しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 ヨブ記38章 <あらしの中から>

2016-10-24 | ヨブ記

クローバの花「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(ヨブ記38:1,2新改訳)

ついに神がヨブに直接語られるときが来た。それは神があのシナイ山で、黒雲と雷鳴のとどろきと共に語られたとき、イスラエル人が縮み上がったように、すさまじいものだったと思われる。▼ところで、ここから41章まで、神は矢継ぎ早に語られるのだが、なぜ今回きびしい試練をヨブに下したのか、その理由は説明されない。そして、わたしと本気で対決する気があるならしてみよ、と創造主としての圧倒的な御稜威(みいつ)を、数々の事例を挙げて示しながらヨブに迫るのだ。▼この光景は、すべての時代の人々に、罪が何であるかを語るものである。今まで何度も述べて来たが、罪とは、地の塵にすぎない被造物である人間が、創造者であり父でもあられる神にひれ伏して栄光をささげない高ぶりそのものということだ。ヨブ記は人がその事実に目が開かれるため、聖霊によって書き留められた書である。▼しかし我々は、新約に至って、今まで見たこともなく、聞いたこともなく、人の心に浮かんだことさえない啓示に出会う。それは神ご自身の受肉である。「ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14同)▼そしてことばなる神は、人の罪性・高ぶりによって砕かれ、肉を裂かれ血を流し、苦しみのうちに十字架で絶命された。嵐の中から恐怖のうちにヨブに語った神が、今度はみずから死の苦しみを味わい、滅びの恐怖という杯を受け、罪に対する父なる神の怒りの炎を飲み尽くされたのだ。▼ヨブは神の顕現に震えたが、今度は私たちが神の愛にふるえる時が来た。ヨハネが叫んだように私たちも叫びつつ。「神の愛われらにあらわれたり。神はその生みたまえるひとり子を世に遣わし、われらをして彼によりて生命(いのち)を得しめたもうによる。」(Ⅰヨハネ4:9文語訳)▼かくして御子の贖いを迎えるとき、私たちから高ぶりは駆逐され、従順の霊が新しく創造されるのである。