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違う自分

2017-04-24 | weblog

違う自分になりたい欲望というのは人間が備える根源的なものなのかもしれない。
でも普段は日々の生活があってなかなかそうもゆかないからそういう欲望はますます押さえつけられて強くなってゆくのかもしれない。

たとえば普段から「コスプレ」みたいな格好で生活することって出来ないものなのだろうか?
自分自身で「コスプレ」やったことがないのでわからないのだけれども、あれは普段着と違って一日、ああいう格好で何らかの原因で出来ないものなのだろうか?

すごく身体とか、顔に負担がかかったりするのだろうか?

それとも化粧の都合みたいなものがあって、朝から晩まで長持ちするようなものではないのだろうか?

普段から「コスプレ」出来るような社会が実現すれば「コスプレ」関連の需要は下がってしまうのだろうか?

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昨日、ちょとだけ「コスプレ」に関連して思ったこと。
この人がこの曲を演奏するのを聴いている間だけは違う自分でありたい、というようなそんな気持ち。

これ、多分、かなり普遍的なものなのかもしれない。

古来、人間は聖なるものを作りだして(偶像崇拝とか、そのような呼称で忌み嫌われることもあるけど)、そういうものを拝んで来た。

北島三郎の公演ではさぶちゃんが登場すると、年配のお客さんはさぶちゃんに向けて手をあわせて拝むらしい。

こういうところにヒントがあるような気がする。

これは多分、人間って、何かを拝みたい、っていうものすごく強い気持ちがあるんだけれども、普段はなかなかそういう自分自身の気持ちを実際の形として表現させてくれるような状況には出会うことが出来ないから、さぶちゃんの公演みたいなものは成り立つとも考えられないだろうかな。

なんで、こうなるのかな。
もしかしたら、人間ってすごくさびしがりやだからかな。うまく表現できないけど。

多分、「拝む」っていう行為は「拝む」という動作(それは人間にとっては聖なるもの)を通じて対象となる人やものと一体化するっていうことなのかも。
そういう風に考えると「拝む」っていうことと「聴く」っていうことはすごく似てるんじゃないだろうか

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今の学問として認められていることではないかもしれないけれど

2017-04-24 | 話のタネ
今の学問として認められていることではないかもしれないけれど、中世のヨーロッパの音楽理論に3種類の音楽という分類があった。
Musica Mundana(宇宙の音楽)
Musica Humana(人間の音楽)
Musica Instrumentalis(道具の音楽)
このうち、通常、人間が音楽として認知することの出来るものは一番低い次元に位置している(道具の音楽)ということになっていたらしい。つまり実際に声や楽器を奏して鳴り響く音楽。

上位のふたつは人間には音楽として認知することは出来ない。
(人間の音楽)や(宇宙の音楽)というなかで使われる(音楽)という言葉は今21世紀に関わらず中世のヨーロッパにおいて例えば人間が生まれて、その間いろいろな活動をして歳をとって死んでいったり、あるいは天体の太陽や月、星たちがある規則ただしいリズムのもとに動いていたりしている、そういう在り方を(音楽)と呼んだらしいのだ。

つまりここで言うところの(音楽)は実際に僕たちが(音楽)だと思っている(音楽)ではなく、むしろ調和の根本原理みたいなものを(音楽)だと指していたらしい。

そういえば(音楽)の語源であるミューズ。これは別に「楽しい」というような意味があるわけではなく、もともとは芸術をつかさどる女神の名前だった。こんなことを思いをめぐらせてみると(音楽)はもともと神がかった意味合いをもつものだった。

それでは今、(音楽)として流通している(音楽)は全て(道具の音楽)なのだろうか?
厳密な区分に従えばそうなるけれども、極めて限られた種類の(道具の音楽)には(人間の音楽)、あるいは(宇宙の音楽)が反映されている、と考えることが出来ないだろうか?

だとすれば今、僕たちがやろうとしている(音楽)は実は単なる(音楽)ではなくて、人間や、動物、植物、大自然、あるいは宇宙が存在するための根本的な原理が反映しているものだということのなるのではないだろうか?

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作り続けながら

2017-04-23 | weblog

作り続けながら思うこと。
やっぱり作ることがあってこそなんだなと思う。

人によってはもちろん演奏だけで素晴らしくその人自身を表現出来る人もいるから、それは良いなあと思う。
でも本当にそうなのかなとも思ったりする。
だってどんなに演奏が素晴らしくて、演奏が専門の人でも24時間、演奏してるわけじゃない。
ごはんたべたり、御茶のんだりするだろうし、時々、ぼけ~っとする時間もあるはずなんだ。

ぼけ~っとした時間を過ごさない人っているのかな。
もしかしたらいるのかも。。。。
いるのかな。。。。。

数日前にやりとりしたメール。ヨーロッパのある国のひとのやり取りしたメール。たったの一往復。
それだけでなんとなくわかったことがあって嬉しいというか、安心した。
日本もヨーロッパもあんまり変わらないんじゃないかと思った。
ちょっとだけそんな風に思った。

音楽っていいよね・・・・なんて簡単に言われてしまうと、「そうかな、本当にそうなのかな」って思ったりする。

それは「リコーダーって暖かい音がするよね」ってあまりにも簡単に言われると「そうかな、本当にそうなのかな」って思う。

いいとか、暖かいとか、そういうことは人それぞれにいろいろな感じ方があることなんだけど、でも少なくとも作り手の側にある際に「リコーダーって暖かい音のする楽器」とか、そういうことはこれはもう、ナンセンスとしか言い様がない言葉だ。
だって楽器なんだもの。

誰かが「ピアノってやさしい音の楽器だよね」って言ったらピアニストは怒るんじゃないだろうか。だってピアノってやさしいだけの楽器じゃないもの。

生きてると、なんだか悲しくなるようなこと、少なくない。
リコーダーみたいな楽器やっていると、リコーダーならではの悲しい現実みたいなものがないわけじゃない。

でもそれでもこの楽器やってる。
この楽器のための音楽作り続けてる。

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竹の子

2017-04-18 | weblog
今日は竹の子食べた。
取れたてのすごく柔らかいやつ。
電子レンジにさささっと通してからほんのり甘みのある味噌をちょっとだけつけて食べたら絶品だった。

竹の子食べながら思った。
オルフェウスは竹の子みたいなもの食べたことあったのだろうか。。。。
前史時代のギリシャに竹のような植物が生息していればもしかしたら食べたかも。。。。

もうなんだかここ数日オルフェウスのことばかり考えている。

ああ!

春になるとなんだか気分が浮かれてくる感じになりそうなのだけれども、僕の場合はなんだかもうオルフェウスのことばかりだ。

もし実在の人物だったらどんな音楽家だったのだろうか?
多分、僕らが思っているような音楽家というよりは、今のシンガーソングライターみたいな風だったのかもしれない。
しかも人間だけではなく、鳥や虫、野の獣、草木や岩までもその音楽で魅了してしまうわけだけらただごとではない。
それに加えて、自分の最愛の女性を取り戻すためにあの世まで追っかけてゆくほどの行動力の持ち主ときた。

オルフェウスはもう今はいないけれど、オルフェウス的なココロの働きは日々の仕事でくたびれかかっている僕たちもあるかもしれない。

竹の子食べながら、そんなこと考えてみた。

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