自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆「場」立ち考~上

2012年05月04日 | ⇒トピック往来
 人は視覚的な景観を「場所」と感じている。城のある町、山の中腹にある大社、江戸時代風の街並み、そうした場所は理解しやすい。ただ、景観としての場所はそれほど単純で明快なわけでもない。旅人が単純に誤解していることもある。その場に立って、文化や風土を理解しないと分からないことも多い。この大型連休を利用して、四国を家族で旅してる。名所を巡りながら、「場」を考える。題して、「場」立ち考…。

       ~ 高知・桂浜の龍馬像はどこを向いている ~

 昨日は小松空港、羽田空港、高知龍馬空港と空の便を乗り継いで高知に降り立った。空港や高知市内の街角などは観光キャンペーン「リョーマ(RYOMA)の休日」のポスターであふれていた。リョーマは幕末の志士、坂本龍馬のこと。オードリー・ヘプバーン主演の映画「ローマの休日」とひっかけている。

 きょう4日午前中は桂浜を訪れた。太平洋を臨む砂浜なのだが、潮流が速く遊泳は禁止されている。台風の接近時によくテレビ中継されることでも知られる。一帯は桂浜公園となっていて、松林の高台に坂本龍馬の銅像がある。右腕を懐に、ブーツ姿の龍馬ははるか太平洋の彼方を見つめている。像の高さは5.3㍍、台座を含めると13.5㍍にもなる。キャンペーンの一環で「龍馬に最接近」と銘打ってこの龍馬像の横に展望台を設置し、龍馬と同じ目線で太平洋を眺めることができる。その銅像は、龍馬が海を眺めながら「日本を今一度洗濯いたし申すことにすべきこと神願」(姉の岡上乙女に宛てた手紙)とつぶやく姿をほうふつさせる。実に絵になるのである。

 すると、龍馬像に案内してくれたタクシー運転手がこんなことを話した。「きょうは珍しく室戸岬が見えますね。年に何回もないですよ。龍馬の目線は室戸岬に向いているんです。室戸岬には中岡慎太郎の銅像があるんです」と。確かに、龍馬の目線をたどると室戸岬の方角だ。中岡慎太郎も幕末を駆け抜けた土佐の志士。龍馬と手を組み、薩長同盟を成立させた。大政奉還から1ヵ月後の慶応3年(1867)11月15日、2人は京都の近江屋で刺客により襲撃され命を落とす。龍馬は享年33歳、慎太郎は29歳だった。

 龍馬像の近くに坂本龍馬記念館の資料によると、龍馬の銅像は昭和3年(1928)5月に、慎太郎の銅像は昭和10年(1935)5月にそれぞれ地元の青年たちが中心となって建立した。戦時中の国家総動員法にもとづく金属類回収令による供出でも、2人の銅像は供出を免れた。それなりの理由があったのだろう。慎太郎の銅像は実際に見ていないのでどの方角を向いているのか確認できてはいない。ただ、海を隔てて2人の志士が会話をしているようにも思え、何を話しているのか想像をたくましくさせる。

 次に、山内一豊が築いた高知城を見て回った。印象的だったのはしっかりした野面積みの石垣だ。説明看板を読むと、安土城築城で有名な石垣集団の穴太(あのう)衆が工事に加わっていたという。穴太衆を使って強固な石垣を築こうとした一豊の動機は、戦(いくさ)もさることながら、地震の備えでもあったのではないかと推測した。

 『秀吉を襲った大地震~地震考古学で戦国史を読む』(寒川旭著、平凡社新書)によると、秀吉の家臣として活躍した一豊は近江長浜城主となり2万石を領した。が、1586年の天正大地震によって城が崩れ、一人娘の与祢(よね)を亡くす。この頃は地震の活動期だった。一豊が高知城で没したのは慶長10年9月20日(1605年11月1日)だが、その9ヵ月前の1605年2月3日には南海トラフのプレート境界に起こったM7・9の慶長大地震と津波で、多くの領民が死んでいる。関ヶ原などの大戦(おおいくさ)と天正と慶長の大地震(おおじしん)、波乱万丈の世の中を生き抜いたサムライの一人が一豊だったのかもしれない。 

⇒4日(みどりの日)夜・香川県琴平町の天気  はれ

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