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ガンバで新曲

2017-07-29 | weblog

ヴィオラ・ダ・ガンバで新曲。
こういう時というのは音楽的な喜びというようなものはない。
心が動くとか、そういうこともあんまりない。

なにしろ楽譜を読むだけでこちらは精一杯なので僕が今までささやかながら培ってきた音楽の「お」の字もそこにはない。
楽譜を読むことだけにとらわれている演奏者などそれはもう演奏しているという姿ではないのである。
でもそれはそれで必要な段階でもある。
生徒諸君を見ていてもそうだし、ガンバで新曲やる時の自分自身もやっぱりそうだ。

最初の最初の段階としては音符を1個、1個読むことなのである。
ハ音記号には慣れて来たけれども、それでも通奏低音の数字と指使いの数字が細かく書き込まれた楽譜を読むのは大変だ。

というわけで僕にとってガンバで新曲の練習するというのはまずもって全く音楽的なものはそこにはないのである。
でもそれでも良いことにすると少しは気がラクなのだ。

音楽、音楽とあんまり言わないで、だまって指の練習、身体を動かす練習だと思えばそれで良いのだ。

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bad imitation

2017-07-29 | weblog
もうずいぶん前のこと(多分、2000年頃。まだベルギーに居た頃)だけれども、この曲Mudaiを書いて自分で演奏した時に、ある人から「君の音楽は廣瀬量平の亜流だ」と言われたことがあった。
互いに英語で話していたのだが、その人は亜流のことをbad imitation と言った。

その人にとっては僕の曲は廣瀬量平の亜流にしか過ぎないのだろう。
でももうそういうこと、ようやく最近になってふっきれて来た。
確かにそうなのかもしれない。

でももうそれはそれで良いと思うのだ。
音楽の歴史に残るような曲がこれから書けるのかどうか、僕にはもうそういうことはどうでも良い。何か書いたとしてもそれがどう評価されるのか僕にはわからない。
でもそれは書いてみなくては始まらない。

今日(日付が変わったからもう昨日のことになるけれども)、学生諸君が音楽を作っている様をみて今更ながら僕も、これから、と思えるのだ。

Mudai- Fumiharu Yoshimine 1999 (無題)

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覚書2017年7月28日

2017-07-28 | weblog
勤務先の大学の作品試演会に行った。
専任の先生による作曲ゼミ、作曲専攻の授業、そして僕が担当している創作・編曲法という授業で学生諸君が作曲したり、編曲したりした作品による学内の演奏会。

ここではそれぞれの作品の細かい批評をするという意図ではなく、プログラムの最後に出て来た学生諸君の合唱について感じたことをメモしておきたい。

それは作曲専攻の学生がある幼稚園のために作ったもの。プログラムによると幼稚園のイメージソングとなっていた。
それを作曲専攻の学生のピアノ演奏、そして今回参加した学生諸君が歌った。歌といっても幼稚園児が歌えるような歌を意図してあるので旋律はひとつ。それにピアノ伴奏があるだけ。1番と2番の間には短い間奏。それだけ。

それを聴きながら僕はなんだか心の深いところが揺れ動くのを禁じ得なかった。
今までずっと若い頃から他人の演奏や録音などは冷静に、分析的に聴くように訓練され、また自分自身にもそのように課して来た。
曲の構造、演奏者の意図、演奏そのものが様式にどれほど合致しているのか、またどれほど既存の様式から離れようとしているのか、していないのか、あるいはまたその演奏のどこかに新しい様式を作るだけのじゅうぶんなエネルギーがあるのか、どうか、複数の演奏者がいるなら、それぞれの演奏者の間に横たわる演奏者としての格の高さの違い、それを生み出す客観的な理由などなど。。。。

でも今日の最後の幼稚園の歌を聴きながら僕のなかのなにかが静かに崩れて行った。
それを言葉にして表すのは難しいけれども、しいて言うならば「音楽は音楽だけで出来ているのではない」ということ。

僕みたいな人間がこういうこと言うのは自分で言うのも何だけれど、自分自身の方向性がずれているのを感じる。
でも、もうそれが良いことなのか、悪いことなのか僕にはよくわからない。

若い頃からずっと自分を音楽家として訓練して来た。
音楽家なら音楽上の行き詰まりは音楽で解決しなければならない、と思ってずっとその方向でやって来た。
それが間違っているとは今でも思わない。

思わないけれども、どうも僕自身が深く感動するものというのは僕が思っているような方向だけではない。
最後の幼稚園の歌、はっきり書いてしまえば音楽的に新しいものはさほどない。
演奏そのものが特筆すべき高さにあるというものでもなかった。

でも何故、僕はそういうものに感動してしまったのだろう。

まるで珍しい生き物を観察するような目で僕は今から数時間前の僕自身を思い出している。

使い古された言い方だが、そこには物語りがあった。
でもたいした物語でもない。
その時、演奏した学生諸君との授業の中であるいは廊下での立ち話し、あるいは休み時間などのちょっとした会話。
それは他愛のないことだ。アルバイトが忙しいとか、サークル活動でこんなことがあったとか、あるいはまた授業時間に学生諸君が見せてくれる間違いだらけの対位法の課題とか、あるいは合奏(リコーダー)で学生諸君が演奏するたどたどしいプラスチックリコーダーの音色とか。。。。。

そういうものがその幼稚園の歌を聴きながら僕の頭のなかに浮かんで来て僕はたまらなくなった。
ようするに僕のなかに目の前で歌っている学生諸君ひとりひとりの物語がある勢いを持って動き始めた。

僕は「ああ、今、生きてるんだ」と思った。
「ひとりじゃなくて、今、目のまえで音楽を奏でている皆と一緒に生きてる」と思った。

こういう聴き方、あまりプロフェッショナルな聴き方とは言えない。
それは自分でもわかっているつもりなのだ。

でもこういう方向性を持ったまま僕はこれからも音楽をやってゆくのだろうと思う。
だからと言って演奏技術や作曲、編曲に関する技術がなくても良いとか、練習しなくても良いとか、そういう話には全然ならないのだけれども。

P.S.
合唱ってすごく良い形だと思う。
ひとりひとりがものすごく先鋭的な独奏者としての力量を備えていればいるほど。
独奏者、あるいは一人でもじゅうぶん表現の出来る奏者があえて、ほかの演奏者と一緒にまったく同じ旋律を歌うということ。。。。これ、有るようでいてなかなか無い。

はっきり言ってしまえば合唱というのはひとりひとりの声は聴こえなくなる。
それでも敢えてそのことを承知で、それぞれの人は歌っているのだ。
それぞれの物語を背負いながら。


P.S.
もしかしたら人間の声というものが備えている何か、しかもそれが同時に出て来る際に起きる何か、それにやられたのだろうか?


P.S.
あるいはまたその時、それぞれの演奏者から「うまくやってやろう」というような気が発散されていなかったということも?


P.S.
その直前に演奏されたエレクトーン独奏とのギャップの大きさ?


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ヴィオラ・ダ・ガンバ練習

2017-07-25 | weblog

一連の編曲と録音作業が一段落したのでまた練習に戻った。
明日はちょっとだけ合わせがあるのでちゃんとウォーミングアップしておきたい。
マレとフォルクレの曲の練習。
この楽器は2013年に原田ヴァイオリン工房の原田哲さんが製作したもの。弦長70センチ。
素晴らしい楽器!

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Fumiharu Yoshimine Sonata for recorder and harpsicord (2013) 1st ,2nd mov.

2017-07-25 | weblog
新しい曲に取り掛かる際には時々、以前の曲が聴きたくなることがあって、これを聴いてみた。
しばらく前に書いた曲「リコーダーとチェンバロのためのソナタ」。

ついこの間のことに思えるけれど、2013年だからもう4年もたってしまった。
なんだか最近、時間がたつのがどんどん速く感じられるのはどうしてなのだろう。

実を言うとなんだかちょっと自分自身に対してちょっと弱気になってしまっていたかもしれない。曲を作ろうとしても自分のなかで「そんなもの作ったってダメ、ダメ」というようなそんな声があるような気がしていた。ここしばらく最近。

でもこんな曲を聴いてちょっとだけ元気出てくる感じがする。
自分にもこれくらいの曲、作れるんだと思える。

思えばここ最近、書けなくなってしまっていたことかなり深刻だったのかもしれない。

いわゆる現代音楽みたいなものは僕にはもう到底、書くことは出来ないだろう。
修行時代はそういうものを目指したこともあったけれどやっぱり無理だ。
でもそういう方向だけではなくとも何か新しい曲(古い語法のものであっても)は作れるかもしれない。

自分の作曲作品をこれから書くということに関しては今、リハビリしているような状態だ。
歌謡曲のリコーダー編曲も、実のところ、音符を書くための自分の練習みたいなものだった。

少しずつで良いからリハビリ。
まるで生徒諸君に接するように自分自身に接してみる。
自分自身を励ましてみる。

Fumiharu Yoshimine Sonata for recorder and harpsicord (2013) 1st ,2nd mov.

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中島美嘉「雪の華」リコーダー・ピアノ用編曲

2017-07-24 | weblog
中島美嘉「雪の華」をテナーリコーダー・ピアノ用に編曲してみました。


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絢香「三日月」Ayaka"Mikazuki" リコーダー tenor recorder

2017-07-24 | weblog
絢香の「三日月」をテナーリコーダーとピアノ用に編曲してみました。

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宇多田ヒカルHikaru UTADA "First Love" テナーリコーダー tenor recorder

2017-07-24 | weblog
宇多田ヒカルの"First Love"テナーリコーダー・ピアノ用編曲を録音してみました。

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音楽における「きめこまやかさ」

2017-07-24 | 音楽制作覚書
音楽における「きめこまやかさ」という問題。

普通は芸術的な音楽というものはきめこまやかなものだという認識を我々は持っている。
しかし、本当にそうなのだろうか?

芸術的な音楽にもいろいろなものがあって良いのではないだろうか?

例えばテレマンの二重協奏曲ホ短調(リコーダー、トラヴェルソ)の最終楽章。これなどきめこまやか、というよりはどこかの民族音楽の語法をそのまま持って来たようにも見える。少なくとも主題部分を見るかぎり非常に単純な作りになっている。こういうものはバロックの作品のなかにはかなり良く見られる。

それでは具体的にどんなチカラが働いてそれらの曲が最終的に「芸術的」なものに仕上がってるのだろうか?

単に演奏するだけではなく作品の背後に潜むチカラの在り方を探る。
こういうアプローチを伴いながら演奏することが出来ればまた面白い展開が生まれるのではないだろうか。

芸術的な作品をただ今までのように演奏するだけではないひとつのアプローチ、あるいはまたこれから新しい音楽(必ずしも、通常の意味できめこまやかな外見がなくても良い)を作るためのひとつのヒントとして。

p.s.
答えのひとつは形式にある。
ロンド形式。
主題と主題の間にはさまっているエピソードの部分の作りは普通の意味で芸術的。ポリフォニックでもあり、声部と声部との間のダイアログもある。

ということは主題そのものはかなり素朴かつ単純な作りのものであっても、エピソードにあたる部分をある程度まで作りこむことが出来れば最終的な音楽的強度は保証されるということになるのでは。

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