New Horizon

~紆余曲折の日々の中で...

インドネシアで想う

2015-03-27 | お出かけ
2年ぶりにインドネシアに行って来ました。日本とは異なり、ジャカルタの気温は、32℃、むっとした熱気と湿気を感じます。ただ、この時期は雨期らしく、夕方になると、空が暗くなり、激しいスコールが続きました。稲妻の光の帯も日本のそれより太く、数秒後に、それに続く、雷鳴の大きさも呆れるほどです。ここは南国、という印象でした。

ジャカルタ市内の喧騒は相変わらずです。町には車が溢れ、その間を、数多くのバイクが隙間があれば、その間を走り抜けようとします。車とバイクがごちゃごちゃになって、動いているというイメージです。日本人の私では、到底運転できない道路事情です。信号の様子を見ていました。

赤信号になると、バイクが信号の前面に出てきて、多数がテンコ盛りの状態で、並んでいます。車は、その後ろです。というか、停まっている車の前や空いスペースに、バイクが入りこんできて並んでいるという状態です。青信号になると、バイクの群れが一斉に動き始めます。

ジャカルタで、車の中から『スディルマンプラザ』を見ました。そう云えば、インドネシア政府は、独立運動の英雄であるスディルマン将軍の銅像を日本の防衛相に贈っていることを思い出しました。

その背景には、日本とインドネシアの深い歴史的な関係があるということです。インドネシアは、350年間の植民地時代、それを運命だと意識していくようになったわけですが、1905年の日露戦争で、アジア人である日本人がヨーロッパのソ連に勝ったことで、アジア人だからといって、劣っているわけではないことに気づきました。日露戦争3年後の1908年、それまでの武力闘争とは異なる新たな武力闘争を始めます。

そして、第二次世界大戦。日本がインドネシアに進出した時、インドネシア人の多くは日本に期待していたということです。そうでない人々もいたわけですが...長い間植民地として搾取してきたオランダ人の敵である日本は、自分たちの味方という意識もあったのでしょう。

日本は対米戦争のため、強い軍を必要としていて、そのため、ペタ(郷土防衛義勇軍)というインドネシア人の組織をつくり訓練します。日本の敗戦後、インドネシアが独立を勝ち取った独立戦争で中心的な役割を果たしたのがこのペタであり、その司令官がスディルマン将軍でした。インドネシアでは、今でも最も偉大で有名な国軍司令官となっています。市内には、将軍の名前の『ジャラスディルマン』という道路もあるようです。

その将軍の銅像の受け入れを日本政府がOKしたため、インドネシア人としても、大変喜んでいるそうです。その銅像は、インドネシア人のシンボルであり、日本とインドネシアの特別な関係も表しています。