早いもので、3月ももう後半に入った。
3月は年度末であり、サラリーマンにとっては転勤の辞令が下りる時期である。
損害保険会社に勤めている息子から転勤の内示があった旨の連絡があった。
勤続13年で転居を伴う転勤は今回で5回目である。
今度の赴任地は神戸で、今度はじめて企業営業を担当するらしい。
声に初めて大企業を相手に営業することへの戸惑いが感じられたので、『おまえさんのこれまでのキャリアからいっても、また、年齢的に見ても企業営業をするのにまさに打ってつけのタイミング、自信を持って頑張って』とエールを送った。
では小生の現役時代どうだったかと言えば、37年間のサラリーマン生活の中で転居を伴う転勤は一度も経験していない。
これは勤めていた会社の中でも極めて珍しいケースで、よく仲間から『会社にギネスブックがあるならば、さしずめお前は間違いなく真っ先にその候補に挙げられるよ』と言われたものである。
小生が入社したのは昭和41年。
会社は創業10年目で、すでに株式を上場し、まさに日の出の勢いで全国展開を繰り広げる新興企業であった。
それこそ転勤は日常茶飯事で、ほとんどの社員がめまぐるしく転勤を繰り返していた。
なぜ小生だけ転居を伴う転勤がなかったのか、それにはそれなりの事情があったのである。
小生が配属された部署は、総務部庶務課であった。
この部署は、株主総会や株式関係の事務処理ならびに資金調達の担当窓口となっているため特殊・専門的知識と豊富な実務経験が求められる部署で、課長は外部からスカウトされたスペシャリストであった。
そして、小生はその課長の下で色々な知識と実務経験を身につけることになったのである。
そして、入社4年目。
そろそろ転勤かなと覚悟していた矢先、突然課長が心筋梗塞で倒れて再起不能と言う事態が発生した。
後任の課長は専門的な知識も実務経験もまったくなく、(当時は、社内のどこを探してもそんな人材は見当たらなかった)実務を何とかこなせるのは、小生のみ、まさに緊急事態で転勤どころの話ではなくなってしまった。
折りしも、当時は総会屋が跋扈し、その対策が喫緊の課題(株主総会に関しては、カテゴリー『仕事・職場』に詳細を掲載)となっており、また、会社の急激な成長発展による資金需要が旺盛だったこともあり、その実務を一手に任される立場になった小生は繁忙を極めるようになっていた。
以後、何人もの上司に仕えたが、いずれの上司も専門知識や実務能力はなかったため、実務は全て小生まかせであった。
そんなことで、いつしか小生は周囲から『余人をもって代え難い』人材という目で見られるようになっていた。
しかし、考えて見ればおよそ会社組織にあって『余人をもって代え難い』など本当はあり得ないことで、実は上司が小生を単に『便利屋』的に使っていたに過ぎない、と言うのがその実体であった。
だが、現実には往々にしてこのような『虚像』が、さも『実像』の如く一人歩きしてしまうから、怖い話しである。
こうなると、たとえ転勤の話しが持ち上がっても、そのレッテルがネックとなって、受け入れ先が『つぶし』のきかない、『即戦力』となりえない人材の受け入れに難色を示すようになり、いつの間にか話しは立ち消え、次第に転勤は縁遠いものとなっていったのである。
以後、経理、法務、能力開発、監査と本社の管理部門を異動したが、結局、転居を伴う転勤はついに1回も経験することはなかった。
転居を伴う転勤を経験しなかったことが、果たして良かったのか悪かったのか。
今となっては何を言っても詮無いことではあるが、この季節になると『もしも、あの時、課長が病気で倒れなかったら』小生の人生は、果してどうなっていたのだろうか?
そんな埒もないことがふと脳裏をよぎることがある。
3月は年度末であり、サラリーマンにとっては転勤の辞令が下りる時期である。
損害保険会社に勤めている息子から転勤の内示があった旨の連絡があった。
勤続13年で転居を伴う転勤は今回で5回目である。
今度の赴任地は神戸で、今度はじめて企業営業を担当するらしい。
声に初めて大企業を相手に営業することへの戸惑いが感じられたので、『おまえさんのこれまでのキャリアからいっても、また、年齢的に見ても企業営業をするのにまさに打ってつけのタイミング、自信を持って頑張って』とエールを送った。
では小生の現役時代どうだったかと言えば、37年間のサラリーマン生活の中で転居を伴う転勤は一度も経験していない。
これは勤めていた会社の中でも極めて珍しいケースで、よく仲間から『会社にギネスブックがあるならば、さしずめお前は間違いなく真っ先にその候補に挙げられるよ』と言われたものである。
小生が入社したのは昭和41年。
会社は創業10年目で、すでに株式を上場し、まさに日の出の勢いで全国展開を繰り広げる新興企業であった。
それこそ転勤は日常茶飯事で、ほとんどの社員がめまぐるしく転勤を繰り返していた。
なぜ小生だけ転居を伴う転勤がなかったのか、それにはそれなりの事情があったのである。
小生が配属された部署は、総務部庶務課であった。
この部署は、株主総会や株式関係の事務処理ならびに資金調達の担当窓口となっているため特殊・専門的知識と豊富な実務経験が求められる部署で、課長は外部からスカウトされたスペシャリストであった。
そして、小生はその課長の下で色々な知識と実務経験を身につけることになったのである。
そして、入社4年目。
そろそろ転勤かなと覚悟していた矢先、突然課長が心筋梗塞で倒れて再起不能と言う事態が発生した。
後任の課長は専門的な知識も実務経験もまったくなく、(当時は、社内のどこを探してもそんな人材は見当たらなかった)実務を何とかこなせるのは、小生のみ、まさに緊急事態で転勤どころの話ではなくなってしまった。
折りしも、当時は総会屋が跋扈し、その対策が喫緊の課題(株主総会に関しては、カテゴリー『仕事・職場』に詳細を掲載)となっており、また、会社の急激な成長発展による資金需要が旺盛だったこともあり、その実務を一手に任される立場になった小生は繁忙を極めるようになっていた。
以後、何人もの上司に仕えたが、いずれの上司も専門知識や実務能力はなかったため、実務は全て小生まかせであった。
そんなことで、いつしか小生は周囲から『余人をもって代え難い』人材という目で見られるようになっていた。
しかし、考えて見ればおよそ会社組織にあって『余人をもって代え難い』など本当はあり得ないことで、実は上司が小生を単に『便利屋』的に使っていたに過ぎない、と言うのがその実体であった。
だが、現実には往々にしてこのような『虚像』が、さも『実像』の如く一人歩きしてしまうから、怖い話しである。
こうなると、たとえ転勤の話しが持ち上がっても、そのレッテルがネックとなって、受け入れ先が『つぶし』のきかない、『即戦力』となりえない人材の受け入れに難色を示すようになり、いつの間にか話しは立ち消え、次第に転勤は縁遠いものとなっていったのである。
以後、経理、法務、能力開発、監査と本社の管理部門を異動したが、結局、転居を伴う転勤はついに1回も経験することはなかった。
転居を伴う転勤を経験しなかったことが、果たして良かったのか悪かったのか。
今となっては何を言っても詮無いことではあるが、この季節になると『もしも、あの時、課長が病気で倒れなかったら』小生の人生は、果してどうなっていたのだろうか?
そんな埒もないことがふと脳裏をよぎることがある。
ある意味幸せだったと思いますよ。
望まない転勤が多い中で。
単身生活からくる、家庭の破綻もずいぶん見てきました。個人の生活のトラブル(上司との相性もありますが)それも人間関係が多い気がします。それが仕事ぶりに出てきて、厳しい評価になることもあるのです。
ただ複数のキャリアを積むことで、幅広さとチャンスををつかむこともあります。どちらにしても。社会偏差値の有無が鍵だと思います。
コメントありがとうございました。
「ある意味幸せだったと思いますよ」という
ベース弾きさんのコメントに尽きると小生も思っています。(仲間からもそう言われ続けてきました。)
ただ、どうせだったら特殊・専門分野をもう少し極める努力をして置けば良かったかなと、若干悔いが残りますが・・・・。