風色明媚

     ふうしょくめいび : 「二木一郎 日本画 ウェブサイトギャラリー」付属ブログ

6月30日火曜日

2009年06月30日 | 仕事場
ルクセンブルグ大聖堂の一回目の下塗りが終わった27日の状態です。



今回は現物の色合いに近い常識的な色使いからスタートしています。
まず全面に色を置いてしまうのはいつもの通りです。
聖堂各部の材質の違いを意識すると共に完成時の表情を考慮しながら絵具の置き方を工夫しています。
聖堂は11番の岩絵具で3~4色、空はコバルトブルーを白亜で薄めたものだけです。
この段階では明るい昼間の風景といったところです。




29日の状態です。
全体にグレー(岩黒+方解末、11番に9番を少量混ぜたもの)をかけてから、更に調子をつけています。
暗くコントラストが低くなってきて、徐々に日が沈んできたかのようです。
それもそのはず、この作品は最初から夜景にするつもりでした。
2月に仕上がった50号の「聖堂夜雨」も夜景でした。
最近私は夜景ばかり描いています。
元々カラリと澄み渡った明るい昼間の風景は苦手でしたので、無理して苦手なものを描く必要はないなと開き直った結果です。
「聖堂夜雨」は雨上がりの夜でしたが、これは晴天の夜です。


そして、現在同時進行している六点の内の二点の下描きです。



紫陽花は昨年制作した4号大のパステル画を元にした8号です。
ヒヤシンスは10号です。
両方とも花だけに水彩の色を入れていますが、これは単なる気分です。


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6月24日水曜日

2009年06月24日 | 仕事場
ルクセンブルグ大聖堂の下描きが終了しました。
いつものように鉛筆と薄墨で描いていますが、消えなくなった部分の修正のため一部水彩の白も使っています。



空の上端の色の薄い部分は最初から余分だった5cmですが、やはり必要ないようです。
これで画面サイズは当初の予定通り、横1m縦90cmに決まりました。



この下描きは完成イメージとは相当異なります。
現在は暗く長いトンネルの入口に立って今後の仕事の進め方を思案している段階です。


この大聖堂は建築にどのくらいの時間がかかったのでしょうか。
完成後も現在までに何百年の歴史が積み重なっています。

この作品はおそらく数ヶ月で仕上がるでしょう。
聖堂が建設されて現在に至るまでの時間に比べたら一瞬に等しいくらい微々たる時間です。
一瞬に等しい時間で大聖堂の辿ってきた歴史の”重み”を受け止め表現するためには、生半可な気持ちではいられないことをしみじみ感じます。

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御射鹿池

2009年06月22日 | 日常雑記
今、この記事を書きながら富田勲の「牧神の午後への前奏曲」を聴いています。
かつて坂東玉三郎が主演した映画「夜叉が池」の主題曲です。



御射鹿池(みしゃがいけ)は山紫水明という言葉がとてもよく似合います。
風が止んだ一瞬、鏡のように周囲の木々を映し出す池の水の中には、この世界とは違う別の世界が存在するかのようです。
それは人々の見果てぬ夢である桃源郷なのかもしれません。
思わず池の中に入って行きたい衝動に駆られます。

この池は長野県の名峰八ヶ岳山麓の蓼科高原の森の中にある小さな池です。
先日、長野県諏訪市で月1回開講している私の日本画教室に出向いた際に取材に立ち寄りました。
昨年11月以来二度目の取材になります。
”みしゃかいけ”、”みさかいけ”、”みしゃがいけ”などと読みますが、正式な読み方は判然としません。
私は”みしゃがいけ”という呼び方が好きです。
「夜叉が池」と語呂がよく似ていますし、幻想的な雰囲気に相通ずるところがあるからです。



蓼科高原と言えば、白樺湖や女神湖、蓼科湖などが有名です。
それらよりずっと規模の小さい池ですが、今や知る人ぞ知る人気のスポットです。
開発が進んでいる蓼科高原ですが、池の周囲には小さな温泉があるくらいで民家などはありません。
とは言っても辿り着くのに難儀する秘境というわけではなく、麓の茅野市から車で一時間以内に着きます。



この池は天然の池ではなく、昭和初期に農業用溜池として作られたものです。
下流側には一直線に伸びた堤防があって、人工の池であることが分かります。



池の畔には高原らしく白樺が生えています。
常識的だと批判されようと、やはり高原には白樺がつきものなのです。


御射鹿池という名前を初めて知ったとき、諏訪の古代史に興味のある私の脳裏に浮かんだのは、やはり諏訪大社の神事との関連でした。
諏訪大社の神事と言えば、全国的に名を知られる日本三大奇祭の一つ「御柱祭り」が筆頭に挙げられます。
しかし、昔は上社(かみしゃ)前宮(まえみや)で執り行われている「御頭祭(おんとうさい)」が最も重要な祭りだったようです。
かつて75頭の鹿の首が捧げられたという壮絶な奇祭「御頭祭」。
それについてはまた別の機会に。


私は昼間の池しか見たことがありませんが、空が白み始めた早朝、あるいは満月の夜などはどう見えるのか…想像するだけで心踊ります。
おそらく見る人を池の中に引きずり込んでしまうような、妖しく神秘的な魔性の姿を見せてくれるでしょう。

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6月16日火曜日

2009年06月16日 | 仕事場
今年の2月以来、4ヶ月ぶりに50号大の作品を描き始めました。
題材はルクセンブルグのノートルダム大聖堂です。
以前、習作のような水彩を1点描いたことがありましたが、日本画でルクセンブルグ大聖堂を描くのは初めてです。
それどころかイタリア以外の聖堂を描くのさえ初めてだと思います。

ルクセンブルグの首都ルクセンブルグ市には15年くらい前に一週間ほど滞在したことがあります。
ちょうど秋真っ盛りで、小さな国の小さな首都の公園が鮮烈な紅葉に彩られていたことを思い出します。
特に街を二つに分断しているペトリュス渓谷の紅葉は見事です。

ノートルダム大聖堂と言えばパリの大聖堂の代名詞のようになっています。
ノートルダムとは「我々の貴婦人」と言う意味で、つまり聖母マリアのことです。
聖母マリアに捧げられた聖堂、フランスでしたらランス・シャルトル・ストラスブール・アミアン・ルーアンなどの聖堂は、みなノートルダムという名前なのです。
これらはフランスが世界に誇るゴシック様式の大聖堂群です。
フランス以外でも、ルクセンブルグのようにフランス語圏にはノートルダム大聖堂が建てられています。


今日から下描きを始めましたので、また制作過程の連載も始めます。



これは当時のスケッチです。
これをベースとし、下をカットして屋根を中心とした構図にします。
右側の切れて分からない身廊の後半部は写真を参考にして付け加えます。



こういう構図です。

パネルの都合上1mx95cmのものに紙を貼っていますが、画面の大きさは横1m縦90cmにする予定です。
余分な5cmはすべて空に割り当てていますので、今後様子を見ながら画面の縦寸法を決めるつもりです。

私はスケッチと写真とパソコンで作った下図代わりのイメージ画像を見ながら描いていきます。
イメージ画像には16分割線が入れてありますので、本画の画面にも最初に16分割線を引いてガイドラインとします。
まだ始めたばかりですので、形を探るように6Bの鉛筆を寝かせて腹を使って描いています。
鉛筆を立ててしっかり描き込むのは、大きな修正の必要がなくなってからです。
使っている雲肌麻紙(くもはだまし)という紙は、和紙とは言っても厚く丈夫ですので、消したり描いたりしても簡単には痛みません。
それでも和紙ですから、描くのも消すのも洋紙よりは慎重さが必要です。
画材を労りながら使うことは大切なことですが、だからといって消極的になってしまっては元も子もありません。
もし痛んでしまったら、裏打ちを追加して補強してあげればいい…。
そのくらいの積極性は必要だと思います。

この作品の他にも4~10号までの5点を描き始めますので、また折に触れて紹介しようと思っています。

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式年遷宮・穂高神社の場合

2009年06月03日 | 夢想の古代史
式年遷宮と言えば、誰でも神社の総本山とも言える伊勢神宮を思い浮かべるでしょう。
20年に1度、すべての社殿を建て替えて隣接する新御敷地に移動する壮大な儀式です。
次回は4年後の平成25年。
すでに遷宮に向けての行事や準備は着々と進行中だそうです。

それに比べて知名度・規模共に伊勢には遠く及ばないものの、私の故郷に近い長野県安曇野市にある穂高神社でも式年遷宮の伝統があります。
実は今年が穂高神社の式年遷宮の年にあたり、すでに先月遷宮は実質的に終了しています。


 穂高神社の神楽殿から拝殿を望む(遷宮前)

ここの遷宮は、伊勢のようにすべての社殿を建て替えて移動するのではないのです。
15世紀の記録によれば、元々はすべての社殿を改築したのですが、江戸時代から現在の方式に改められたようです。
穂高神社の遷宮は、三棟ある本殿の内、一棟だけを新築し一棟を移動したのち祭神を移動するのです。
今年はそれに加えて127年ぶりに拝殿も改築されました。

では、一棟だけ本殿を改築して遷宮を実現するためにどのように祭神と社殿を移動するのか。
その手順を言葉だけで説明するとちょっとピンと来ません。
複雑ではないのですが、直感的に理解しにくいので略図を使って紹介してみようと思います。




これは拝殿から見た本殿の配置で、遷宮前、つまり昨年までの状態です。
中心となる中殿には穂高神社の主神・穂高見命(ホタカミノミコト)
左殿には穂高見命の父で海神の綿津見命(ワタツミノミコト)
右殿には天孫降臨の主人公、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫のニニギノミコトが鎮座しています。
右端の神明社には神道の最高神・天照大神が祀られています。



今回の遷宮では、向かって左端の最も古い右殿(60年経過)が解体されました。
解体された右殿は資源の有効利用のため、埼玉県の秩父神社に払い下げられるそうです。



向かって右端にある神明社を右殿のあった位置に移動します。



旧左殿(向かって右から二番目にあったもの)を右端に移動します。



旧左殿のあった位置に新しい本殿を建築します。



新築の本殿は新しい中殿となって主神・穂高見命が入り
旧中殿は右殿となってニニギノミコトが入り
移動した旧左殿は左殿のままで綿津見命が入ります。
遷宮のたびに、常に新築の本殿には主神・穂高見命が入ることになっているのです。
穂高神社の主神ですから厚遇されるのは当然のことですね。

穂高神社ホームページ
伊勢神宮ホームページ


さて、肝心なのは遷宮をする理由です。
建築技術の継承のためであるとか、神社の清浄さを保つ(常若”とこわか”という)ためであるとか、いくつかの説があります。
莫大な費用と手間をかけて、なおかつ昔ながらの伝統を頑固に継承する目的とは、本当にそれらだけなのでしょうか。

建築技術の継承のためだと言うのであれば、他の神社でも同じ様式の社殿を建築すればいいのではないでしょうか。
それを禁止しているのであれば、その理由とは何なのでしょうか。
その神社独自の神聖な様式だから?
伝統を廃れさせないためには悠長なことは言っていられないはずです。
伝統の保護のためと言っておきながら、他の神社では禁止というのであれば理不尽です。
理不尽なことをあえて継続しているのだとしたら…そこには深い理由が隠されているはずです。

遷宮に付随して今年は127年ぶりに拝殿も改築されました。
127年ぶりならば納得できます。
たった20年に1度とは…。
果たして、遷宮の本当の理由とは何なのでしょうか。


-------------- Ichiro Futatsugi.■


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