

「なにって、ドーナツよ。えへへ、かわいいでしょ?」

「かわいい?・・・かわいいと言えばかわいいかも。・・・っていうかデカイな・・・それ。」

「え~、もう少し小さいほうがよかったかなぁ?」

「・・・。」



思えば学生時代には、突如、彼女にエプロンブームが訪れ、ガーデニング用のエプロンをファッションに取り入れて電車通学していたこともあった。その頃は、将来はエプロン博物館を作るのだと豪語していた。が、エプロンブームはすぐに去って、そのあとしばらくはキラキラとまばゆいティアラを着けて優雅なステップを踏みながら、誰も居ない放課後のゼミ室で油絵を描いていた。時代を先取りしてウィッグが流行ったころにフレンチポップテイストのウィッグを誕生日のプレゼントにあげたこともあったが、彼女がそれを着けているところは数回しか見ないまま、やはりブームは去った。


仕事帰りの無彩色なスーツで埋め尽くされる街中を、ドーナツを被ってワインレッドのロングコートの下から覗かせたブーツをカツカツと鳴らして彼女は風を切っていく。彼女の姿を数歩後ろで見守っていると、僕は彼女がこの素晴らしき腐った世の中を嘲笑っているような錯覚を覚えた。スックと伸びた背中から。「オホホホホ」と。

実際、ワカバヤシさんはそういう笑い方をする癖があって、僕はそのたびにキモチワルイからやめてくれと言った。

そういえば、ナミさんといったか、漱石の「草枕」にもそういう笑い方をする女性が描かれていた。


また半年か一年かすればドーナツブームも終わり、彼女の中にまったく新しい風が暴風のように吹き荒れていることだろう。

なんにせよ、通俗する世の中のルールではドーナツは被るものではないのだ。

とかくこの世は住みにくい。ことアーティストにとって。