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日々思うこと

良質の食人

2007-11-29 | せらせら
以前から僕は【食人】という言葉をよく使う。

レクター博士のように本当に食うワケではなくて、その人が得てきた経験や築いてきた哲学を分けて頂いて自分の養分とする行為のことを【食人】と呼んでいるのである。

歳相応に結構な数の人を食してきたが、美味しい人は悉くイイ顔をしている。
(まぁ、イイ顔を引き出してから食うのが食人における礼儀作法ではあるが。)


酒と共に頂く。

音楽と共に頂く。

コーヒーと共に頂く。

タバコと共に頂く。



人間とはなんと様々な味わいのある食材だろう。

四季折々に違った味わいを見せるのも人間の面白みの特徴だ。



食材を人間に限って言えば、僕は相当な美食家だと自負している。

叫びたい何かを形にするのはあくまでもスキル

2007-11-26 | せらせら
目的と手段。

手に入れる順番はどっちが先だっていい。

ただ、両方が揃わないと表現は成立しない。

【手段を持たないもの】は自分の無力に苦悩し、

【目的を持たないもの】は空虚な時を過ごすのみ。



と、まぁここまでは自分的にもかなりありきたりな内容。

そこで、、、

今日は新たに解釈を拡げてみよう。

まず、
【目的と手段の両方を高いレベルで両立する】
これは、一般に多くの人が目指す状態ですね。
しかし、満たされた欲は更なる獲物を求めて彷徨うことになりそう。
それが欲というもの。
そうやって廻りながら高みへ上っていくのが「生の跳躍」なんですがね。
まぁ、究極的には落ちるわな。
高いところから落ちる痛みは、大きければ大きいほど「向こう側」への手引きとなり得るはずだけど、真正のマゾヒストでもなければ耐え難い衝撃であることは間違いない。


では逆に、【目的も手段も持たない】。
・・・。
これは、どうなのだ。
中途半端というのが人間の良さでもあるけど、「両方を持たない」潔さはあらゆるものを受け入れると同時に、人間的なあらゆるものの否定をも意味する。
求めないことから生まれる結果は、悟りの境地か。
しかし現実にこれをやってしまうのは危険極まりないので、精神的な部分だけに留めておくことをお勧めしたい。
実際、みんなそうやって生きてるしね。


まとめ:
【手段の不足】→ガムシャラにプラクティスすべし。
【目的の不足】→哲学すべし。
【目的と手段の両立】→痛みに備えつつ、そのまま突っ走るべし。
【目的も手段も持たない】→現実世界では3歩後ろを歩くべし。

在り続けることを恐れる人もあるのだということを知った日

2007-11-20 | せらせら
僕の知る限り、人間は本能的に死を恐れ【無】に畏怖する生き物だ。

先日、言葉を交わした知人はこう言った。

「もし輪廻のようなものがあるとして、自分の魂が永久に存在し続けると考えるとゾッとする。」

と。

僕にとってそれは新鮮な衝撃だった。

【有】に怯えながら日々を過ごす彼の一生とは一体どういう感覚なのだろう。

【有】に怯えながら呑む酒は一体どういう味なのだろうか。



所詮、他人の気持ちなど深い部分では解り得ないが、人生哲学の根幹の部分で大きな隔たりを持つ僕と知人は、仮に同じものを体験したとしても真逆の経験として受け入れる可能性が大いにある。

にもかかわらず、2人の間に共有できる感覚が少なからずあるという事実がとても奇妙に思えた。


世界に存在する【円の構造】に気がつく前ならば、その奇妙な事実を果たして事実として受け入れられただろうか。


モラルについてのコラム

2007-11-20 | せらせら
先日、電車の中で爪を切っているおばちゃんがいました。

切った爪が右へ左へ飛んでる飛んでる。

当然ながら両隣の方々、困惑の表情。

見る見るうちに床には切られた爪が散乱してゆく。

当人はそんな周辺の様子にも気がつかず、あーでもないこーでもないと爪の形を確認&微調整。

一通り切り終えて爪切りをカバンにしまうも、やはり切り具合が気に入らない御様子で再び切り始める始末。

数駅を通り過ぎた後、おばちゃんは無数の爪の切りカスを残して電車を降りていきました。


一部始終を見終えて・・・
□同じ人間として、人生の後輩として、その事実が残念でならない。
□どんなに爪が伸びていても、周囲に気を配れない配慮のなさより醜いことはないだろうに・・・。
□おばちゃんはなぜその場で爪を切らなければならなかったのか?
□注意すべきだったのかもしれないが、それをやらなかった自分の無力さを痛感。
□おばちゃんの行いと同様に、自分も当たり前のように「醜い行為」をしてしまっている可能性への恐怖と戒め。
□人の内面は外側に滲み出るものだが、やはりおばちゃんは見た目もそんな感じでした。

AQ

2007-11-15 | せらせら
【AQ】という言葉をご存知だろうか。

すでに造られていなければ、先日、僕が造った言葉なので知ってたらビックリだが・・・。

Artistic Quotient
芸術性指数とでも訳せばよいか。

IQ、EQに次ぐ第三の要素としてAQという指数を提案したい。

簡単に言うと『美に共鳴する』指数のこと。


『芸術のための芸術』という言葉が象徴するように、芸術はIntelligenceやEmotionとは別のところに存在する。
ならば、数値化することは冒涜であるかもしれないが、便宜上AQというものがあってもいいと思う。



IQの低い人間に対して「宇宙の誕生を11次元で説明する数式」を示したところでチンプンカンプンなのと同様に、
EQの低い人間に「微笑ましき悲しみの飽和」は意味不明であり、
AQの低い人間に「辿り着くべき幸福を描いた抽象画」はゴミと変わりが無い。
(↑この文章は自分で書いていても笑ってしまうぐらい鼻につく高慢なものとも取れるけど、まぁ例え話として見逃してください。)


人間の脳の中に、美の感覚を司る部位があるとすれば使わなければ当然、退化する。

生活の中でどんどん美を探究してAQを高め、ゴミを減らそう!っていう一風変わったエコもアリかも。

・・・ないね。笑


それはよしとして、『芸術のための芸術』とは少し反れるが、一般的な芸術におけるすべての表現がOUT(出力)からIN(入力)まで揃って初めて成立するのは既存の事実。

表現者としてのAQ、鑑賞者としてのAQ。

どちらにしてもAQの低下は芸術そのものの存在を危うくすることに成りかねない。

僕は芸術の存続のために日々、AQを高める姿勢を持ち続けていこうと思うのです。