せせらぎせらせら

日々思うこと

普通に考えたら電車の中にネコはいないだろう

2010-03-19 | ぎらぎら
人のまばらな電車の中で、それはもうしばらく前から僕の脚にじゃれついていた。
それ、というのはネコなのかヒトなのか、いずれにしても性別が女に属することは確かだが、それが何かということについて僕には判別ができない。
じゃれつかれている僕にわからないのだから、きっとほかの誰にもそればっかりはわからないに違いない。
ただ、わからないからといって、“それ”と呼び続けるのも忍びないので便宜上、小夜子と呼ぶことにした。
小夜子はいつの間にかスケッチブックを開いて、落書きを始めた。
これが結構上手い。
ふんふんと鼻歌でも歌うようにのたうちまわる線は、あれよという間にきらきらと森の中にこぼれ落ちる陽の光を描き出していく。
大したもんだと僕は思った。
「だってわたし、絵描きだもの」と小夜子は言う。
僕は絵描きという言葉に僕は記憶の中の柔らかい部分を思い出しながら、どうして心が見透かされたのか不思議に思った。
「だってわたし、絵描きだもの」と僕はオウム返しに口にした。なぜかは自分でもわからない。
小夜子は僕の言葉などまるで聞こえない様子で絵を描き続けていた。
かと思うと、スケッチブックはいつの間にか小説に変わっていて、今の今まで軽やかに動いていたはずの小夜子の手は嘘のように大人しくなっていた。
「もう描かないの?」
「描かない」
「なんで?」
「……」
文字に夢中になって黙りこくってしまったので、何を読んでいるのかと本を覗き見ると、それはいつだったか僕も読んだ覚えのある小説だった。
「それ、読んだことあるよ」
「……」
「聞こえてないの?」
「……うるさいなぁ」
「ごめん……」

アナウンスが流れ、電車が速度を緩め始めた。
次は僕の降りる駅だ。
僕は足元からカバンを取り、何を取り出すわけでもなく習慣的にカバンの中をまさぐった。
カバンの中からは入れた覚えのない本が出てきた。
見るとそれは、ちょうど今、小夜子が夢中になって読んでいる小説の作者がかなり前に書いた別の小説だった。
なぜこんなものが僕のカバンに?とは思ったが、それほど不思議な気もせず、僕は「これも読むかい?」と言って小夜子に差し出した。
ありがとう、と言って小夜子は本を受け取り、再び目を小説に戻した。
ドアが開いて、僕は電車を降りた。
これでもう小夜子に会うこともないのだと思うと、なんだか悲しくなってしまった。
そうだ、電話番号を聞いておけば会うことはなくても、いつか小説の話ぐらいはできるかもしれないと思いついて、僕は歩み始めていた足を止め、振り返った。
(小夜子がネコであるか、ヒトであるかは別としても、今のご時世だ、携帯ぐらいは持っているに違いないと僕はとっさに思ったわけだが、夢にしても奇妙な設定だ。)
「電話番号、教えてくれる?」
小夜子は少し困った表情を見せたが、すぐに頷いた。
「080……」
途中まで言いかけたところで電車のドアが閉まって、声が遮断された。
声はそこで途切れたが、目覚めたとき僕は確かに小夜子の電話番号を覚えていた。動き始めた電車のガラス越しに、半ば無意識に小夜子の唇の動きを追ったのだろう。
布団の中で夢の一部始終を振り返りながら、この電話番号はひょっとしたら“あの番号”かもしれない……とも考えたが、残念ながら目が覚めてしまった以上は現実に即した思考で物事を考えなければならない。
僕は悩んだすえに、携帯のメモリーを確認して“あの番号”ではなかったときのかなりガッカリするであろうリスクを回避するため、確認はやめておくことに決めた。
そのまま、その番号さえ忘れてしまった。
そんなはずはない。
夢は夢だ。