浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介

富山県射水市を中心に、勉強会や講演会を開催している、浄土真宗親鸞会一支部の、日々の活動もようを紹介しています。

病も勝縁に

2010年01月31日 | Weblog
 こんにちは、ふじたろうです(^^)

 しばらく前から体調を崩しており、ブログの更新だけは何とか続けています。

 先週から、コメントを寄せて下さっている方もありますが、お答えできないままで、申し訳ありませんm(_ _)m

 体調が回復し、時間的にも余裕ができれば、お答えしたいと思っておりますので、ご了承下さい。

 さて、病にかかった時に、どのような気持ちで仏法を求めたら良いのでしょう?

 高森顕徹先生は、次のように教えて下さっています。

a「持病がありますので、無理のしすぎは身体を壊してしまいます。かといってじっとしてもいられません。どんな心構えで求めてゆけばよいのでしょうか」
先生「“病は死の便り”といわれる。求道者には勝縁である。病を通して深く人生を考え、“仏説まこと”を知らされてゆく。
 持病を嫌わず、仏法求めるに大事な友達として付き合ってゆく。相談して、『これ以上は無理』と言うならやめる。元気のいい人のように活動しないと、求道でないという固定観念があるようだが、無上仏のお導きは人それぞれ同じではない。
 健康な人より、求道しやすいとも言える。昔は結核で多くの人が死んだ。結核療養所でも説法したが、達者な人には考えられない真剣な求め方をされる。信心喜ぶ人もいた。だからといって病気になればよいとも言えないが。
 問題は、いかに病苦を勝縁とするか。その心がけが大切である。ただ生きているだけでは命は法の宝といえない」


 病も勝縁として、仏法を求めていきたいですね(^^)

礼儀の心得 その2

2010年01月30日 | Weblog
 こんばんは、ふじたろうです(^^)

 今日も、『礼儀』について高森顕徹先生から教えて頂いたことを、紹介します。


 礼儀の基本は、碁や将棋の定石のようなものだから、是非一応は心得ておかねばならないが、相手は千変万化するから、いつでも基本どおりにやれば相手を不愉快にしないというものではない。

 相手に応じてその都度、変化対応せねばならぬのが礼儀である。

 そのためには、常に相手の気持ちを正確に察知しようと心掛けることが礼儀の大切な心得である。

 
 相手の気持ちを察しようとする努力を、常に続けていきたいですね(^^)


礼儀の心得

2010年01月29日 | Weblog
 こんばんは、ふじたろうです(^^)

 今日も、昨日に続けて『言葉の教室』の話題です。

『言葉の教室』では、言葉遣いを通して、礼儀の心を学びます。

 高森顕徹先生は、次のように『礼儀心得』を教えて下さっています。


 礼儀心得の基本は、相手や周囲の人たちに不愉快な気持ちを持たせないように常に自己の言動を考えることである。

 こう言ったら相手はどう感ずるだろうか。

 このようにしたら相手は不快にならないだろうか。

 今黙っていると相手はどう思うだろうか。

 常に相手のことを第一に考え自己の言動を反省することである。


 相手の立場に立つことが、正しい言葉遣いを身につける上でも、必要不可欠ということですね(^^)


『言葉の教室』を受講しました

2010年01月28日 | Weblog
 こんばんは、ふじたろうです(^^)

 今日は、親鸞会館にて『言葉の教室』を受講しました。

 これは、言葉遣いの乱れを憂慮されている高森顕徹先生が、正しい言葉遣いを身につけるようにと、設けてくださったものです。

 高森先生から直接指導を受けられた担当教授の方から、テキストとなるファイルを元に、正しい言葉遣い、間違った言葉遣いを学びます。

 高森顕徹先生が、いかに言葉遣いを重視されているか、次のようなエピソードからも伺えます。

先生「最近、言葉遣いが乱れている。
 他人に“ウチの子供に○○を買ってあげました”などという親が多い」
k「ある電話で、姑の嫁のことを“花子サンは今おられません”と、サン付けで敬語を使っていました」
先生「言葉遣いに、教養の程度が現れる。
 程度に応じて話題を選択し、相手にふさわしい顕正を心がけたいものだ」

 
 「言葉の乱れは思想の乱れ、思想の乱れは社会の乱れ」とも言われます。
 
 正しい言葉遣いを身につけて、親鸞聖人の教えを正しく伝えられるようになりたいですね(^^)

念仏にも三通り

2010年01月27日 | Weblog
 こんばんは、ふじたろうです(^^)
 
 今日は、お昼からテレビ座談会がつとめられました。
 
 今回は、先々回質問が寄せられた、「三通りの念仏」についての続きでした。
 
 親鸞会発行の顕正新聞2月1日号にも、高森顕徹先生の解説が掲載されています。
 
 この記事では、今日も引用されました、高森顕徹先生の『歎異抄をひらく』から復習したいと思います。
 
「念仏者」と聞くと、口で“南無阿弥陀仏”と称えている、すべての人と思うだろうが、そうではないのだ。
 化学的には同じ涙でも、“嬉し涙”あり、“悲し涙”“くやし涙”など、さまざまあるように、ひとしく“南無阿弥陀仏”と称えていても、称え心はまちまちである。
 夜中に通る墓場で、魔除け心で称える念仏もあろうし、肉親に死なれ、悲しみ心で称える念仏もあろう。台本にあるから、仕事心で称える俳優の念仏もあるだろう。
 同じく念仏称えていても、「諸善よりも勝れているのが念仏」ぐらいに思って称えている念仏者(万行随一の念仏)もあれば、「諸善とはケタ違いに勝れた大善根が念仏だ」と、専ら称える念仏者(万行超過の念仏)もいる。
 称え心を、もっとも重視された聖人は、これらの念仏者を総括して自力の念仏者と詳説される。
 それとは違って、弥陀に救われた嬉しさに、称えずにおれない念仏者(自然法爾の念仏)を、他力の念仏者と聖人は判別されている。
 聖人の念仏者とは、いつもその中の、他力の念仏者であり、弥陀に救われた信心獲得の人のことである。

 救われた御恩報謝の念仏を、称える身になるところまで、聞き抜かせて頂きたいですね(^^)
 

仏法は聞きたいけれど、伝えたいとは思わない?

2010年01月26日 | Weblog
 こんばんは、ふじたろうです(^^)
 
 今日は、高岡会館で、富山県の支部学徒の研修会がつとめられました。
 
 研修会では、「『仏法は聞きたい、けれども人に伝えたいとは思わない』ということは、ありえるだろうか?」ということについて、高森顕徹先生のビデオ御法話から学びました。
 
 これを喩えて言えば、蕎麦が好きで好きで、行く先々でソバ屋を食べ歩いてきた人が、たまたま入った蕎麦屋が、今まで食べた中で一番美味しかった。
 そんな時、この人は、他人にその店の紹介を、せずにおれるということがあるでしょうか?
 
 もし、他人にその蕎麦屋のことを伝えたいと思わないとすれば、考えられる理由は二つです。
 
 他人に紹介したいと思う程、美味しいとは思わなかったか、他人に紹介したらやがてそのお店が混み合って、自分がそのお店で食べられなくなるのが嫌だからでしょう。
 
 もし、前者であれば、その人は蕎麦の味が判らなかったのであり、後者であれば、自分さえ食べられれば良いという無慈悲な人です。
 
 仏法を聞かせて頂いても、その教えの尊さが判らなければ、伝えたいとは思わないでしょう。
 しかし、仏法を聞きたいと思うのに、伝えたいとは思わないのは、無慈悲だからでしょうか?
 
 親鸞聖人は、

「小慈小悲もなき身にて 有情利益は思うまじ」

 と仰っています。
 
 小さな慈悲のカケラもない親鸞、人に仏法を伝えたいという心も無い、という悲痛な告白です。
 
 しかしそう仰いながら、親鸞聖人は布教に身を挺しておられるのは、どうしてなのでしょう?
 
「如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」

 阿弥陀如来の御力によって、伝えずにおれないのだと仰っています。
 
「仏法を伝えたい」と思う心は、阿弥陀仏によって起こされる心ですから、どんな無慈悲な人であっても、仏法の素晴らしさが本当に知らされたら、「伝えたいとは思わない」というのは、ありえませんね(^^)


法輪閣で会食会

2010年01月25日 | Weblog
 こんばんは、ふじたろうです(^^)

 今日は、親鸞会館の手前に位置する『法輪閣』で、富山県の支部学徒の会食会が行われました。

 なんとこの会食会には、高森先生もご臨席されました(^^)

 このブログでも紹介した、『往生の一路』や『南無六字の城』の詩吟を吟じられ、その詩の解説も聞かせて頂きました。

 節を覚えるのは難しいのですが、詩吟をご縁として、親鸞聖人の教えを皆さんに知って頂くことができるよう、是非、覚えたいですね(^^)


「信じる」の実態は「疑い」

2010年01月24日 | Weblog
 こんばんは、ふじたろうです(^^)

 今日は、テレビ座談会がつとめられ、歎異抄第1章の冒頭の一行

『「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり』

 について、詳しく教えていただきました。

 ここで、

『「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて』

 とある「信じて」の意味するところは、日常で使われる「信じる」とは、大きく異なることを、教えて頂きました。

 親鸞聖人が使われる「信ずる」とは、仏教の言葉で「深信」を意味します。

 この「深信」について、高森顕徹先生の『なぜ生きる』から復習したいと思います。

「深信」とは、文字から想像するような「深く信じて疑わない」ということではない。
「信じる」と「深信」とは異なる。どこがちがうのか。信じるのは疑いがあるからである。疑う余地がまったくないことは「知っている」という。
 やけどでひどい目にあった人が「火は熱いものと信じている」とは言わないだろう。体験してハッキリ知っているからである。
「わが校では、いじめはないと信じている」と、校長が言うのは、あるかもしれないという疑いがあるからであろう。
「深信」とは、「露チリほどの疑いもなく、明らかに知らされたこと」をいうのだから、親鸞聖人は、
「真に知んぬ」
 蓮如上人(聖人の子孫・真宗中興の祖)は、
「今こそ明かに知られたり」
と「真知」とか「明知」と言われている。疑いの心を抑えつけて信じ込もうとするのとは、まったく異なるのである。

 常識だけでは、親鸞聖人の教えは正しく理解できないことが、知らされますね(><)

財は一代、法は末代

2010年01月23日 | Weblog
 こんばんは、ふじたろうです(^^)
 
 先週のテレビ座談会で教えて頂いた『布施』について、大きく分けて2種類あると教えて頂きます。
 
 それは、『財施』と『法施』です。
 
 『財施』は、今まで紹介してきた通り、お金や物を施すことです。
 
 『法施』とは、真実の仏法を聞かせ、教えることです。
 
 『法施』の功徳は『財施』の功徳に勝ることを、次のようなお言葉で教えて頂きました。
 
 「財は一代の宝、法は末代の宝」
 
 財を与えても、相手が幸せでおれるのは生きている間だけ、死んだら置いていかなければなりません。
 つまり財施は、生きている間だけの喜びを与えるものです。(実際はそれすらも、なかなかできません。)
 
 それに対して法施は、死んだ後もずっと喜ばせることになり、未来永遠の幸せを与えることができます。
 
 どんな財を与えるよりも、仏法を聞かせる方が良い、とはなかなか思えないことかもしれませんが、私たちができる最高の善は、この『法施』であると教えて頂きます。
 
 教えを知らない人には、法施はできません。
 
 親鸞聖人の教えを聞かせて頂いている私たちは、精一杯、法施に努めたいですね(^^)
 

義援金詐欺に注意!

2010年01月22日 | Weblog
 こんばんは、ふじたろうです(^^)
 
 今月12日(現地時間)に発生したハイチの大地震は、10万人近い犠牲者と、150万人程の被災者を生んだそうです。
 
 テレビや新聞の報道を見て、悲惨な状況に、心痛める人も多いでしょう。
 
 各国からの救援も相次ぎ、日本からも昨日、自衛隊の医療援助隊が出発したそうですし、団体や個人からの義援金も多く寄せられているようです。
 
 今日は他人の身、明日は我が身ですから、苦しみ悩んでいる人には、大いに救いの手を差し伸べなければなりません。
 
 しかし、ここで注意しなければならないのが、震災が起きると必ずといって良い程現れる、『義援金詐欺』といわれるものです。
 
 今回の大地震でも、アメリカでは、赤十字社をかたって義援金をだまし取ろうとする迷惑メールが横行しているそうです。
 
 以前の記事 にも紹介しましたが、震災に遭われた人に、お金や物を施すことは、素晴らしい善行ですが、詐欺師にお金を渡すことは、決して善にはなりません。
 
 せっかくの善意が無駄にならないよう、布施する相手を、くれぐれも間違えないように注意したいですね(^^)

追記

 ちなみに、米国連邦捜査局(FBI)は以下のように注意喚起しています。
 
・メールやインターネット上で被害者や政府関係者を名乗って寄付を要請している者には注意が必要
・リンクのあるスパムメールは開かない
・非営利団体の合法性を確認する
・被災地の写真を添付した知らない発信者からのメールはウイルスが含まれているおそれがあるので開かない
・寄付の要請者に対し、個人情報や財産情報を提供しないよう気をつける

 日本語の迷惑メールは、ほとんど無いかもしれませんが、気をつけましょう!