昨晩は、富山県の支部の研修会が高岡会館で行われました。
研修会では、高森顕徹先生のビデオ御法話から「歎異抄七章」の解説を聞かせて頂きました。
高森先生は、「歎異抄をひらく」の中に次のように意訳されています。
研修会では、高森顕徹先生のビデオ御法話から「歎異抄七章」の解説を聞かせて頂きました。
念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。 (第七章)
高森先生は、「歎異抄をひらく」の中に次のように意訳されています。
弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、
と聖人は仰せになりました。
阿弥陀仏に救われれば、どんなに優れた人間の知恵や努力では、獲ることもできなければ想像すらもできない幸せに生かされることが、知らされますね(^^)
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、
と聖人は仰せになりました。