「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

やっかいな老年を生きるための箴言集―『老年の読書』

2023年09月29日 | Arts
☆『老年の読書』(前田速夫・著、新潮社、2022年)☆

  老年とはやっかいなものである。もちろん個人差はあるだろうが、多くの人は還暦を過ぎると自分の老いを実感するように思う。障害を持つ我が身でも、障害とは異なる不都合は還暦を過ぎてから急速に感じるようになった。しかしだからといって、自分の老いを素直に認め、受け入れるかどうかは別の問題だ。
  たいていは自分が老年であることを否定し、人から年寄り扱いされると怒るか、人知れず落ち込んだりする。まだまだ若い者には負けじと何かをはじめると「年寄りの冷や水」と陰口をたたかれたりする。自分も若かった頃、同じようなことを思ったり言ったりしたことがあっただろうに、そんなことはすっかり忘れてしまっているものだ。
  若い人たちが老人を理解できないのは、まだ老いを経験したことがないのだからやむを得ないことだ。ところが、人は皆、若い頃を経て老年になるにもかかわらず、老年になると若い頃に考えていたことは失念してしまい、少しばかり、あるいは多分に美化された体験談ばかりが思い出され、周囲の人たちは聞きたくもない話を老人から聞かされるのが常である。
  余談ながら、わたし自身も似たようなことをしょっちゅうやっているが(このブログ自体がその現れだ)自覚があっても簡単にやめられるものではない。老人の楽しみだと思って付き合って頂くしかない。失笑を買うような武勇伝にだけはならないよう気をつけているつもりだが、その判定はブログの読者におまかせするしかない。
  定年退職など一定の区切りがついて、老年期を迎えたら悠々自適というか、仕事や煩わしさから解放された生活をしたいなどと言う人が多い。しかし、老年になっても働いている人が大多数なのが実情だろう。もちろん経済的な困窮などでやむを得ず働いている人も多いにちがいない。ところが、老年期の蓄えに余裕があっても働きたい老人は多いのだという。寸暇を惜しんで働き、骨身を削ってきた生活からようやく解放されたというのに、再び我が身を忙殺に投じようとしているかのようである。
  人の性と言ってしまえばそれまでだが、老人は自分が老年であることを本心から理解できていないのではないだろうか。自分はいったい後何年生きられるか知っているのか、あるいは後何年生きるつもりなのか。老年は残りの生が確実に少なく短くなっている。それにもかかわらず、残りの生を蕩尽してるかのようである。自ら望んだのではなく、経済的な事情からやむを得ず働いている(働かされている)老人たちに至っては、国家や社会から緩やかに殺されているに等しいように思う。
  悲劇的な老年期ではなかったとしても、迫り来る死を前にして、自らの生を充実させて死を迎えたいと思い、あれこれ考えあくせくしてしまうのが常であろう。生を終えようとしているのに、再び生をはじめようとしているかのようだ。そこに静穏な生活や老年期など望むべくもない。生の蕩尽とはそのことである。ローマ時代の哲人セネカいわく「人は、より善く生きようとして、なおさらせわしなく何かに忙殺される。生の犠牲の上に生を築こうとするのだ」
  十代二十代の頃は自分の五十代六十代など想像もつかなかったし、遠い未来のように思えたものだが、気がつけばいつのまにか老年を迎えていた。時の流れがはやいのか、思いの外、生は短いものだったのか、と今更のように思う。いま八十代九十代など予想もつかないが、もしその歳まで生きていたとしたら、そこに辿り着くのもあっという間だろう。
  本書は、新潮社で長年編集に携わってきた著者が、定年退職後ガンを患ったことをきっかけに、自らの読書体験を元にして編まれた、いわば老年のための箴言集である。取り上げられている本の大半は(書名や著者は知っていたとしても)読んだことがない。しかし(自戒を込めて)死ぬまでにすべてに目を通そうなどという愚を犯してしてはならない。
  著者は再びセネカの言葉を引用し、多読の害について忠告している。「乱れのない精神を示す第一の証左は、立ち止まってじっくり自分との時間を過ごせることだと思う。だが、気をつけたまえ。君のようにたくさんの作家やあらゆる分野の書物を読んでいると、あてどなく不安定な面も生じかねないからね。これと見定めた才能豊かな作家に時間をかけて自分の肥やしとすべきだよ。もし変わることなく心に残るものを引き出したいと思うならね。どこにでもいるということは、どこにもいないということだ」
  本書は半年ほど前に購入し、興味のある章から読んでいった。そして今回、あらためて最初から順に読み返してみた。それでちょっと思ったことがある。当然ながら女性が書き手の本も紹介されているのだが、男性作家と女性作家とではちがいがあるように感じた。
  女性が書く老年というのは、あっけらかんとしているというか、自分の想いを素で書いている感じがする。周囲の反応など関係なく、屁理屈などこねていない。それに比べて男性が書いたものは、どこか言い訳がましく、よく言えば論理的なのかもしれないが、感情的にストンとくることが少ない。だからなのか、文章は明るさに乏しく、湿っぽくじめじめしている。
  男性よりも女性が長生きなのは、生物学的な理由だけでなく、文章作法に現れる心理的な要因も関わりがあるのかもしれない。もちろん性別にかかわらず個々にはいろいろなちがいがあるのだろうが(いまの時代LGBTQのことを考慮すれば尚更のこと)、老年は総じてジイサンよりもバアサンから学ぶ方がこころ穏やかに過ごせるように思った次第である。

  


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