「俺ってケツまわりの筋肉に締まりがないと思わねー?」
突然、何を言い出したのだ、この男は。そう賢次は思った。
「知らねーよ!お前のケツなんて見たことないし、見たくもないから」
「俺さぁ、自分で言うのもなんだけど、結構セクシーなんだよ。胸板だって厚いしさ、腕だってこんなだろ」
そう言って、響介はさらりとご立派な力こぶを作って見せた。
「な?服のセンスは勿論、顔だって悪くないだろ?もちろんあっちだって・・・」
「あー、はいはい、分かったよ。頼むから自慢話は俺以外のヤツにしてくれよ」
と賢次は言ったが、内心は酒を飲みながら、こうやって響介の自慢話を聞かされるのは嫌いじゃなかった。
軽薄な言葉で綴られる彼の馬鹿話を右から左へ聞いていると、賢次は不思議と気分が落ち着いた。
ついさっきまで、響介は今付き合っている彼女とその他にねんごろにしている(つまり、浮気中の)三人の女の話を順番に話した挙句、仕舞いには、何がどこでどうなったのか自分のことをすっかり棚に上げて、どうも女ってやつは信用できない、などと真顔で豪語した。
賢次は響介のあまりの理不尽さに唖然としたが、彼の潔いまでの愚行をどこか清々しくも感じた。
賢次は、彼が女を信用できないのは、きっと自分自身が信用に値するだけの誠意をもたない人間だからだろう、と考えたが、あえてそれを口にはしなかった。
賢次はかわりにゴクリと大きく一口、ビールを口にした。
梅雨の重く低い空も、肌に纏わりつく鬱陶しい湿気も、響介のテンションの高い空回りも、喉を滑り込んでくる炭酸の刺激の前に、しおらしく肴になる。
賢次が一人、悦に浸りながら隣に目をやると、響介は自分の尻の辺りをさすりながら、何か納得いかないといった風に顔をしかめて、んん、と唸っている。
その光景を黙って眺めながら賢次は、やっぱりこの男ことがたまらなく好きだ、と思った。同時に一週間かけて凝り固まった肩の力がすうっほぐれていくのを感じた。
「で、何が問題なんだ?ケツの筋肉に締まりがなくたって、生きるのには大して差し支えないだろ?そんなことで悩むのは馬鹿みたいだぞ。人生はさ、いかに悩まずに生きるかってことが最も重要なことだと思わないか?俺が『あぁあ、今日も仕事がキツかったなぁ』なんて言うのはビールを美味く飲むための合言葉みたいなもんでさ、本当に辛けりゃ、あんな仕事とっくに辞めてるよ。そうだろ?お前の女だってそうさ、面倒臭いとか信用できないとか言っても結局4人とも好きだから、ネンゴロなわけだろ?天秤はいつだって重い方に傾いてんだよ」
そこまで言うと、響介がキラキラと目を輝かせて賢次を見た。
「俺さぁ、賢次のそういう話、聞くの大好きなんだ。なんつーの?人生テツガクみたいなやつ。俺、頭わりーからさ、賢次みたく、ものを考えるってことをあんまりしないだろ?だから、賢次の話聞くだけで勉強してるようなもんなんだ。なあ、もっと聞かせてくれ。なんかない?」
「もっとって何だよ」
「なんかあるだろ、テツガクだよテツガク!」
いきなり何か哲学めいたことを話せと言われて、スラスラと言葉が出てくる人間もそうはいないだろう。
賢次は最近の生活の中に何か良いネタはなかったかと考え込んでしまった。
考え込んでから、会話を止めてしまっていることに気が付いて、この間が自分の弱点だな、と思った。
人の思考のタイプには二種類ある。
一つは芸人のように自分に向けられたフリに対して即座にボケられる瞬間的思考、もう一つは漱石のように山路を登りながらじっくり世の不条理を分析し打開すべく熟考に熟考を重ねる長期的思考。
賢次は後者を得意とし、それを自覚した上で逆に瞬間的思考力を持つ響介にある種の憧れを抱いていた。
「そういや、哲学ってこともないけど、こないだまたグルーヴについてずいぶん考えたよ」
「グルーヴ!いいね」
「響介はグルーヴって、詰まるところ何だと思う?」
「何ってあれだろ、学校の遠足とかで何人か人が集まってさ・・・」
「それ、グループね!」
バーカウンターの向こうから、さっきまで他の客を接客していたマスターが鋭くツッコミを入れる。まるで響介がボケることを知っていたかのようなタイミングで。
賢次と響介と神谷(マスター)とは小学校からの付き合いで、出逢った当初から互いにタイプの違う人間だということを感じていたのだが、不思議と、いや、だからこそ妙に魅かれ合うところがあった。
部活も勉強も程々に青春を浪費していた中学の終わり頃、歌の上手かった響介を中心にしてにわかにバンドを組もうという話が持ち上がった。
高校で三人とも別々になったが、バンドという形で残った繋がりは強まって、ついに高校卒業と同時に夢を抱いて上京したのだった。
BIGになろうぜ!などという根拠もない自信と勢いだけで田舎を飛び出したものの、ゴマンといるバンドたちの中で、ようやく少しばかり名を知られるようになったあたりで、神谷が抜け、賢次が抜け、ついにバンドは夢半ばにして解散してしまった。
いや、本当はそのだいぶ前から、それぞれのタイミングで、夢はあくまで夢だということに気が付いてしまっていたのかもしれない。
とは言え、響介だけはいまだに歌で食って行くという夢を捨てきれず、ボーカルレッスンに通いながら、レコード会社のオーディションを受け続けていた。
神谷はバイトで始めたバーテンダーの仕事が性に合ったらしく、20代半ばで独立して小さな店を構え、間もなく結婚し、すぐに子供もできた。
賢次は賢次で、大学を6年かけて卒業したものの、音楽以外にこれといって興味の沸くものも見当たらず、リハーサルスタジオで働きながら、幾つかのバンドを掛け持ちして趣味で音楽を続けていた。
「それで、グルーヴがどうしたって?」
神谷がすかさず話題を修正し、話題に参加してきた。
「グルーヴってあるだろ、あの音楽のノリとか空気感とかの総称みたいなやつさ」
「ああ!そのグルーヴね、知ってる知ってる」
響介が白々しく頷く。
「お前、ホントに知ってんのかよ!」
神谷と賢次の罵声じみた言葉が殆んど同時に響介に浴びせられた。
「おいおい、俺をなんだと思ってんだ。歌を歌うのにだってグルーヴは欠かせないんだぜ。一番大事だって言っても過言じゃないぜ、グルーヴはよ」
「お、それっぽいこと言うようになったじゃない。ま、伊達に音楽続けてるわけじゃないみたいだな。確かにそうだ。俺もそう思う。実際、グルーヴって音楽には欠かせない“何か”なんだよ。自称バンドマンたちが言ってるようにね。スタジオで働いてりゃ、一日に一度は耳にするよ。『いいグルーヴだ』とか『グルーヴが足りない』とかさ」
「・・・確かに俺たちもよくそういうこと言ってたよな」
「俺なんか今でも言ってる」
神谷は懐かしむようにハーパーのボトルに目を落とし、響介は無駄に胸を張って無知を晒した。
「でも、じゃあグルーヴって何なの?って訊くと皆、途端に黙っちゃうんだよな。考えてみたら可笑しくないか?皆、それを求めてるのに、それが何かなんて誰も分かっちゃいないなんて!わかったような顔しやがってさ」
賢次が今にもカウンターを叩きそうな勢いで声色を強めた。
「いや、わかってると思うんだけど、なんかこう、上手く言葉で説明できないんだよ」
響介は自分が責められていると感じたのか、弱々しい口調になって答えた。
それを見た神谷は逆にしっとりとした力強い声で言う。
「それで、賢次はどう思っているんだ?そこまで言うからには上手くグルーヴを説明できるんだろうな」
「まぁ、聞いてくれ。俺は最近ジョン・スコフィールドが大好きなのさ。響介か神谷か、ジョンスコって聴いたことある?」
「名前ぐらいは知ってる。ジャズ系のギタリストだよな、確か」
と神谷は言った。
「そう。さすが、元ギタリスト」
と賢次は言いながら響介に目をやった。
響介はムスッとしたまま口を閉ざしている。
拗ねた子供のようになった響介を見て、賢次は声を荒らげてしまったことを反省した。
「悪かったよ、響介、デカイ声だして」
「だって、キョウくん、怖かったんだもん」
賢次が柔らかい声で慰めると、響介は調子に乗って甘えた声で応えた。
「出た。キョウくん。お前、相変わらず酒を飲むと甘えん坊になるのな」
「しかし『キョウくん』って、俺たちもう30だぞ」
「まだ29だよ」
「かわんねーよ」
「いや、この一年の差はデカイ」
「この三人で話すと話題が進まないな」
「そのへんも変わらないな」
「なんか、歳ばっかとってくな、俺たち」
「ああ」
「な」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「あ~あ」
しばらく沈黙が流れた。
三人はそれぞれに、過去の何かに思いを巡らせていた。
誰もそれについて言及しなかったが、そこには不思議な一体感があった。
しばらくして、響介が口を開いた。
「なんか良いよな、こういうの!ノスタルジィっていうの?あの頃は良かったなぁ、みたいなやつ。・・・で、そのジョン万次郎がどうしたって?」
「ジョン万次郎って誰だっけ?」
「・・・馬鹿野郎共。まぁ、万次郎は万次郎で凄い人だったんだろうけど、スコフィールドも凄いグルーヴなんだよ。俺は彼の2007年のライブ映像を見ながら気が付いたんだ。グルーヴってさ、ビートとかタイム感とかアーティキュレーションなんかよりも上位に位置する概念なんじゃないかってね」
「全くわからんが、それで?」
さすがの響介も、賢次の真剣な口調から、ここはボケどころではないと判断したらしい。賢明な判断だと神谷は思った。
「シンクロニシティって言葉知ってるだろ?意味のある偶然の一致とかって言われるけど、同時多発的に一つの現象が起こるっていうアレ。そのシンクロニシティがジョンスコの体に見て取れるんだ!彼の両手が巧みに表現するギターの音は、確実に彼の表情と一致しているんだ」
賢次の声が再び興奮してきた。
響介は賢次の話す内容を理解しているわけではないが、その目はキラキラと輝いている。
神谷はやたら冷静にこう賢次に尋ねた。
「そのシンクロニシティが、グルーヴとどういう関係があるって言うんだ?」
賢次は勝ち誇ったように笑って答えた。
「それがね、大有りなのよ。俺がグルーヴを上位概念だと考えた理由がまさにそこにあるんだ。いいか?ギターを弾く手と弾いてるときの顔が、実際に同じ動きをしているわけではないにせよ、自然に全く同じものを表現しているということはさ、そこに何らかの同一の力が働いているってことになるだろ?それは恐らくジョンスコのクリエイティビティのエネルギーだと思うんだ。」
「ちょっと言ってることが、分かりづらいな」
神谷が少々困った顔で賢次に詳しい説明を求めると、黙りこくって聞いていた響介がいきなり、
「風だ・・・」
と言った。
神谷と賢次は驚いて響介を見た。
「風?」
二人の視線を集めて、響介がゆっくりと喋り始めた。
「ちょっと、目を閉じてみ。いいか、ここは野原だ。ずぅっと、どこまでも広がる野原。空は青い。雲は・・・、まぁ雲はあってもなくてもいいや。草がそよそよ揺れてるだろ?背の低い草も高い草も、遠くの木の葉も揺れてる。みんな同じ方向に揺れてる。それぞれは違う動きなんだけど、全く同じ様に揺れてんだ。それらを揺らしているのは何だと思う?」
「風だ。」
神谷がハッと目を開いて答えた。
賢次はもうすでに目を開けていて、キラキラした瞳で響介を見ていた。
「草原に吹く風か。その説明は凄く分かり易いな。そう!その感じだよ。きっとジョンスコの体の中には一陣の風が吹いてたんだ。いや、ジョンスコだけじゃない、ステージ上にいたメデスキやマーティン、ウッドの中にも一陣の風が吹いてた。もしかしたら、観客全員の中にも」
「それがグルーヴってことか」
そう言った神谷の中で何かが氷解した。
響介は二人があまりにも納得してしまったことに逆にドギマギしていた。
それっぽいことを言ってやろうと思っただけのつもりが、予期せず正確に的を射抜いてしまったのだ。
そのことには全く気付かず、賢次はさらに興奮の裡に言葉を続けた。
「つまりね、俺が言いたいのはこういうことさ。風は一体何処からやって来たのか?まさか草が風を起こしたわけじゃないだろう?草がそこに無くったって、風は吹き抜けたはずさ。ってことは、ここが一番重要なポイントだ。グルーヴはもともとそこに在るってことなんだ。優れたミュージシャンはそれを第六感のようなもので感じ取って、卓越した表現力でそれを音に変えるんだ。表現という点に限って言えば、そこに吹く風は絵でだって表現できるはずだし、土方巽なら体で表現するだろうし、松尾芭蕉なら言葉で表現するだろう。ロダンなら彫刻で表現するかもしれない。とにかく『場』という空間の概念、そこを満たすクリエイティヴなエネルギー、それがグルーヴの正体なんじゃないかってことなんだよ。まさか響介も同じことを考えていたとは驚いたよ!」
響介は賢次の言葉に乗った方が得だと気付いてわざとらしいほど深々と頷き、それを神谷が訝しげな眼差しで見ていた。
賢次の言葉はそれでもまだ止まらない。
「インプロヴィゼーションとかジャムセッションとか、音楽に限らずともライブペインティングだって、場踊りだって、とにかく即興性の強い表現をやる人は皆、そのエネルギー、音楽用語でいうところのグルーヴを全身に受けてそれを体を通じて音や形に変えていくんだ。極端な話、夜道を歩くとき、その足の運びや足音、腕の振り方、姿勢や息づかいにだって、ちょうどそこに過不足なくピッタリとハマる適切な具合があるんじゃないかって思うんだ。なぁ神谷、一つ即興でカクテルを作ってくれないかな?」
と言って、賢次は空いたビールグラスを指で少し前に押し出した。
「俺は時々、心底、お前のことを恐ろしいと感じることがある。まさか、今までの講釈は全部、俺を困らせるための前振りだったんじゃないだろうな。響介とは違った意味で厄介なヤツだよ、お前は」
賢次の無茶な要望に呆れたように答えた神谷だったが、すぐに何かのリキュールのビンに手を伸ばして、カクテルを作り始めた。
響介と賢次は食い入るように神谷の動きに見入った。
神谷の手つきはダンスのようだった。
そこに漂う空気を縫う様に滑らかに、音も無く力強い。
スッスッと素早く動いて円を描くような手つきでシェイカーのキャップを閉じたかと思うと今度はハードシェイクで心地好いリズムが狭い店内に響く。
キンキンキンキンキンキン・・・
氷と金属がぶつかる甲高いバロンシェイカー特有の衝突音に混じって、砕けた氷の欠片がシェイカーの中でシャリシャリ音を立て始めると、神谷の腕の動きが次第にスローモーションになっていき、やがてゼンマイ仕掛けの玩具が止まるように切なげに、そこに在るべきと思われる位置に収まった。
シェイクの余韻がまだ耳の奥に残っている間に、手際よく目の前のカクテルグラスに注がれた黄金色の液体の表面には、中央にうっすら浮かぶ薄氷と目に見えるほどの冷気が漂っていた。
賢次がバースツールを引き、背筋をしゃんと伸ばして、妙に紳士的な口調になって
「頂く前にタイトルを聞いておこうか」
と言う。
「古き良き日々」
そう言われるのを待っていたとも思えるタイミングで神谷が応える。
「カッコよすぎだろ」
響介が横から茶々を入れる。
その言葉の全てが、そこに放たれるべき言葉であったかのように心地好い。
おもむろにグラスを手に取り、二口で半分ほど飲んで、賢次が目を瞑った。
賢次の頭の中を様々な感情が駆け巡って、やがて一つの暖かい塊になってどこか奥の方へ消えていった。
入れ替わるように賢次の瞳の奥に熱いものが込み上げてきたが、賢次は今そいつに出て来られちゃマズイと思って、無理矢理奥に押し返した。
そうすると、今度は口元が引きつっていくのを感じた賢次は、隠すように手で頬をさすりながら、
「ふん、お前の腕前も大したことねぇなぁ」
と言ったあと、賢次はその声が震えていなかったかと不安になった。
「あれ、残念。お口に合いませんでした?」
ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて神谷が賢次の顔を覗き込む。
響介はひどく真剣な面持ちで、
「おい、賢次ぃ。こういう場面では、とにかく美味いって言っとくほうがいいぞ。それともお前、彼女の手料理とか、普通に不味いって言っちゃう人?」
響介は賢次のグラスを奪って味見し、
「なんだよ、全然、美味いじゃん、これ?」
などと神谷にわざとらしくアピールするように不思議がって見せた。
神谷はただ笑っていた。
「さて、と、そろそろ店閉めるけど、賢次の働いてるスタジオ、確か24時間だったよな?どう、数年ぶりに三人で何か演ってみようぜ!」
「何かって・・・、別にいいけど、俺は趣味レベルとはいえ、まだ一応現役よ?」
「おいおい、言っとくけど俺だってケツ筋はたるんだけど歌は前よりか、断然上手くなってるぞ!ふはは!」
「は!?ケツは関係ないだろ!実は俺も最近またこっそりギター練習してんだ」
「え、嘘!?やってんの?なんだよ!やってるんなら最初から言えよ」
「あーだー、こーだー!」
「どーした、こーした!」
「・・・・・・・!」
「・・!?・・!」
「・・・!!」
「・・」
「・」
おわり
突然、何を言い出したのだ、この男は。そう賢次は思った。
「知らねーよ!お前のケツなんて見たことないし、見たくもないから」
「俺さぁ、自分で言うのもなんだけど、結構セクシーなんだよ。胸板だって厚いしさ、腕だってこんなだろ」
そう言って、響介はさらりとご立派な力こぶを作って見せた。
「な?服のセンスは勿論、顔だって悪くないだろ?もちろんあっちだって・・・」
「あー、はいはい、分かったよ。頼むから自慢話は俺以外のヤツにしてくれよ」
と賢次は言ったが、内心は酒を飲みながら、こうやって響介の自慢話を聞かされるのは嫌いじゃなかった。
軽薄な言葉で綴られる彼の馬鹿話を右から左へ聞いていると、賢次は不思議と気分が落ち着いた。
ついさっきまで、響介は今付き合っている彼女とその他にねんごろにしている(つまり、浮気中の)三人の女の話を順番に話した挙句、仕舞いには、何がどこでどうなったのか自分のことをすっかり棚に上げて、どうも女ってやつは信用できない、などと真顔で豪語した。
賢次は響介のあまりの理不尽さに唖然としたが、彼の潔いまでの愚行をどこか清々しくも感じた。
賢次は、彼が女を信用できないのは、きっと自分自身が信用に値するだけの誠意をもたない人間だからだろう、と考えたが、あえてそれを口にはしなかった。
賢次はかわりにゴクリと大きく一口、ビールを口にした。
梅雨の重く低い空も、肌に纏わりつく鬱陶しい湿気も、響介のテンションの高い空回りも、喉を滑り込んでくる炭酸の刺激の前に、しおらしく肴になる。
賢次が一人、悦に浸りながら隣に目をやると、響介は自分の尻の辺りをさすりながら、何か納得いかないといった風に顔をしかめて、んん、と唸っている。
その光景を黙って眺めながら賢次は、やっぱりこの男ことがたまらなく好きだ、と思った。同時に一週間かけて凝り固まった肩の力がすうっほぐれていくのを感じた。
「で、何が問題なんだ?ケツの筋肉に締まりがなくたって、生きるのには大して差し支えないだろ?そんなことで悩むのは馬鹿みたいだぞ。人生はさ、いかに悩まずに生きるかってことが最も重要なことだと思わないか?俺が『あぁあ、今日も仕事がキツかったなぁ』なんて言うのはビールを美味く飲むための合言葉みたいなもんでさ、本当に辛けりゃ、あんな仕事とっくに辞めてるよ。そうだろ?お前の女だってそうさ、面倒臭いとか信用できないとか言っても結局4人とも好きだから、ネンゴロなわけだろ?天秤はいつだって重い方に傾いてんだよ」
そこまで言うと、響介がキラキラと目を輝かせて賢次を見た。
「俺さぁ、賢次のそういう話、聞くの大好きなんだ。なんつーの?人生テツガクみたいなやつ。俺、頭わりーからさ、賢次みたく、ものを考えるってことをあんまりしないだろ?だから、賢次の話聞くだけで勉強してるようなもんなんだ。なあ、もっと聞かせてくれ。なんかない?」
「もっとって何だよ」
「なんかあるだろ、テツガクだよテツガク!」
いきなり何か哲学めいたことを話せと言われて、スラスラと言葉が出てくる人間もそうはいないだろう。
賢次は最近の生活の中に何か良いネタはなかったかと考え込んでしまった。
考え込んでから、会話を止めてしまっていることに気が付いて、この間が自分の弱点だな、と思った。
人の思考のタイプには二種類ある。
一つは芸人のように自分に向けられたフリに対して即座にボケられる瞬間的思考、もう一つは漱石のように山路を登りながらじっくり世の不条理を分析し打開すべく熟考に熟考を重ねる長期的思考。
賢次は後者を得意とし、それを自覚した上で逆に瞬間的思考力を持つ響介にある種の憧れを抱いていた。
「そういや、哲学ってこともないけど、こないだまたグルーヴについてずいぶん考えたよ」
「グルーヴ!いいね」
「響介はグルーヴって、詰まるところ何だと思う?」
「何ってあれだろ、学校の遠足とかで何人か人が集まってさ・・・」
「それ、グループね!」
バーカウンターの向こうから、さっきまで他の客を接客していたマスターが鋭くツッコミを入れる。まるで響介がボケることを知っていたかのようなタイミングで。
賢次と響介と神谷(マスター)とは小学校からの付き合いで、出逢った当初から互いにタイプの違う人間だということを感じていたのだが、不思議と、いや、だからこそ妙に魅かれ合うところがあった。
部活も勉強も程々に青春を浪費していた中学の終わり頃、歌の上手かった響介を中心にしてにわかにバンドを組もうという話が持ち上がった。
高校で三人とも別々になったが、バンドという形で残った繋がりは強まって、ついに高校卒業と同時に夢を抱いて上京したのだった。
BIGになろうぜ!などという根拠もない自信と勢いだけで田舎を飛び出したものの、ゴマンといるバンドたちの中で、ようやく少しばかり名を知られるようになったあたりで、神谷が抜け、賢次が抜け、ついにバンドは夢半ばにして解散してしまった。
いや、本当はそのだいぶ前から、それぞれのタイミングで、夢はあくまで夢だということに気が付いてしまっていたのかもしれない。
とは言え、響介だけはいまだに歌で食って行くという夢を捨てきれず、ボーカルレッスンに通いながら、レコード会社のオーディションを受け続けていた。
神谷はバイトで始めたバーテンダーの仕事が性に合ったらしく、20代半ばで独立して小さな店を構え、間もなく結婚し、すぐに子供もできた。
賢次は賢次で、大学を6年かけて卒業したものの、音楽以外にこれといって興味の沸くものも見当たらず、リハーサルスタジオで働きながら、幾つかのバンドを掛け持ちして趣味で音楽を続けていた。
「それで、グルーヴがどうしたって?」
神谷がすかさず話題を修正し、話題に参加してきた。
「グルーヴってあるだろ、あの音楽のノリとか空気感とかの総称みたいなやつさ」
「ああ!そのグルーヴね、知ってる知ってる」
響介が白々しく頷く。
「お前、ホントに知ってんのかよ!」
神谷と賢次の罵声じみた言葉が殆んど同時に響介に浴びせられた。
「おいおい、俺をなんだと思ってんだ。歌を歌うのにだってグルーヴは欠かせないんだぜ。一番大事だって言っても過言じゃないぜ、グルーヴはよ」
「お、それっぽいこと言うようになったじゃない。ま、伊達に音楽続けてるわけじゃないみたいだな。確かにそうだ。俺もそう思う。実際、グルーヴって音楽には欠かせない“何か”なんだよ。自称バンドマンたちが言ってるようにね。スタジオで働いてりゃ、一日に一度は耳にするよ。『いいグルーヴだ』とか『グルーヴが足りない』とかさ」
「・・・確かに俺たちもよくそういうこと言ってたよな」
「俺なんか今でも言ってる」
神谷は懐かしむようにハーパーのボトルに目を落とし、響介は無駄に胸を張って無知を晒した。
「でも、じゃあグルーヴって何なの?って訊くと皆、途端に黙っちゃうんだよな。考えてみたら可笑しくないか?皆、それを求めてるのに、それが何かなんて誰も分かっちゃいないなんて!わかったような顔しやがってさ」
賢次が今にもカウンターを叩きそうな勢いで声色を強めた。
「いや、わかってると思うんだけど、なんかこう、上手く言葉で説明できないんだよ」
響介は自分が責められていると感じたのか、弱々しい口調になって答えた。
それを見た神谷は逆にしっとりとした力強い声で言う。
「それで、賢次はどう思っているんだ?そこまで言うからには上手くグルーヴを説明できるんだろうな」
「まぁ、聞いてくれ。俺は最近ジョン・スコフィールドが大好きなのさ。響介か神谷か、ジョンスコって聴いたことある?」
「名前ぐらいは知ってる。ジャズ系のギタリストだよな、確か」
と神谷は言った。
「そう。さすが、元ギタリスト」
と賢次は言いながら響介に目をやった。
響介はムスッとしたまま口を閉ざしている。
拗ねた子供のようになった響介を見て、賢次は声を荒らげてしまったことを反省した。
「悪かったよ、響介、デカイ声だして」
「だって、キョウくん、怖かったんだもん」
賢次が柔らかい声で慰めると、響介は調子に乗って甘えた声で応えた。
「出た。キョウくん。お前、相変わらず酒を飲むと甘えん坊になるのな」
「しかし『キョウくん』って、俺たちもう30だぞ」
「まだ29だよ」
「かわんねーよ」
「いや、この一年の差はデカイ」
「この三人で話すと話題が進まないな」
「そのへんも変わらないな」
「なんか、歳ばっかとってくな、俺たち」
「ああ」
「な」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「あ~あ」
しばらく沈黙が流れた。
三人はそれぞれに、過去の何かに思いを巡らせていた。
誰もそれについて言及しなかったが、そこには不思議な一体感があった。
しばらくして、響介が口を開いた。
「なんか良いよな、こういうの!ノスタルジィっていうの?あの頃は良かったなぁ、みたいなやつ。・・・で、そのジョン万次郎がどうしたって?」
「ジョン万次郎って誰だっけ?」
「・・・馬鹿野郎共。まぁ、万次郎は万次郎で凄い人だったんだろうけど、スコフィールドも凄いグルーヴなんだよ。俺は彼の2007年のライブ映像を見ながら気が付いたんだ。グルーヴってさ、ビートとかタイム感とかアーティキュレーションなんかよりも上位に位置する概念なんじゃないかってね」
「全くわからんが、それで?」
さすがの響介も、賢次の真剣な口調から、ここはボケどころではないと判断したらしい。賢明な判断だと神谷は思った。
「シンクロニシティって言葉知ってるだろ?意味のある偶然の一致とかって言われるけど、同時多発的に一つの現象が起こるっていうアレ。そのシンクロニシティがジョンスコの体に見て取れるんだ!彼の両手が巧みに表現するギターの音は、確実に彼の表情と一致しているんだ」
賢次の声が再び興奮してきた。
響介は賢次の話す内容を理解しているわけではないが、その目はキラキラと輝いている。
神谷はやたら冷静にこう賢次に尋ねた。
「そのシンクロニシティが、グルーヴとどういう関係があるって言うんだ?」
賢次は勝ち誇ったように笑って答えた。
「それがね、大有りなのよ。俺がグルーヴを上位概念だと考えた理由がまさにそこにあるんだ。いいか?ギターを弾く手と弾いてるときの顔が、実際に同じ動きをしているわけではないにせよ、自然に全く同じものを表現しているということはさ、そこに何らかの同一の力が働いているってことになるだろ?それは恐らくジョンスコのクリエイティビティのエネルギーだと思うんだ。」
「ちょっと言ってることが、分かりづらいな」
神谷が少々困った顔で賢次に詳しい説明を求めると、黙りこくって聞いていた響介がいきなり、
「風だ・・・」
と言った。
神谷と賢次は驚いて響介を見た。
「風?」
二人の視線を集めて、響介がゆっくりと喋り始めた。
「ちょっと、目を閉じてみ。いいか、ここは野原だ。ずぅっと、どこまでも広がる野原。空は青い。雲は・・・、まぁ雲はあってもなくてもいいや。草がそよそよ揺れてるだろ?背の低い草も高い草も、遠くの木の葉も揺れてる。みんな同じ方向に揺れてる。それぞれは違う動きなんだけど、全く同じ様に揺れてんだ。それらを揺らしているのは何だと思う?」
「風だ。」
神谷がハッと目を開いて答えた。
賢次はもうすでに目を開けていて、キラキラした瞳で響介を見ていた。
「草原に吹く風か。その説明は凄く分かり易いな。そう!その感じだよ。きっとジョンスコの体の中には一陣の風が吹いてたんだ。いや、ジョンスコだけじゃない、ステージ上にいたメデスキやマーティン、ウッドの中にも一陣の風が吹いてた。もしかしたら、観客全員の中にも」
「それがグルーヴってことか」
そう言った神谷の中で何かが氷解した。
響介は二人があまりにも納得してしまったことに逆にドギマギしていた。
それっぽいことを言ってやろうと思っただけのつもりが、予期せず正確に的を射抜いてしまったのだ。
そのことには全く気付かず、賢次はさらに興奮の裡に言葉を続けた。
「つまりね、俺が言いたいのはこういうことさ。風は一体何処からやって来たのか?まさか草が風を起こしたわけじゃないだろう?草がそこに無くったって、風は吹き抜けたはずさ。ってことは、ここが一番重要なポイントだ。グルーヴはもともとそこに在るってことなんだ。優れたミュージシャンはそれを第六感のようなもので感じ取って、卓越した表現力でそれを音に変えるんだ。表現という点に限って言えば、そこに吹く風は絵でだって表現できるはずだし、土方巽なら体で表現するだろうし、松尾芭蕉なら言葉で表現するだろう。ロダンなら彫刻で表現するかもしれない。とにかく『場』という空間の概念、そこを満たすクリエイティヴなエネルギー、それがグルーヴの正体なんじゃないかってことなんだよ。まさか響介も同じことを考えていたとは驚いたよ!」
響介は賢次の言葉に乗った方が得だと気付いてわざとらしいほど深々と頷き、それを神谷が訝しげな眼差しで見ていた。
賢次の言葉はそれでもまだ止まらない。
「インプロヴィゼーションとかジャムセッションとか、音楽に限らずともライブペインティングだって、場踊りだって、とにかく即興性の強い表現をやる人は皆、そのエネルギー、音楽用語でいうところのグルーヴを全身に受けてそれを体を通じて音や形に変えていくんだ。極端な話、夜道を歩くとき、その足の運びや足音、腕の振り方、姿勢や息づかいにだって、ちょうどそこに過不足なくピッタリとハマる適切な具合があるんじゃないかって思うんだ。なぁ神谷、一つ即興でカクテルを作ってくれないかな?」
と言って、賢次は空いたビールグラスを指で少し前に押し出した。
「俺は時々、心底、お前のことを恐ろしいと感じることがある。まさか、今までの講釈は全部、俺を困らせるための前振りだったんじゃないだろうな。響介とは違った意味で厄介なヤツだよ、お前は」
賢次の無茶な要望に呆れたように答えた神谷だったが、すぐに何かのリキュールのビンに手を伸ばして、カクテルを作り始めた。
響介と賢次は食い入るように神谷の動きに見入った。
神谷の手つきはダンスのようだった。
そこに漂う空気を縫う様に滑らかに、音も無く力強い。
スッスッと素早く動いて円を描くような手つきでシェイカーのキャップを閉じたかと思うと今度はハードシェイクで心地好いリズムが狭い店内に響く。
キンキンキンキンキンキン・・・
氷と金属がぶつかる甲高いバロンシェイカー特有の衝突音に混じって、砕けた氷の欠片がシェイカーの中でシャリシャリ音を立て始めると、神谷の腕の動きが次第にスローモーションになっていき、やがてゼンマイ仕掛けの玩具が止まるように切なげに、そこに在るべきと思われる位置に収まった。
シェイクの余韻がまだ耳の奥に残っている間に、手際よく目の前のカクテルグラスに注がれた黄金色の液体の表面には、中央にうっすら浮かぶ薄氷と目に見えるほどの冷気が漂っていた。
賢次がバースツールを引き、背筋をしゃんと伸ばして、妙に紳士的な口調になって
「頂く前にタイトルを聞いておこうか」
と言う。
「古き良き日々」
そう言われるのを待っていたとも思えるタイミングで神谷が応える。
「カッコよすぎだろ」
響介が横から茶々を入れる。
その言葉の全てが、そこに放たれるべき言葉であったかのように心地好い。
おもむろにグラスを手に取り、二口で半分ほど飲んで、賢次が目を瞑った。
賢次の頭の中を様々な感情が駆け巡って、やがて一つの暖かい塊になってどこか奥の方へ消えていった。
入れ替わるように賢次の瞳の奥に熱いものが込み上げてきたが、賢次は今そいつに出て来られちゃマズイと思って、無理矢理奥に押し返した。
そうすると、今度は口元が引きつっていくのを感じた賢次は、隠すように手で頬をさすりながら、
「ふん、お前の腕前も大したことねぇなぁ」
と言ったあと、賢次はその声が震えていなかったかと不安になった。
「あれ、残念。お口に合いませんでした?」
ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて神谷が賢次の顔を覗き込む。
響介はひどく真剣な面持ちで、
「おい、賢次ぃ。こういう場面では、とにかく美味いって言っとくほうがいいぞ。それともお前、彼女の手料理とか、普通に不味いって言っちゃう人?」
響介は賢次のグラスを奪って味見し、
「なんだよ、全然、美味いじゃん、これ?」
などと神谷にわざとらしくアピールするように不思議がって見せた。
神谷はただ笑っていた。
「さて、と、そろそろ店閉めるけど、賢次の働いてるスタジオ、確か24時間だったよな?どう、数年ぶりに三人で何か演ってみようぜ!」
「何かって・・・、別にいいけど、俺は趣味レベルとはいえ、まだ一応現役よ?」
「おいおい、言っとくけど俺だってケツ筋はたるんだけど歌は前よりか、断然上手くなってるぞ!ふはは!」
「は!?ケツは関係ないだろ!実は俺も最近またこっそりギター練習してんだ」
「え、嘘!?やってんの?なんだよ!やってるんなら最初から言えよ」
「あーだー、こーだー!」
「どーした、こーした!」
「・・・・・・・!」
「・・!?・・!」
「・・・!!」
「・・」
「・」
おわり