しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <御霊の交わり>

2016-10-09 | みことば静想

かわいらしい花「一度死にし我をも、イエスは生かしたまえり。咎と罪の代わりに、新たなるいのちあり。時の間をも惜しみて、君は我と語ろう。君は我を放たず、我はまた主にぞつく」 (新聖歌202) 臨在の主との深い交わりを歌ったものとして、この歌の右に出るものはそう多くないだろう。▼使徒パウロはローマ獄中にあり、鎖につながれた生活をしていたのに、霊性は自由に天を駆け巡り、広大無辺なる神の経綸を驚嘆しながら書き記した。エペソ、ピリピ、コロサイの各書簡がそれである。私たちはこれらを読むとき、彼の背後に、圧倒的な栄光の世界が存在することを認めざるを得ない。そうでなければ、殉教の迫った一老聖徒が、獄屋という最悪の場に置かれながら、どうして抑えきれない喜びに満ちているのか、どうして天地と時空の垣根、はたまた牢獄の厚い壁を自由に超えてケルビムのように飛翔しているのか、説明に窮するのである。▼すべての鍵は御霊にある。彼自身、「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:17,18)と述べているとおりだ。御霊は時の間も惜しんで、私たちとの語らい、交わりを求めておられる。神の恵みと栄光がいかに絶大であるかを示そうとして。