浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介

富山県射水市を中心に、勉強会や講演会を開催している、浄土真宗親鸞会一支部の、日々の活動もようを紹介しています。

無財の七施

2009年03月31日 | Weblog
 日曜日の研修会では、私達が取り組みやすい善行として、「布施」を教えて頂きました。

「布施」というと、物を持っている人しか出来ないように思われる方もあるかもしれませんが、「布施」とは現代の言葉で言えば「親切」と教えて頂きます。

 たとえ金銭や物質に恵まれない人でも、心がけ一つでできる布施行として、教えられているのが『雑宝蔵経』の「無財の七施」です。

 眼施、和顔悦色施、言辞施、身施、心施、牀座施、房舎施の七つがそれですね。

 眼施~やさしい暖かい眼ざしで周囲の人々の心を明るくするように努めること

 和顔悦色施~優しいほほえみを湛えた笑顔で人に接すること

 言辞施~優しい言葉をかけるように努めること

 身施~肉体を使って人のため、社会のために働くこと

 心施~心から感謝の言葉をのべるようにすること

 牀座施~場所や席をゆずり合う親切

 房舎施~求める人、尋ねて来る人があれば一宿一飯の施しを与え、その労をねぎらう親切

 以上のように私達に布施をしようという精神さえあれば、どんな人でもいつでもどこでも出来る善行が、布施行であることが判ります。

 判ったら、直ちに実行ですね(^^)


雑行が棄たらぬ

2009年03月30日 | Weblog
 昨日は、お昼から親鸞会館の「願海」にて、そして夜からは高岡会館にて、富山県の支部学徒の研修会が行われました。

  高森顕徹先生の最近の御教導を、ビデオ御法話や最新号の顕正新聞の論説を通して、解説して頂きました。

  高森先生の最近の御教導は、以前、次のような御言葉でも教えて頂いたことがありましたので、紹介します。

「そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて」と、朝夕『聖
人一流の章』で教えられているが雑行が棄たらない。

 煙草のまない人に“煙草のむな”と言う人がいないように、
“煙草止めよ”、と言われるのは、煙草をのんでいる人にで
ある。

 同じく、雑行を棄てよ、と言われるのは、雑行をやってい
る人にである。

 雑行とは、一大事の後生に驚き、弥陀一仏に向かい、なん
とか後生助かりたいと思い、真剣に励んでいる諸善をいうの
である。

 後生助かりたいの思いもなく、真剣に諸善もせず、弥陀一
仏にも向かってない人に、雑行を棄てよと言っても、分から
ぬのが当然である。

 雑行と言われるものが、問題になるところまで進んでいな
いからだ。

 なぜ真剣に諸善もせず、弥陀一仏にも向かないのかと言え
ば、後生の一大事が問題になっていないからである。

 後生の一大事が、なぜ問題にならないのかと言えば、三世
因果の道理が徹底していないからだ。

 釈尊が先ず、因果の道理を教えられた仏意が知られよう。

 阿弥陀仏の19願は、少しは諸善ができる、少しは助かる手
がかりがあるだろうと思っている自惚れ心を粉砕し、雑行を
棄てさせる方便願である。

 この阿弥陀仏の19の願意を開説されたのが釈尊の『観無量
壽経』であり、“機の真実”が説かれた経とされている。

 因果の道理を信じて、実地に善に励むことの大切さが、知らされますね(><)

法輪閣で交流会です。(後編)

2009年03月29日 | Weblog
 昨晩の続きです。

 今朝は、法輪閣で朝食を頂き、50周年大会で上映されたビデオ「50の船出」を見せて頂きました。

  その後、最近の高森顕徹先生の御教導を、支部長から解説して頂きました。

  今日は、これに関連して思い出したお話を、紹介します。

 ある時、十大弟子に釈尊が
“いかなるものが真理”
と聞かれる。
 文殊が即座に、
“真理とは、言辞の相を離れ文字の相を離れ、心念の相を離れたものであります”
と答えると、他の者達は、さすが智恵の文殊だと絶賛した。
 釈尊は次に近くにいた維摩居士に問われたが、どうしたことか、彼は無言。
“維摩の一黙、雷の如し”
 これが有名な、釈尊も称讃された答えであった。

  言葉で表わすことができない世界(離言真如)を、言葉で表わされたのがお聖教(依言真如)なんですね(^^)


法輪閣で交流会です。(前編)

2009年03月28日 | Weblog
今日は、法輪閣で支部の交流会が行なわれています。

昼は、先日のアニメ解説の復習をして、夕方からは、百味館に移動して、会食会やクイズ企画で盛上りました。

徳水館のお風呂に入りながら、信心の沙汰をして、続きは法輪閣で夜更けまで、行われています。

この続きは、また明日(^ ^)

物を言え、物を言え

2009年03月27日 | Weblog

明日は、私達の支部の交流会が、聞法ドメインで行われます。

百味館での夕食会や徳水館のお風呂、そして法輪閣での夜更けまでの信心の沙汰など、お楽しみは盛り沢山です。

せっかくのご縁ですから、大いに談合の機会をもちたいものです。

高森顕徹先生は、次のように教えて下さいます。

「物を言え物を言え、物を言わぬ者は恐ろしき。信、不信ともに、たゞ物を言え。物を申せば心底も聞こえ、又、人にも直さるゝなり。たゞ物を申せ」
とは、蓮如上人のお言葉である。
 物を言わないのにも種々あろう。 こんなことを聞いたら恥をかくかも知れない、と引っこみ思案になって言わない者もあろうし、余りしゃべると、でしゃばりのおっちょこちょいと思われるから、知っていることでも言わないのが、何か奥ゆかしいように思って言わない人もあろう。
 いずれにしても、物を言わぬ者は恐ろしい人だ、とまで蓮如上人は仰言っているから、信前、信後を問わず、ハッキリと物を言わなければならない。
 信前の者は、ありのまゝに心中をさらけ出して、聞き開かねばならないし、合点させて頂いた者は、未だ合点までもしていない、信仰の浅い人に言い聞かせてあげねばならない。
 これは信後の人は勿論のことだが、他人に納得できるように言い聞かせることができてこそ、本当に自分のものになるのだ。
 もっとも、いくら物を言えと言っても、愚痴のくり言では、自分も苦しみ、他人にも迷惑をかけることになるから慎まねばならぬが、納得のゆかないことは徹底的に尋ね、納得したことは一人でも多くの人に伝えねばならない。
(乃至)
 沈黙は金だ、などと黙っているのは封建時代のなごりである。当然、知っている筈のことを、わざと黙っていると、知らないことまで知っているらしく見える、などと言う狡い考えは人間相手に生きている証拠だ。 仏は一切を見聞知だ。
 そう言えば阿弥陀仏のお浄土には、カリョウビンガの鳥や、共命の鳥など、沢山の鳥がいると説かれているが、牛や豚や犬がいるとは説かれていない。
 牛や豚や犬は、タメ糞して一時に放出するが、鳥はその都度、飛びながらでも脱糞する気の軽い動物だ。
 言いたいことを言わずに、心の奥深くタメ糞している人は救われざる人か。
 その時その時の心中を、洗いざらい言える気の軽い人が、弥陀の本願に相応するのであろう。

徹底的に話し合い、親睦と共に、信仰を深める良いご縁としたいものですね(^^)


大名も・・・

2009年03月26日 | Weblog

さて、昨日の高森顕徹先生のビデオ御法話の演題は、「一茎一花の徳」でしたが、前半では「淤泥不染の徳」について教えて頂きました。

「淤泥不染の徳」~ 淤泥とは、泥沼の意で、高原陸地には咲かず、ドロドロの泥沼に花を咲かせる。 不染とは、蓮の花は泥沼に咲きながら、少しも泥に汚されず、清浄な花を咲かせる。

詳しい解説は、今回は省略しますが、この蓮華の特徴は、今月の御法話でも高森先生が触れられた、「悪人正機」と密接な関係があるようです。

今回は、ビデオ御法話の中で紹介されたお言葉を、紹介します。

”大名も かがんで入る 蚊帳の中”
”大名も 風呂に入(い)る時 丸裸”

親鸞聖人が、無礙の一道に救い摂られたのは、

「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

と、助かる縁手がかりの絶えた自分の姿を知らされた時でした。

真実信心が、どのような人の心に徹底するのかを、よくよく知らなければなりませんね。(^^)


信仰に身代わりはきかない

2009年03月25日 | Weblog

昨日は、高森顕徹先生の「一茎一花の徳」についてのビデオ御法話を聴聞しました。

以前の記事でも紹介しましたが、「一茎一花の徳」があらわす、正しい信心の特徴とは、

「信仰に身代わりはきかない」ということでした。

たとえば、近所で御法座が開かれた時などに、自分の家から誰も参詣しないと、近所付き合いの手前、都合が悪いので、家の主人が奥さんに、
「お前、代わりに参ってこい」と言うことがあるそうです。

しかし、御法座に参詣して聴聞した奥さんの仏縁にはなっても、主人の仏縁にはなりません。

仏法は決して、義理の為に聞くものではないことを、戒められたものです。

仏法聞く目的は、あくまで自身の後生の一大事の解決にあることを、忘れてはなりませんね(^^)


分かっちゃいるけど・・・

2009年03月24日 | Weblog

今回は、「知った、分かった」だけで「実践」がなければ、「分かっている」ことにはならないことを、次の笑話から、確認したいと思います。

“朝寝して夜寝るまでに昼寝して、起きている間は居眠りする”
こんな男に忠告した。
“金持ちになりたくないのか”
“勿論、なりたいさ”
“ねてばかりいては、金持ちにはなれんぞ”
“そりゃ、分かっとる”
“分かっとるなら、なぜ働かん”
“分かっちゃいるけど、どうにもならん”
笑って男は頭をかいたという。

教えられた通りに実践しなければ、分かったとは言えませんね(><)


教えにしたがってこそ行者

2009年03月23日 | Weblog

昨日の解説の中で、高森顕徹先生から、知っていてもやらなければ、仏教では知っているとは言わないことを、教えて頂きました。

以前、次のようにも教えて頂きました。

 知りながらテストに白紙を出すバカがいないように、知った分ったといっても実行がなければ分ったとは言えない。
“行者正受金剛心、與韋提等獲三忍”(正信偈)
とあるように韋提と等しく金剛心を正受するのは行者なのだ。
“そんなことできません”と韋提希は言ってはいない。
一途に彼女は釈尊の教えに従っているではないか。
 教えに従ってこそ行者、知っただけでは行者ではない。

ひたすら教えにしたがう、行者とならねばなりませんね(^^)


白楽天と鳥巣禅師

2009年03月22日 | Weblog

今日は、高森顕徹先生から「王舎城の悲劇」について解説を聞かせて頂きました。

お釈迦様が観無量寿経を説かれた目的は、私達に諸善を教え、勧められることにあったことを、教えて頂きました。

お釈迦様は、35歳で仏の覚りを開かれてから、45年間説き続けられたことは、廃悪修善でありました。

来る日も来る日も、「善いことをやりなさい、悪いことはやめなさい」と教え続けられたのは、1回や2回聞いて、判ることではないからです。

そんなこと、言われなくても判っているよ、と思う人も多いかもしれませんが、判ったらやるはずで、やらないのは判っていないからだと言われます。

今回は、今日の解説の中でも取り上げられた、白楽天と鳥巣禅師のやりとりを、振り返りたいと思います。

  昔、中国に、何時も樹上で、坐禅瞑想していた鳥巣という僧がいた。
  ある日、儒者で有名な白楽天が、その樹下を通って、一つ冷やかしてやろうと思った。
「坊さんよ、そんな高い木の上で、目をつむって坐っていては、危ないではないか」
鳥巣すかさず、
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」 と切り返した。
この坊主、相当偉いのかも知れぬ、と見てとった白楽天は、
「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」
と尋ねると、
「私は鳥巣という名もなき坊主だ」
これが有名な鳥巣禅師と知った白楽天は、かねてから仏教に関心を持っていたので
「いゝ処で貴僧に遇った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、一言でおきゝしたい」
と頭を下げた。 鳥巣は即座に、
「もろもろの悪を為すことなかれ、謹んで善を修めよ、と教えるのが仏教である」
と答えた。 白楽天、いさゝか呆れて、
「そんなこと位なら、三才の子供でも知っている」 と冷笑すると、鳥巣すかさず、
「三才の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行なうは難し」 と大喝している。

  善だと知りながらも善が行なえず、悪だと知りながら悪を止められないのが、我々の悲しい現実ですね(><)