浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介

富山県射水市を中心に、勉強会や講演会を開催している、浄土真宗親鸞会一支部の、日々の活動もようを紹介しています。

歎異抄第7章

2009年07月31日 | Weblog
 昨晩は、富山県の支部の研修会が高岡会館で行われました。

 研修会では、高森顕徹先生のビデオ御法話から「歎異抄七章」の解説を聞かせて頂きました。

 念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。             (第七章)

 高森先生は、「歎異抄をひらく」の中に次のように意訳されています。

 弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。
 なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、
と聖人は仰せになりました。

 阿弥陀仏に救われれば、どんなに優れた人間の知恵や努力では、獲ることもできなければ想像すらもできない幸せに生かされることが、知らされますね(^^)

親の恩を知らされるのは・・・

2009年07月30日 | Weblog
 昨日の続きです(^^)

 どれだけ教育現場で、親の恩を教えられても、心から親の恩を感じられる人は、果たして、どれだけあるでしょうか?

 親の恩に感動、感謝できるかどうかは、人間に生まれた喜び、仏法を聞いている幸せを、感じられるかどうかで分かれると、教えて頂きます。

 親の恩を感じられるのは、親が私を産んで育ててくれたことに感謝できる人であり、人間に生まれたこと、生きていることに喜びを感じられる人です。

 自殺を願っている人には、親の恩を感じることはとても無理でしょう。

 むしろ、親が産んで育ててくれさえしなければ、こんな苦しみを味わわなくて済んだのにと、親を怨んでいるのかもしれません。

 「よくぞ人間に生まれたものぞ」の生命の大歓喜を獲られるのは、阿弥陀仏に苦しみの根元である無明の闇を破って頂き、未来永遠の幸福に生かされた時であると、教えて頂きます。

 仏法を聞き、人生の目的を知ることがなければ、本当の親の恩も知らされないということですね(^^)
 

親の恩について

2009年07月29日 | Weblog
 昨日は、「なぜ生きる」を演題にお話された、高森顕徹先生の御法話をビデオで聴聞しました。

 御法話の中で、「親の恩」について触れられました。

 戦前の日本では「忠孝」が徹底され、天皇に対する忠義が最高の善であり、その次が親に対する孝行であると、教えられていたそうです。

 戦争に負けて、「忠義」が排斥されると共に、「孝行」までないがしろにされてしまい、今日では、「親の恩」といってもピンとこない人が多いと言われます。

 こんな話も聞いたことがあります。

 一年生の児童を集めて先生が、
「親の恩が分かる人ありますか」
と尋ねると、オン鳥・メン鳥のことかと思って、
「親のオンはお父さんです。親のメンはお母さんです」
と得意そうに答えたという。

 しかし、親の恩を感じられないのは、教育に原因があるのでしょうか?

 明日に続きます(^^) 

遷仏会が勤められました

2009年07月28日 | Weblog
 今日は、先週の土曜日にあった行事の様子を紹介します。

 この日は、支部の親鸞学徒のYさんのお宅で、遷仏会が勤められました。

 Yさんのお宅のお仏壇に、今まで本尊として安置されていたのは、阿弥陀仏の木像でした。

 しかし親鸞聖人は、正しい御本尊は「南無阿弥陀仏」の御名号であると教えられています。

 蓮如上人も御文章に、次のように教えられています。

「南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」

 名号には、私達を無上の幸福にする力がある、ということです。

 これを知られたYさんは、御名号を本尊に迎えたいと申し出られました。

 写真は、その遷仏会の勤行の様子です。

 Yさんのひときわ立派な仏壇に正御本尊がご安置され、一層、きらびやかなお仏壇となりました(^^)


ウソをつくのは人間だけ

2009年07月27日 | Weblog
 昨日の続きです(^^)

 約束を破ることは、他人を傷つけるだけでなく、自分も信用を失い、己をも傷つけることになりますから、厳に慎まなければならないことを、教えて頂きました。

 人間でさえ、そのように心がけているのですから、ましてや仏様が約束を破る、ウソを言うということは、仏の自殺行為であると教えて頂きます。

 衆議院が解散すれば、代議士はただの人になってしまうように、仏様もウソをついたら迷いの衆生です。

 ちなみに、ウソというのは人間の世界にしか無いことを、次のお話から教えて頂きました。

 これは世阿弥の「羽衣」という能に出てくる一節だそうです。

 ここは、駿河国、三保の松原。
 波が静かに打ち寄せる浜辺に、緑の松林が続いている。
 すがすがしい朝日を浴びて、地元の漁師、白竜が砂浜を歩いていた。
 すると、どこからともなくよい香りが漂ってきた。
 松の枝に、美しい衣が、掛けられているではないか。
「おお、これは素晴らしい」
 手にとって、持ち帰ろうとすると、木の陰から一人の女性が現れた。
「待ってください。それは私の衣です」
「何を言うか。拾った俺の物さ。家の宝にするんだ」
「それは、天人の羽衣です。人間には必要のない物です。お返しください」
「ほう、そんな珍しい物ならば、なおさら返すことはできないよ」
「なんて悲しいことを言われるのですか。羽衣がなければ、私は、空を飛べません。天上界に帰ることもできないのです。どうか、お願いですから、返してください」
「いやだ!」白竜は突っぱねた。
 天女は泣くばかりである。
 しかし、悲しみに打ち震える姿が、あまりにも痛ましく、白竜は、次第に、かわいそうになってきた。
「では、天人の舞を見せてくれれば、衣を返してやってもいいが、どうだ」
「たやすいことです。舞をお見せしましょう。そのためには、まず、衣を返していただかないと……」
「まてまて、この衣を返したら、舞を見せずに、そのまま天に昇ってしまうつもりだろう」
 天女は、静かに答えた。
「いいえ、疑いは人間界にしかありません。私たちの天上界には、うそ偽りというものはないのです」
「いや、これは恥ずかしい……」
 白竜から羽衣を受け取った天女は、美しい曲を奏でながら、舞を披露し、歌いながら、天へ帰っていくのであった。

 人にウソをついてばかりいると、周りの人間も、自分にウソをついているのではなかろうかと、思ってしまうものですね(><)


信用の基

2009年07月26日 | Weblog
 今日は、高森顕徹先生から親鸞聖人の教えを学ぶ、教学講義の日でした。

 お釈迦様や親鸞聖人が、生涯説かれたのは、「阿弥陀仏の本願」唯一つであると、教えて頂きました。

 阿弥陀仏の本願とは、有名な歎異抄に「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とあるように、諸仏の中の王様である阿弥陀仏が、命をかけて誓われたお約束のことです。

 講義の中では、ここから「約束を守る」ことの大切さを教えて頂きました。

 高森先生の書かれたものにも、次のように教えられています。

 歴史家で有名なナピールがある日散策していると、路傍にみすぼらしい少女が陶器のカケラを持って泣いている。
 やさしく訳をたずねると、少女の家は親一人子一人。親が大病なので、家主から五合いりのビンを借りて牛乳を買いにいこうとして落として割ったのだ。
 家主に、どんなに叱られることかと泣いていたのである。哀れに思ったナピールは、ポケットから財布を出してはみたが
貧乏学者、一文の持ち合わせもない。
「明日の今頃ここへおいで。牛乳ビンのお金は私があげるから」少女と固く握手して別れた。
 ところが翌日、友人から、
「君の研究の後援者になろうという富豪が現れた。午後は帰ると言っているから直ちに来い」という至急の伝言である。
 しかし富豪に遇いにゆけば少女との約束を破らねばならぬ。
 ナピールは早速、友人に返答した。
「私には今日、大事な用件がある。誠に申し訳ないがまたの日に頼む」そして少女との約束を果たした。富豪はナピールを思い上がった奴だと一時は怒ったが、後日それを知ると一層信用を深め、彼を強く後援した。

 金持ちほど怒りっぽく、扱いにくいものはない。いつも金で何事も自由にできると思っている。また金で約束を破り節をかえる金銭奴隷が、いかに多いことか。
『儲け』は「信用のある者へ」と書いてある。たとえ自分に不利益なことでも、誓ったことは必ず果たすのが信用の基である。
 果たせぬ約束は、はじめからしないこと。相手に迷惑をかけ
るだけでなく、己れをも傷つける。

  人間の価値は、約束を守るかどうかで大きく変わるとも、教えて頂きます。
 信用されるように、大いに心がけなければなりませんね(^^)

「求法太子」から学ぶこと 2

2009年07月25日 | Weblog
 昨日の続きです(^^)

 昨日一昨日と、「求法太子」のエピソードと、その解説を載せています。

 この「求法太子」の、燃え立つ火の中に飛び込む真面目さ、教えに対する姿勢は、私達親鸞学徒が一番知らなければならない心構えであると、お聞きしました。

 正信偈にも

「行者正受金剛心」

 とある通り、教えの通りに実行する人こそ、金剛心(絶対の幸福)を獲られると教えて頂きます。

 私達は、本当に命かけて悔いのない道を親鸞聖人から教えて頂きました。

「たとい大千世界に満てらん火をも過ぎゆきて
 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」
              (親鸞聖人)

 後は、教えに順って火の中に飛び込む覚悟があるかどうか、ですね(^^)

「求法太子」から学ぶこと

2009年07月24日 | Weblog
 昨日の続きです(^^)

「求法太子」のエピソードは、私達に何を教えているのでしょうか?

 私達が真剣に聞法一路に進もうとする時、必ずそれを妨げるものがあらわれます。

 それは、羅刹のような姿になって脅迫することもあれば、やさしく誘惑することもあります。

 これらのものと闘ってゆく求信の心構えを、この物語は実によく教えられていると、言われます。

 過去無量劫の間、欲の為に死に、怒りの為に死に、愚痴の為に死んで、生死を繰り返してきたのは、決して求法太子だけではありません。

 金の為に、財産の為に、名誉の為に、殺されてゆく者、命を捨てる者、一時の怒りの為に命を投げ出すものから、意地や我慢で死ぬもの、ねたみ、そねみ、うらみの愚痴の為に一命を捨てる者やら、日々報ずる新聞記事は、みな私達の過去無量永劫繰り返して来た姿でないものはありません。

 しかも、求めても求めても底なしの欲に満足ということはなく、怒りに狂って苦しみ、愚痴に迷って悩み、安らかであった時は、一時としてないのでは、ないでしょうか。

 このままこの世も終れば苦から苦、闇から闇の連続で人間程悲劇の動物はありません。

 この真実を知らされた者は、二度と迷いに命をかけることは出来ません。

 この度こそ、未来永劫生き抜く真実の仏法に、命をかけたいですね(^^)


求法太子のエピソード

2009年07月23日 | Weblog
 今日は、法輪閣で会合がありました。

 その中で、最近聴聞した内容で「求法太子」のエピソードを通して、それぞれ知らされたことや、感想を発表しました。

 今日の記事では、「求法太子」のエピソードを紹介します。

 釈尊が、求法太子といわれていた頃、一人の修行者に真実の法を求められた時、
「真実の妙法を聞くことは、決して容易なことではない。あなたは一体、どれ程の代償をもって、これを聞こうとせられるのか」
と、修行者は尋ねた。
 その時太子は、
「真実の法を得ることは至難なことは、よく存知しております。若し、真実の教法を聞かせて頂くことができれば、妻子も財産も、地位も名誉も、貴方の望まれるものは何なりと捧げましょう。どうかおきかせ下さい」
と両手をつかれた。
「私は、ごらんの通りの修行者、貴方の妻子や財産を貰っても仕方がない。勿論、名誉や地位には用事はない。たゞ、聞きたいのは、私の指示に順うか、どうかの貴方の決心一つだ」
と、修行者が迫った時太子は、
「勿論、貴方のどんな仰せにも順います」
と、キッパリと答えられた。
 そこで修行者は、深さ一丈の穴を掘らせ、その中に薪を積ませ、それに火をつけさせた。
 地獄を思わせる紅蓮の炎は、火坑一面に燃え狂った。やがて修行者は、
「その火坑に飛び込め」
と太子に命じた。
 それまで太子と修行者の対話を、不安そうに見守っていた太子の両親や妻子や群臣は驚いた。一同、太子にとりすがり、
「太子よ、お前は乱心したのか、なぜ、そのような無茶をするのか。なぜ親をそんなに苦しめるのか、やめてくれ」
両親は必死であった。
「あなた、あなたは私や子供を、可愛いいと思召さんのですか。貴方なしでは私は生きてはゆけません。どうか、思い止まって!!」
妻子は泣き叫ぶ。
「太子さま、どうか国民のことも考えて下さい。国民は太子さまに、大きな期待を持っております。どうかそのような無謀はやめて下さい」
群臣達も哀願した。
 しかし、太子の求道心は増々燃え上がった。やがて太子は、両親や妻子、諸大臣に向かって、厳然として叫ばれた。
「皆さん、よく聞いてくれ、私は今日まで過去無量劫の間、幾千万の生死をくり返してきた。しかも、そのいずれの時も、欲の為に死に、怒りの為に死に、愚痴の為に命を捨てゝきた。未だ、法の為に命を捧げたことは一度もなかった。その為に、長い間苦しみを受け続け、一日として安らかな時はなかったのだ。
 然るに今、私は真実の法の為に、命を捨てる絶好の機会を得た。だのに、また、そのチャンスを捨てよと言われるのか。今度こそ、真実の法の為に死なせてはくれないか」
と、諭すように、哀願するように訴えられた。
 かくて間もなく太子は、無上覚を悟られたのである。

 さて、このエピソードは私達に、何を教えられているのでしょうか?

 明日に続きます(^^)

自力の心とは

2009年07月22日 | Weblog
 昨日は、正信偈の
「能発一念喜愛心」についてのお話でした。

 正しい信心のことを、ここでは「喜愛心」と言われ、正しい信心とはいかなるものなのかを、詳しく教えて頂きました。

 それは、「自力の心」「阿弥陀仏の本願を疑う心」が無くなった心であると、教えて頂きました。

 「自力の心」とは、具体的に言えば「あの人は、眠るが如く安らかに念仏を称えながら息を引き取ったのだから、極楽へ往ったに違いなかろう」と言ったり、思ったり、また思いたい心であると言われます。

 高森先生の書かれたものにも、次にように教えられています。

 真実は臨終の有様と後生とは必然的関係はありません。
 いくら信心獲得して浄土往生間違いない身になっておりましても、死にたい気持は毛頭ありませんし、病気になれば苦しいし、心細くもなります。
 親鸞聖人は
「悲しきかな愚禿鸞愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず、恥づべし傷むべし」(教行信証)
 と悲嘆なされています。
『歎異鈔』九章には、
「浄土へ急ぎまひりたき心のなくて、いささか所労のこともあれば死なんずるやらんと心ぼそくおぼゆる……」
と述懐なされたと伝えられています。
  死にたい心はさらさらないし、ちょっと病気にでもなると、今度は死ぬのではなかろうかと心細くなってくる、この世は苦海といいながら執着は決して離れな い、この親鸞の悪性はなんということかと悲嘆され、こんな親鸞が無碍の世界に救いとられたとは不可思議の弥陀の願力であったなあと、感泣慶喜なされており ます。
 蓮如上人も
「法然上人の御詞曰く
『浄土を願う行人は病患をえて偏にこれを楽しむ』
 とこそ仰せられたり。然れども、強ちに病患をよろこぶ心更に以って起らず、浅間しき身なり、慚づべし悲しむべきものか」(御文章四帖十三通)
 とありますように、信心獲得しても決して死にたくはないのですから、死は苦しいことに違いはありません。
 覚如上人は
「一 切衆生のありさま過去の業因まちまちなり。また死の縁無量なり、病におかされて死する者もあり、剣にあたり死する者もあり、水に溺れて死する者もあり、火 に焼けて死する者あり、―乃至―寝死する者もあり、酒狂して死するたぐひあり、これみな先世の業因なり。更にのがるべきにあらず」(執持鈔)
「もし怨敵の為に害せられば、その一刹那に凡夫として思うところ怨結のほか何ぞ他念あらん」(口伝鈔)
と道破されていますように、信、不信ともに死の縁無量ですから、お互いどんな死に方をするやら分かりません。
 信心獲得していなくても、安らかそうな死に方(医療の安楽死など)をする人もありましょうし、信後の人でも肉体の苦しい死に方なら苦しまれるでしょう。
 問題は臨終の相ではなく平生に後生の一大事が明らかに解決できているか、どうかです。
 平生に信心徹到しておれば臨終正念であろうが、苦しみ狂乱しようが、枯木のように分別もなく死のうが、一遍の念仏も称えずに死のうが浄土往生は間違いありません。
 覚如上人は次のように御教示になっています。
「然れば平生の一念によりて往生の得否は定れるものなり、平生の時不定のおもひに住せばかなうべからず、平生の時善知識の言葉の下に帰命の一念発得せば、その時をもって娑婆の終り臨終と思うべし」(執持鈔)
 要は自力心の臨終(死)が体験されているか否かが後生未来を決定するのです。
(中略)
 臨終のことが問題になる間は真実信心が徹到していない証拠です。

 私達の三業(身体でやること、口で言うこと、心で思うこと)で、信心の有無を計る心が、「自力の心」であると、知らされますね(><)