縁側でちょっと一杯

縁側でのんびりとくつろぐ贅沢な時間。
一杯遣りながらの“お題”は、    
経済、環境、旅、グルメ、そして芸術。

2つのアメリカ ~ 夢や希望を持てる社会と、持てない社会

2017-10-17 21:04:14 | 海外で今
 自分をショットガンで撃ち殺そうとした人間を許しただけでなく、その犯人の死刑に反対する訴えを起こし、さらに犯人の前科のある薬物依存の娘に支援の手を差し伸べた人間がいる、との話を聞いた(ANAND GIRIDHARADAS(2014),"The True American" このテーマで TED のプレゼンもある)。信じられないが、実話である。

 9.11 同時多発テロの10日後、事件は起きた。男は、テロへの怒りから、テロとはまったく関係のないイスラム教徒とおぼしき男をショットガンで撃った。彼にとってはそれが正義だったのである。3人撃ち、2人が死んだ。唯一辛うじて一命を取り留めたのが、バングラデシュからの移民、レイスデン・ブーヤンであった。

 レイスデンは右目の視力を失い、家も職も失いホームレスとなり、そしてフィアンセは彼のもとを去って行った。彼に残ったのは治療費6万ドルの借金だけ。医療保険に入っていなかったのである。
 両親には国に帰って来るよう言われたが、僕には夢があるからと言って彼はアメリカに留まった。彼はアルバイトをしながらITの勉強を続けた。その努力の甲斐があって次第に仕事のレベルは上がり、ついに彼は一流IT企業に就職、数十万ドルの年収を得るまでになった。夢を、アメリカン・ドリームを実現したのである。

 レイスデンが犯人を許したのは成功を手に入れたからではない。イスラムの慈悲の精神もあったが、それ以上にアメリカの現実を知ったことが大きかった。
 彼はバイトの同僚たちを通じて、アメリカには自分が与えられたような第2のチャンスが与えられない人間がたくさんいることを知った。いや、第2はおろか、最初のチャンスすら与えられない人間が如何に多いかを知ったのである。
 貧しいバイト仲間のほとんどは、皆多くのトラウマを抱えていた。両親など家族のアルコールや薬物への依存、DV、犯罪、家庭崩壊、そして自らが麻薬や犯罪に手を染めることも。満足な教育を受けられず、社会常識すら身に付けることができない。そうした家庭環境や社会では、夢や希望を持って生きることなど到底できない。何をやっても、どんなに頑張っても、何も変わらないとの諦めが体に染み付いてしまう。そして、彼らの子供たちも同じようにそこから抜け出すことはできない。
 悲しいかな、これがもう一つのアメリカの現実だとレイスデンは知った。犯人もこの病んだアメリカの犠牲者の一人に過ぎない、これは彼だけの責任ではないとレイスデンは考えたのである。

 レイスデンを撃った犯人ストローマンは、テキサスの貧しい家庭に育った白人である。彼は、母親には金がなかったからお前を中絶できなかったと言われ、荒れた生活を送っては少年院や刑務所に入り、薬物に依存し、そして思いつきで白人至上主義者になった。もっとも、そんなのは彼の周りではざらだったが。

 ところで、アメリカでは近年中産階級が大きく減少している。1970年代には全体の6割強を占めていたが、足下は半分程度まで減っている。中流から下流へと転落する人が多いのである。特に、かつて石炭や鉄鋼など製造業で栄えていた街や、中西部や南部の小さな街で顕著だという。こうした地域では、もはやアメリカン・ドリームは、文字通り、ただの夢に過ぎない。
 彼らには、その多くは労働者階級の白人やその子供たちであるが、政治家や金持ちにいいようにされている、苦しめられているといった被害者意識がとても強い。トランプが大統領選で勝利できたのは、自分は既存の政治家と違い、彼らの味方だと訴えたからであった。しかし、そのトランプにしても、実際のところ有効な解決策はないようだ。

 夢を持ち、明日を信じて生きていける社会と、夢や希望が持てない、あるいは持っても仕方がない社会とに分断されたアメリカ。これが行き過ぎた資本主義の結果なのかもしれないが、いつの日か皆が理解し合い、一つになる日は来るのだろうか。また、アメリカと程度の差こそあれ、これは経済格差が拡大する我が国の問題でもあるだろう。


 

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トランプは“ビッグ・ブラザー”というよりも・・・

2017-02-01 00:02:55 | 海外で今
 今、アメリカで小説『1984』がベストセラーになっている。村上春樹の『1Q84』ではない。20世紀半ば、ジョージ・オーウェルによって書かれた小説である。日本でも1984年にちょっとしたブームになり、僕もそのときに読んだ。
 『1984』は全体主義国家の恐怖を描いた小説であり、常に“ビッグ・ブラザー”に監視され、人々の行動はおろか思考をも管理された、恐ろしい社会の話だった。

 なぜ、そんな昔の小説が今また売れているのだろうか。
 
 それは、先日のトランプ大統領就任式の観衆の人数を巡る大統領側とマスコミの論争(というか言い合い?)がきっかけである。

 トランプ大統領は就任式の観衆を25万人としたマスコミ報道を嘘だと非難し、さらにスパイサー大統領報道官にいたっては就任式に集まった人数は「史上最大」とまで言い放った。実際にオバマ大統領の就任式の写真と比較すると、25万人が正しいかどうかはともかく、「史上最大」というのはとても信じ難い。
 これは分が悪いと思ったのか、大統領特別顧問・コンウェイ氏は、報道官が言ったのは “alternative facts” (代替的な事実)に過ぎないと擁護した。が、かえってこれが火に油を注ぐ結果になってしまった。
 どうもコンウェイ氏本人は「そうした見方もある」といった軽い意味で言ったらしいが、トランプ嫌いのマスコミがそれに噛みついた。代替的な事実、即ち真実に代わることのできる事実を政府が作り上げるのか、それではまるでオーウェルの『1984』と同じではないか、というのである。

 小説『1984』において、政府は人々を支配するため、ニュースピ-ク(新語法)により人々の語彙、延いては思想を管理・統制し、また歴史を改竄して今がもっとも恵まれていると信じ込ませていた。
 その上で政府は全体主義を正当化する“doublethink”(二重思考)の考え方を国民に植え付けたのである。それは人々に「自由は隷従である」など相矛盾したことを信じ込ませる、いわばマインド・コントロールであった。人々は、ついには二重思考により「2足す2は5である、もしくは3にも、同時に4と5にもなりうる」とまで考えるようになる。つまり、政府が言えばそれが“真実”になるのである。
 マスコミは、“alternative facts” をオーウェルの二重思考だと非難し、それがSNSで瞬く間に広まり、今回のベストセラーに繋がったのであった。

 正直、マスコミも言い過ぎというか、考えが飛躍し過ぎている気がしないでもない。それに『1984』の世界とトランプは似て非なるものである。
 『1984』の支配体制は極めて緻密に計算されているのに対し、トランプの政策はただの思い付きのようなものが多い。具体策がないのである。例えば、メキシコ国境の壁は資金調達がそれこそ壁になっているし、今回の米国への入国制限にしても翌日になってグリーンカード(永住権)保有者を適用外にするなど準備不足は否めない。また、一方的な入国制限が内外で騒動を引き起こすなど考えていなかったかに見える。いずれにしろ緻密さとは程遠い。
 トランプには子供っぽい言動が多いし、『1984』のビッグ・ブラザーというより、その辺のガキ大将に近い気がしてならない。が、しかし、権力を持ったジャイアンほど たちの悪いものはないだろう。我々は、米国のマスコミに、そして米国の議会に、トランプがおかしな方向に行かないようブレーキを期待するしかない。
 
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香港民主化デモとメインランダー

2015-01-19 23:54:30 | 海外で今
 「帝力何有於我哉(帝力なんぞ我にあらんや)」
 漢文の授業で習った方も多いと思うが、中国神話の帝、堯(ぎょう)にまつわる歌の一節である。
 長年平和が続いているものの、人民が自分の治世に満足しているのか、堯は不安になった。そこでお忍びで町に出たところ、老人が腹を叩き、地面を踏み鳴らし、楽しげに歌っていた。日が出れば働き、日が沈めば休む。のどが渇けば水を飲み、腹がへれば食べる。帝の力など俺の生活にどれだけの影響があるというのか。影響など何もない。
 これを聞いて堯は思った。世の中はよく治まっている、自分の政治は間違っていなかったと。

 年末年始、香港に行ってきた。今回は灣仔(ワンチャイ)に宿を取った。最後まで民主化デモが続いていた政府庁舎のある金鐘(アドミラルティ)は目と鼻の先。歩いて10分もかからない。何回か前を通ったが、もうデモの跡形はなかった。
 中国の民主化デモというと、やはり天安門事件を思い出す。暗闇の中、戦車が走る映像は本当に衝撃的だった。今回のデモが、天安門事件のように武力弾圧され多くの死傷者が出る事態にならなくて良かった。1989年当時とは違い世界第二の経済大国となった中国の余裕なのか、場所が香港であったことが幸いしたのか、いずれにしろほっとした。

 そもそも今回の学生による民主化デモは、香港のトップ、行政長官選挙の民主的な手続きを求めて始まった。が、考えてみれば、イギリス統治時代を含め、香港のトップが民主的な手続き、選挙で選ばれたことなどない。イギリスは香港総督を任命、つまり香港市民の意思などお構いなしにトップを決めていた。ということは、おそらく選挙の件はただのきっかけに過ぎず、本当のデモの理由はほかにあるに違いない。
 以前香港に暮らす日本人から、香港人は中国本土から香港に来た人間をメインランダーと呼んで区別(差別?)していると聞いたことがある。香港に住むメインランダーが増え、香港人、特に若者の仕事を奪っていく。あるいは、中国本土からの観光客が粉ミルクやオムツなどの日用品を買い漁るため物価が上昇し、また本土の富裕層が香港の不動産に群がるため不動産価格も上がっている。そして、香港の若者は家を買うことができなくなった。今の香港は日本など比べ物にならないほど貧富の格差が大きいのである。香港の学生が感じている閉塞感、不安感が、今回のデモの真の原因なのであろう。

 もっとも実際に香港の街を歩くと、そんな悲壮感はまったく感じられない。ショッピングモールを歩けば大混雑だし、僕など入ることさえ気が引ける高級店で買い物している人も多い。人気のレストランは予約で一杯か行列。まるで日本のバブル期のようだ。
 いや、ちょっと待て。僕は香港人の使う広東語はおろか中国の標準語すらわからない(因みに、両者は方言というより外国語と言った方が良いくらい違うらしい)。もしや香港の生活を満喫しているのはメインランダーたち? 彼らは「党力何有於我哉(中国共産党の力など俺の生活にどれだけの影響があるというのか。影響など何もない)」と我が世の春を謳歌しているのであろうか。
 しかし、堯の治世は神話の話。バブルとその崩壊を経験した人間としては、現実の世界は諸行無常という気がしないではないが。
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インドの悲しい現実 ~ レイプ問題について

2014-07-13 22:57:10 | 海外で今
 『女盗賊プーラン』という本がある。盗賊というと戦国時代とか中世のイメージがあるが、なんとこれは現代の話。盗賊団の首領から、1996年に国会議員になった女性、インドのプーラン・デーヴィーの自伝である。
 彼女の人生は壮絶である。彼女はカーストの最下層「シュードラ」の出身(もっともその下というかカースト制度の外側に「不可触民(アンタッチャブル、ダリット)」が存在する)。彼女は教育もろくに受けられず、11歳で嫁に出されるもそこで虐待され家に戻った。が、周りは冷たく、しまいには両親の目の前で男たちにレイプされた。警察は相手にしてくれない。そして彼女は盗賊団に入り、復讐に立ち上がるのであった。

 これだけでは彼女の人生の悲惨さ、あるいは不条理はなかなか伝わらないが、僕はこの本を読み、今の世の中でこんなことがあるのだと大きなショック、衝撃を受けたことを、10数年経った今でもはっきり覚えている。
 しかし、更に悲しいことに、インドのシュードラや不可触民の女性にとって、レイプや警察の無視は日常茶飯事なのである。殺されなかっただけ運が良かったのかもしれない。実際、最近もレイプの後に殺されて木に吊るされた、焼かれた等の記事をネットで見た。犯人たちは口封じのため殺すのが良いと考えているのだろうが、まったく極悪非道としか言いようがない。

 インドでレイプが多い理由は、カースト制度や強い男尊女卑にあると言われる。つまり、最下層カーストやそれ以下の者には何をしても構わない、たとえそれが犯罪であろうと警察も取り合わないという悲しい現実。一方男尊女卑については、女性を男性の付属物としか考えない風習がインドにはあるようだ。夫が死んで火葬されるとき妻も一緒に火に入るサティーという儀式・しきたりが最近まであった。今でも女性が結婚するにはダウリーという多額の持参金が必要である。一般に(男性に?)、女性は男性に逆らうべきではないと考えられているのだ。

 現在のインドではカーストによる差別は憲法で禁止されているが、悲しいかな、差別は厳然と続いている。もっともカースト制度と強く結び付いているヒンドゥー教がレイプなどの犯罪を勧めているわけでは勿論ない。しかし、現世への絶望や諦めが、こうした犯罪に繋がっているのではないだろうか。
 ヒンドゥー教は輪廻と因果応報を基本とする。つまり、人は、死後、天国に行くのでも地獄に行くのでもなく、生まれ変わる。そのとき何に生まれ変わるか、どのカーストに生まれ変わるかは、現世の行為、努力によって決まる。よって現在のカーストは前世の行為の結果であり、変えることは出来ず、甘んじて受けるしかない。これでは、今が最悪だ、これ以上悪くなることはないと考えたとき、その行為を止めるものがない。そんなことをしたら天国に行けないぞ、成仏できないぞ などと言ったところで、インド人の心にはまったく響かないのである。

 では、我々に何が出来るのだろう。インドに行って政府にレイプ問題への対応について抗議のデモをする時間もお金も僕にはないし、そもそも僕の貧弱な英語力では言いたいことの半分も伝わらないだろう。
 僕には、インドで何が起きているのかを知らせることしかできないが、それでも何もしないよりは良いと思い、ブログを書くことにした。
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ミス・アメリカと人種差別

2013-09-30 23:59:22 | 海外で今
 先日、ミス・アメリカに初めてインド系の女性、Nina Davuluri さんが選ばれた。彼女自身は“ミス・アメリカ”で Diversity(多様性)が受け容れられ嬉しいと語ったが、どうもアメリカ人の中には、彼女がミス・アメリカに相応しくないと考える人間が結構いるらしい。ネット上には、「ミス・アメリカはアメリカ人であるべきだ。」、「アラブのテロリストみたい。」、「アル・カイダ、おめでとう。君の仲間だ。」といった誹謗中傷が数多く出たという。
 これは、ミス・アメリカの決定が9月17日とあの9.11に近かったことや、インドにイスラム教徒が多いこと(インドは国民の多くがヒンズー教徒であるが、イスラム教徒も1割強、なんと1億6千万人もいる)が直接の原因であろうが、やはりその根底にあるアメリカの差別の根深さを感じざるを得ない。

 今年は、キング牧師の有名な“I have a dream.”演説が行われたワシントン大行進(内容について関心のある方は、2007.1.21『マーティン・ルーサー・キングJr.の夢』をご覧ください。)からちょうど50年になる。
 このワシントン大行進で黒人の差別解消に向けた公民権運動は一気に盛り上がり、南部諸州の人種隔離の各種法律、いわゆるジム・クロウ法が禁止され、そして翌1964年、ついに公民権法(Civil Rights Act)が制定された。法の上で黒人が白人と漸く平等になったのである。
 以後、黒人や有色人種を優遇する政策(affirmative action)も導入され、最近では政財界で黒人の活躍も目立つようになってきた。かつて黒人初の大統領に最も近いと言われたコリン・パウエル(軍のトップとして湾岸戦争を指揮し、その後国務長官に)、その後任のライス国務長官、そしてオバマ大統領の誕生である。

 しかし、一部にこうした好ましい変化はあるものの、全体を見れば、残念ながら黒人と白人の間で今も格差は存在する。貧困による大学進学率等教育水準の低さが、黒人の高い失業率や低い平均収入へと繋がり、その結果、貧富の差がその子供の世代に引き継がれている。アメリカはこの悪いスパイラルを断ち切ることが出来ないでいる。
 さらに、あの悪名高き白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)の末裔たちは今も存在し活動を続けている。黒人に対する差別や差別的感情による事件も絶えない。これがアメリカの実情である。
 そして、こうした差別や差別意識は、ヒスパニックや他の有色人種、イスラム教徒あるいは性的少数者等へと対象を広げ、更に複雑になっているのではないだろうか。

 ところで、ご存じの方も多いと思うが、黒人で初めてミス・アメリカになったのは、歌手・女優として有名なVanessa Williamsである。それは1984年のことだった。そのときもアメリカでは様々な議論があったらしい。
 彼女の代表曲“Save the Best for Last”は、美しいバラード曲であるが、どこか哀しい、せつない曲である。彼女の人生、経験を参考にした曲だというが、題名を直訳すれば最後に最高のものを残す、つまり、まだ最高のものに出会っていない、手に入れていないということだろうか。
 いつの日か、アメリカの黒人も、ヒスパニックも、インド人も、そしてイスラム教徒も、皆が最高のものに出会ったと笑って言える日が来るといい。キング牧師の“dream" が一日も早く現実になるよう祈りたい。
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民主主義とトルコの反政府デモ

2013-06-09 23:12:19 | 海外で今
 ノーベル経済学賞を受賞したケネス・J・アローの業績の一つに『不可能性定理』がある。それは、合理的な個人からなる社会に民主主義のごく弱い条件を課しただけで独裁者が存在する、即ち民主的な意思決定がなされないことを示したものである。
 説明すると長くなる、もとい僕にわかりやすく話すことはできないので詳細は割愛するが、今回のトルコのデモを見て、ふとこのアローの定理を思い出した。

 5月27日、イスタンブールで始まったデモは、ごく小規模かつ非暴力の静かな座り込みだった。その目的は、市の中心部にあるタクシム広場に隣接するゲジ公園の再開発反対。貴重な公園の樹木(結構な大木らしい)を伐採するな、ショッピングモールなど要らない、と環境活動家が始めたのである。確かにイスタンブールの町は緑が少なく埃っぽかった記憶がある。東京でいえば、日比谷公園や代々木公園をつぶして商業施設を作るようなものであろう。市民が怒るのも無理はない。
 状況が大きく動いたのは5月31日。警官隊がデモ隊に催涙ガスや放水を行う等強制排除に乗り出したのである。無抵抗の市民を警察が攻撃しているとの話がネットで拡がり、行き過ぎた警察の行為に抗議する動きが全国に飛び火した。
 そして、それが夜間のアルコール販売禁止などイスラム化を推し進めるエルドアン首相に反対する動きと結び付き更に拡大し、今の状況に至ったのである。既に2週間近く経つが未だ解決の糸口は見えない。

 エルドアン首相はイスラム主義政党である公正発展党(AKP)を率い、2003年に首相になった。もう3期目、10年になる。この間、スカーフの一部着用容認、アルコール販売の制限等イスラム化を進める一方、経済自由化により高い成長を実現し、地方の敬虔なイスラム教徒を中心に高い支持率を誇っている。そう、この10年AKPは選挙で勝ち、第1党の座を維持している。トルコ国民皆がデモ隊を支持しているのではない。おそらく半数以上の国民は、程度の差こそあれ、首相側に立っている。今のところ行動に出ていないだけである。
 しかし、首相の独裁的、強権的なやり方にトルコ国民の不満が高まっていることも事実だ。例えば、政府の言論統制。デモが拡大した当初、テレビでは、政府の報復を恐れ、デモのことが一切放送されなかったという。また、政府当局により投獄されているジャーナリストの数の調査があり、それによるとトルコは49人で世界最多。イラン(45人)や中国(32人)を上回るのだから相当なものである。エルドアン首相の長期政権が続く中、トルコでは言論の自由が大きく制限されているのである。

 ところで、タクシム広場には近代トルコ建国の父・アタチュルクの銅像が立っている。第一次世界大戦後、彼はトルコの大統領となって大胆な欧化政策を進め、イスラム教の政治への影響を排除した世俗主義と共和主義をトルコの政治の基本に据えた。彼がトルコ共和国建国の父と言われる所以である。しかし、彼も半ば独裁的かつ強権的に脱イスラムを進めたことを考えると、方向が逆なだけで、エルドアン首相と変わらない気がする。民主主義国家における独裁、やはり冒頭のアローの定理は現実に当てはまるということか。
 まあ、どこかの国は民主主義が本当に根付いていないせいなのか、その良し悪しはともかく、独裁者が出て来ない、ひ弱な政治家しかいない気がする。サッカー・ワールドカップ出場決定では盛り上がっても、何かの政治的問題で自らの危険も顧みずデモを行う姿は想像できない。この国民にこの政治家か、と反省してしまった。いずれにしろトルコのデモが、これ以上死傷者を増やすことなく、早く解決することを祈りたい。
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「上有政策、下無対策」が正解? ~ 中国の抱える矛盾

2013-03-16 19:52:46 | 海外で今
 今月に入って中国では北京、上海など都市部で離婚が急増しているそうだ。中国政府の発表した不動産売却益に課税する方針を受けてのことである。
 中国政府は、1日、不動産バブルを抑制し、投機目的の不動産取引を防ぐため、次の二つの規制を打ち出した。一つは、不動産を複数所有する人が物件を売却する場合、売却益に対し20%の税金を課すというもの。もう一つは、2軒目の住宅を購入する場合の住宅ローンにつき、必要な頭金の比率を引き上げ、かつ金利を高くするというものである。
 ただ、この制度は世帯単位で適用されるため、究極の抜け道があった。そう、離婚である。離婚して夫婦の各々が不動産を所有する形にすれば、売却しても20%の課税を免れることができる。勿論、不動産を売却し、税金なしにお金を受け取った後で再婚する手筈となっている。まあ、中には大金を手にし、新しい愛に走る人もいるかもしれないが。

 計画倒産は聞いたことがあるが、計画離婚なんて聞いたことがない。中国には「上有政策、下有対策」(上に政策あれば、下に対策あり)という言葉がある。自分さえ良ければ、お上が何と言おうと関係ないということだろう。中国恐るべしである。

 もう一つ「上有政策、下有対策」の話を。あの一人っ子政策にも抜け道があるという。先日上海に行った際に聞いた話である。農村で多く行われている、出生届けを出さず戸籍外で子供を育てるというのとは違う(これはこれで大きな問題であるが)。
 それは、海外で子供を産むという裏技である。アメリカやカナダなど出生地主義を採る国で出産すれば、中国人の子供であってもその国の国籍を取ることができる。外国籍であれば一人っ子政策の対象にはならない。だから二人以上の子供のいる中国人家族が結構いるらしい。兄弟で国籍が違うのもざらとのことだ。

 しかし、上の二つはいずれも金持ちだけが使える「対策」である。一生働いても家を買えない人は多いし、死ぬまでに一度も海外に行けない人だっている。いったい、その他大勢の一般庶民にどんな「対策」があるのだろう。中国の貧富の差は絶望的に大きい。マルクスが今の中国を見たら、これは共産主義ではないと、きっと嘆くに違いない。
 臭いものに蓋をするではないが、中国は衛星放送やインターネットなど海外からの情報を厳しく監視、制限している。政府に都合の悪い報道になると衛星放送は切れるし、ネットに対する中国の規制はご存じの通りである。中国でfacebook、twitter、YouTubeなどは使えない。上海で試してみたが確かに接続できなかった。裏技を使えば見ることはできるが、その裏技に対する当局の対応も厳しくなっているようだ。

 「上有政策、下有対策」もいいが、皆が対策を取れるものであって欲しいと思う。が、そもそも、簡単に対策、抜け道を考えられるような政策自体、如何なものかと思う。
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階級社会 ~ タイとイギリス

2010-04-27 00:48:38 | 海外で今
 タイの混乱が治まらない。22日夜には70人以上の死傷者を出した爆発事件があったし、未だにタクシン派による反政府デモ、バンコク中心部での占拠が続き、まさに一触即発の状態である。現に軍が強制排除に出るとの噂もあるようだ。

 もう記憶が薄れているかもしれないが、2006年、タイではちょうど今と逆の動きがあった。当時のタクシン政権への反対デモが起こり空港が占拠された。そして、遂にクーデターでタクシン政権は倒れたのであった。詳しくは、2006.3.16『タクシン政権の行方、更に・・・・』と2006.9.24『タイのクーデターに想う』に書いたのでご覧頂きたい。

 このときはプミポン国王がクーデターを承認し混乱は治まった。以前の政変の際と同じ、国王による調停、いわば鶴の一声である。しかし、今回はそうはいかない。王室は現政府寄り、と見られているからだ。中立な仲裁者にはなれない。現政府と現政府を支持あるいはタクシンを非難する都市の中産階級層に対し、タクシン元首相とそれを支持する農村の貧困層、この対立は根深い。調停役不在で出口が見えない。

 ところで、昨日(4月25日)、イギリスの小説家、アラン・シリトーが亡くなった。『長距離走者の孤独』で知られる作家だ。82歳。また懐かしい作家が一人この世を去った。
 新聞に彼は労働者階級の出身だと書かれていた。地位的にも金銭的にもフラットに近い日本の社会ではあまりピンと来ないが、彼は紛れもなく「労働者階級」の出身であり、そして、これまた紛れもなくイギリスは階級社会なのである。
 僕自身、階級など普段はほとんど意識しないが、タイの中産階級と下層階級の対立を考えていたとき、ふと彼の死亡記事を見たことから、階級について考えさせられた。

 イギリスの階級は大きく、上流、中流、下流=労働者の三つに分かれる。上流は貴族や地主など、地位も名誉もあり、かつお金もある人。必ずしも大金持ちとは限らない。中流は弁護士、医師、大学教授などの専門職やホワイトカラーのイメージ。成功の度合い、裕福さ等により、中流の上・中・下などに細分化される。最後の労働者階級、これはブルーカラー、つまり工場労働者、肉体労働者のイメージ。
 さて、これだけだと別にどこにでもありそうな話に聞こえるが、凄いのはここから。三つの階級間での移動は極めて少ない。いや、移動どころか交流すら少ないのである。階級が違えば、住む場所も、通う学校も、読む雑誌も、良く行くレストランも、服装も、皆違う。そして、工場労働者の子供は工場労働者に、金持ちの子供は金持ちに、ごく当たり前になって行くのである。
 例えば、日本だとこんなケースも考えられる。社長と社長の車の運転手、ともに子供がいる。社長の子供は出来が悪く3流の大学に、運転手の子供は大変優秀で東大に行ったとしよう。とすると、両者の子供の代で立場が逆転することも十分考えられる。子供は親の職業に関わらず社長になるチャンスがあるが、逆に社長の子供だからといって必ず社長になれるわけではない。が、イギリスでは運転手の子供はやっぱり運転手、社長など到底考えられないのである。
 ただ、階級間で強い対立があるわけではない。それなりに居心地の良い生活ができれば他人など関係ないのだろう。ジョン・レノンは“Working Class Hero”という曲でイギリス社会を痛烈に皮肉ったが、イギリス人の多くは“Let It Be”(あるがままに)の境地のようだ。

 翻ってタイの話。愛される王室があるのはイギリスと同じだが、イギリスと違い、階級間の対立が激しい。もっともイギリス人のように大人になれと言っても今はまだ無理であろう。やはり生活の安定がないと民心は安定しない。
 というとタクシン寄りに聞こえないでもないが、タクシン元首相には、まず一族の資産760億バーツ(約2200億円)を貧しい人のために役立てては、と言いたい。タイそしてタイ国民のため、何をすべきかを考えて欲しい。争いでないことだけは確かだ。
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遠いアフリカ ~ アフリカの貧困について

2009-02-03 00:43:42 | 海外で今
 昨年の夏、初めてアフリカ大陸を見た。スペインの最南端の町、タリファから、アフリカ大陸、そうモロッコを遠く眺めたのであった。距離にしてわずか15km。アフリカは遠いが、いつか海の向こう側に行ってみたい、と思った。
 近代的な都市になったカサブランカにイングリッド・バーグマンの『カサブランカ』の面影はないという。が、マレーネ・ディートリッヒの『モロッコ』の印象もあってモロッコはじめ北アフリカには異国情緒は勿論、どこか哀愁やロマンチックな思いを感じてしまう。

 しかし、現実のアフリカは厳しい。特にサハラ以南のアフリカの状況は目を覆うばかりである。貧困、飢餓、疫病そして内戦。国連の定める「後発開発途上国(LDP : Least Developed Countries )、即ち開発途上国の中で特に発展の遅れている国は世界で49カ国ある。内33カ国がアフリカ、それもサハラ以南にある。確かに厳しい暑さや乾季・雨季の存在など農業には不向きかもしれないが、アフリカにはダイアモンドやプラチナ等貴金属、コバルト、マンガン、バナジウム等レアメタルなどの鉱物資源が豊富にある。いずれも世界有数の埋蔵量を誇る。なのに、なぜアフリカは貧困から脱出できないのだろう。

 「欧米の植民地から独立したとはいえ未だに欧米資本の支配下にあるせいだ」、「長く植民地だったため優秀な人材が育っていなかった、教育が十分ではなかった」、「厳しい気候や自然環境のせいだ」、「独裁が悪い」、「共産主義が悪い」、「エイズのせいだ」等々、様々な理由をアフリカの貧困の理由として聞く。おそらくどれも正しいのだろう。
 が、理由はそれだけだろうか。既に多くのアフリカ諸国が独立して50年になろうとしている。それだけの時間があれば解決できた問題も多いはずだ。とすると「国づくり」の根本に何か問題があったのではないだろうか。

 実はそう思ったのはシンガポールに行ったときだった。シンガポールは、1965年の独立、ご存じのようにほぼ赤道直下に位置し、熱帯雨林気候である。多くのアフリカ諸国と条件は変わらない。それが一方は先進国の仲間入りをし、他方は多くが後発開発途上国のまま。この違いはどこから来るのだろう。
 無政府状態で海賊の横行するソマリアが特別なのではなく、ジンバブエ、コンゴ、ルワンダ、スーダンなどもさして状況は変わらない。そもそもこれらの国では、指導者が(大抵は独裁者であるが)自らのことしか考えず、国全体のこと、国づくりに何ら関心のないように見える。リー・クアンユーも自らの一族の利権を重視しているが、彼の場合、国の発展が最優先であった。シンガポールの発展があってこその、自らの繁栄であった。彼は国をないがしろにして自らの利権を求めるアフリカの独裁者とは一線を画している。

 優れた指導者の存在の有無、シンガポールと多くのアフリカ諸国の違いはそれだけだろうか。華人とアフリカ人の違い?それもあるかもしれない。もっとも、どちらが優秀だというのではなく、華人の方が長い歴史の中で商売に長けていた、慣れていた、という意味である。
 アフリカは部族間の対立が激しく、それが内戦に繋がったというが、シンガポールには民族間の対立がある。華人、マレー人、インド人と民族が違うほか宗教も違う。では、何が両者の決定的な違いなのであろう。

 それは「危機感」の有無ではないかと思う。シンガポールに天然資源はなく、更には水もない。水は対立する隣国マレーシアに依存していた。そんな小国がどう生き延びて行くか、そこからリー・クアンユーの国づくりが始まったのである。インフラの整備、外国資本の誘致、そして外交的には非同盟・武装中立でマレーシアの脅威に備えた。
 これに対し、独立後のアフリカ諸国に危機感は乏しかった。東西冷戦の中、米ソどちらかの陣営に与すれば他の侵略を受けることはないし、相応の支援も受けられた。つまり、内戦が起きようと国としては安泰だったのである。資源や農産物を売れば金も入ってくる。それを自らの懐に入れれば良い。おおよそこんな感じであろう。

 ゴルゴ13でも送ってアフリカの独裁者を暗殺すればアフリカの貧困問題は解決するだろうか。否。新たな独裁者が出てくるだけであろう。問題は変わらない。
 やはり教育により、人々の意識を変えるしかないと思う。最低限の生活を保証する一方で、無償での義務教育、留学生の受け入れ、あるいは教育者・指導者の派遣など、何年掛かるかわからないが、地道に努力するしかないであろう。
 僕は無力であるが、日本の皆が同じように考え、一歩、いや半歩でも踏み出せば、アフリカも何か変わるかもしれない。そう信じたい。
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シンガポールで考えたこと(2) ~ リー・クアンユーの功罪

2009-01-18 23:19:57 | 海外で今
 シンガポールで初めて地下鉄に乗ったとき、たまたまチケットのタッチが悪かったのか、改札機が閉まってしまった。やり直すと今度はすんなり行ったが、ふと上を見ると、モニターに僕の姿が。おそらく不正乗車をチッェクするためのモニターであろう。さすがシンガポールだな、と思った。
 シンガポールは規制が厳しい。違反すると即罰金である。例えば、ゴミのポイ捨ては勿論、喫煙場所以外での喫煙や公共の場所で唾を吐くことも罰金である。社会の秩序を保つためと言えばそれまでだが、同じ華人社会とはいえ、中国とはえらい違いである。更に言えば、シンガポールは汚職も少ない。これまた中国や多くの発展途上国とは大きな違いだ。いや、日本も見習うべきであろう。
 シンガポールの人のモラルが高いのか罰金あるいは刑罰が怖いのかはさておき、シンガポールが大変きれいな街であること、治安がよいこと等は、初代首相リー・クアンユーの功績といえる。

 ところで、首相を退任した後も上級相として内閣に留まり実権を握った、自らの息子を首相にした、と聞くと、皆さんはどこの国を思い浮かべるだろう。北朝鮮、ロシアのプーチンあるいはブッシュ親子といったところだろうか。実はこれはリー・クアンユーの話である。
 クアンユーは1959年にシンガポールが自治権を獲得した際に初代の首相となり、その後1990年まで首相を務めた。ゴー・チョクトンが次の首相となったが、クアンユーは上級相として内閣に留まり、しかも彼の長男リー・シェンロンを副首相にした。そして2004年8月にシェンロンが第3代の首相になったのである。更に、長男(即ち現首相)の妻はシンガポールの政府系投資会社テマセクの社長を務め、又、クアンユーの次男はシンガポール・テレコムのCEOとなっている。いやはや、すさまじい同族支配というか、さしずめ“リー王朝”といった様相である。
 おまけに、このテマセクというのがこれまた凄い会社である。シンガポール航空やDBS銀行といった大企業、国内の電力・ガス等のインフラ関連、更にはテレビ放送のメディアコープや新聞のシンガポール・プレスといったマスコミまでも支配する会社なのである。これではシンガポールで“リー王朝”に逆らっては生きていけないであろう。
 
 シンガポールはいわゆる“開発独裁”の成功例といえる。経済発展のためには政治的安定が必要であり、そのためには独裁も正当化される、というのが開発独裁の考え方である。シンガポールは人民行動党の一党独裁であり、クアンユーは言論統制や更には選挙干渉まで行い、野党の動きを封じ込めてきたのである。が、一方で独立後の不安定な状況の中からシンガポールをここまで成長させたのは、彼の手腕、指導力によるところが大きい。シンガポールは一人当たりGDPで日本をも追い越すまでに発展、成長したのである。
 クアンユーの評価は難しいが、シンガポールの人たちは、言論その他多少不自由な生活であっても経済的繁栄を謳歌する方が良いと考えているのではないだろうか。華僑にとっては国よりも血縁が重要、国がどうあろうと一族が繁栄すれば良い、といった話を聞くが、シンガポールは華人社会、おそらく皆それに近い考えなのだと思う。

 翻って日本の話。今の政治のていたらくを見るに、クアンユーのような人間が出てこないのかな、という気がしないでもない。独裁というと聞こえは悪いが、哲人政治や賢人政治といえば憧れる。が、しかし、ヒトラーみたいのが出てこないとも限らないし、であれば、理念や理想が感じられず、自らの選挙のことしか考えず、低次元の議論ばかりしている今の政治で満足した方がまだましかもしれない。
 ヒトラーは極めて民主的なワイマール憲法の下で登場したのであり、閉塞感のある社会の中で皆から大きな支持を集め、独裁体制を築いて行ったのである。そのことを忘れてはいけない。
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シンガポールで考えたこと(1) ~ 「イメージ・オブ・シンガポール」にて

2009-01-17 15:20:48 | 海外で今
 セントーサ島に行った際、「イメージ・オブ・シンガポール」というアトラクションに入った。シンガポールの歴史、文化、民族の紹介をする施設である。二人ともシンガポールのことはよく知らないので、ちょっと勉強を、と思ったのである。
 シンガポールの場合、そもそも歴史といっても短いし、“シンガポール民族”なるものはいない。民族構成としては華人系が3/4と大部分を占め、あとはマレー系、インド系と続く。よって文化の紹介といっても、シンガポール固有の文化ではなく、各民族の文化である。シンガポールでは各民族や文化が完全に融合、同化はしておらず、今でも混在、併存した状態にある。その意味で、シンガポールは人種のるつぼ、メルティング・ポットというより、サラダ・ボウルと言われる。
 だからこそ、シンガポール国民としてのアイデンティティ確立のための一助として、シンガポールは各民族が協力して作り上げてきたことを訴える、こうした施設が作られたのであろう。

 が、この「イメージ・オブ・シンガポール」、日本人にはちょいと居心地が悪い。

 話はそれるが、シンガポールはイギリスから独立したのではなく、マレーシアから独立したのである。1959年にイギリスから自治権を獲得したシンガポールは、1963年マレーシア連邦に加入した。しかし、マレー人を優遇するマレーシア政府と対立し、1965年、マレーシアから分離、独立したのであった。当時よりシンガポールの政治・経済の実権は華人が握っている。そんなこんなで、おそらくマレー人は華人のことをよく思っていないだろう。

 こうした中、国を一つにするには共通の敵を作るのが良い。それが日本なのである。
 ここの展示によると、シンガポールの歴史上最大の試練は日本との戦い、だそうである。僕には、第二次世界大戦で日本軍がシンガポールやマレーシアでイギリス軍と戦ったとの認識はある。が、シンガポール軍と戦ったとの意識はなかった。もっとも直接の戦闘というよりは、日本占領下の統治の方が問題は大きかったようだ。当時、日本軍は中国と戦っており、日本軍にしてみればシンガポールの華人は敵の仲間、シンガポールの華人にしてみれば日本軍は仲間を殺す悪者、という構図だったのである。日本軍による華人の弾圧、華人のゲリラ的反抗、ともに激しかったようだ。

 シンガポールの試練・日本との戦い として、日本軍の中国での戦闘の映像が流されていた(注:シンガポールではなく、南京など中国での映像である。あの、ここはイメージ・オブ・”シンガポール”のはずでは??)。炸裂する爆弾、砲撃で破壊される建物、そして逃げ惑う人々。最悪なのは、大きな穴を掘って多数の死体を埋めるシーンに続き、日本兵が皆万歳をして喜ぶシーンが続くところ。さすがにこれは編集のし過ぎだろう。悪意すら感じてしまう。ここで日本語で話そうものなら、「おまえは日本人か」と言って、近くの人に殴られそうな雰囲気だった。

 が、皆さまご安心を。僕は誰にも殴られなかったし、シンガポール滞在中、取り立てて危険な目に合うことはなかった。シンガポールの対日感情は悪くはないし、ここは極めて安全な国だから。
 次回はシンガポールの政治について考えてみたい。
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GMはチャプター11で再生すべき

2008-11-19 00:41:21 | 海外で今
 米国の自動車メーカー3社、いわゆるビッグスリーが、中でもとりわけGM(ゼネラル・モーターズ)が、極めて深刻な状況にある。先般政府により環境対応車生産のためとして250億ドルの低利融資が行われたが、ビッグスリーは足元の資金繰り悪化から、追加で250億ドルの支援を政府に要請している。これが実現すれば日本円で総額5兆円近い支援額となる。

 2006年2月23日に『晴れた日でもGMが見えない?』というブログを書いたが、当時の状況からGMはまったく変わっていない。UAW(全米自動車労組)に妥協した結果としての高コスト体質。高賃金に年金や退職者の医療費負担等々、この2年間、彼らはいったい何をしていたのだろう。
 いや、この30年間と言って良いかもしれない。というのも、1978年にクライスラーの社長となって同社再建を実現したアイアコッカが、その自伝の中でビッグスリー共通の問題として「高すぎる人件費」を嘆いていたからだ。又、当時と今の状況も似ている。米国の自動車メーカーは石油ショック以降の需要構造の変化に対応できず、つまり低燃費小型車の開発・生産が遅れた結果、日本車との競争に敗れ、業績不振に陥っていたのである。
 幸い当時と違うのは、日本の自動車メーカーが米国での現地生産を増やしてきたことから、ジャパン・バッシングが起きていないことであろう。

 概して日本の新聞は米国政府によるGM支援に好意的な気がする。GMが破綻した場合の実態経済への影響は計り知れない、米国経済のみならず世界経済全体に大きな打撃となる、といった論調。又、格差社会の是正、弱者救済、判官びいきといった感情的な面もあるのかもしれない。

 しかし、本当にそれで良いのだろうか。

 私は、GMはチャプター11を申請すべきと考える。日本でいう民事再生法の申請である。勿論、今の状況で即座にチャプター11を申請すべきではない。混乱が大きすぎる。今GMがチャプター11を申請すれば、アフターフォローを考え先の見えないGMの車を買う消費者はいなくなるだろうし、部品メーカーやディーラーの連鎖倒産も多数起こるだろう。地に落ちたGMブランドを支援するスポンサーは出てこないであろうし、世界の金融市場もGM破綻によりCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)の清算が必要となりパニックになるかもしれない。
 こうした事態を避けるには やはり米国政府の支援が不可欠である。それは再建計画策定、再建が軌道に乗るまでの政府による支援策の作成、更には新たな経営陣やスポンサー探し、等を行うための準備期間とすべきである。政府の支援によるプレパッケージ型の再生案件とすべきと思う。

 今のGMの体制を温存した形での再建はありえないであろう。資産処分や人員削減は避けて通れないし、UAWの既得権の抜本的見直しも必要である。血も涙もないことを言うように聞こえるかもしれないが、事実を見て欲しい。2007年のGMの従業員の時給(年金や医療費負担も含む)は 70ドルだという。1日8時間、年250日働くとすれば年14万ドル、日本円で13百万円以上になる。リーマン・ブラザーズと比べれば安いかもしれないが、高いことに変わりはない。
 一方、日本の自動車メーカーは収益こそ悪化しているが依然として黒字である。米国市場が赤字で苦しんでいるとも聞いていない。GMはじめビックスリーには世界最大の自動車マーケットを有することから来る驕り、利益率の高い大型車への依存など、経営に甘えがあったのではないだろうか。
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カンボジアで思ったこと

2008-04-22 22:37:51 | 海外で今
 日本テレビの『行列のできる法律相談所』という番組で、今“カンボジア学校建設プロジェクト”が進められている。趣旨に賛同した芸能人100人に絵を描いてもらいオークションを実施、その売上げで学校に行きたくても行けない、スレイナちゃんという少女の住む村に学校を建設しよう、というものである。
 本当であれば、スレイナちゃんの村に学校ができればそれで終わり、というのではなく、他のカンボジアの村にも、そして同じように学校を作る資金のない他の国々にも、こうした運動が広まると良い。が、取り敢えずは、スレイナちゃんの村に学校ができるだけでも良しとすべきであろうか。
 
 ところで、カンボジアというと何を思い出すだろうか。まず、アンコールワット。で、次は? 長い内戦と未だに続く地雷の被害。そしてポル・ポトとクメール・ルージュによる虐殺。映画『キリング・フィールド』を見た人も多いと思う。
 
 7年前、アンコールワットに行った。91年にカンボジア和平が実現し、20年に及ぶ内戦に漸く終止符が打たれた。治安の安定とともに、アンコールワットやアンコールトムへの観光客が増えていた。そんな頃である。
 シェムリアップという町に泊まったが、当時は超高級ホテルが1軒(ラッフルズ系のホテル・ダンコール)と、そこそこのホテル(日本人観光客が泊まれる)が十数軒といった感じだったと思う。今では高級ホテルが随分増えているようだ。

 アンコールワットの話は別の機会に書くとし、今日はカンボジアで印象に残っていることを二つ書くことにする。
 一つは子供達の目が輝いていたこと。国は貧しいけれども子供達は本当に生き生きとしていた。ポル・ポト後に生まれ、当時の苦しみ、悲惨さを知らないからかもしれないが、その屈託のない笑顔は明日への希望に満ち溢れている気がした。
 一方、最近の日本の子供達はどこか覇気がない感じがして仕方がない。豊かな社会に育ち、また地球温暖化や年金の破綻など将来に不安を感じ、単純に、明日は今日よりも良い日、親の世代よりも自分達は良い暮らしが出来る、と思えないためなのだろうか。
 二つめは地雷。シェムリアップはアンコールワットへの観光の拠点であるが、そのシェムリアップでさえ、道路から外れるな、危ないから道路の端は歩くな、と教えられた。どこに地雷があるかわからないのである。和平後10年経っても、地雷の処理は終わっていなかった。日本でのん気に暮らしている僕にとって、こんな街中で地雷の存在自体が驚きであったし、又、哀しくもあった。

 地雷は主にポル・ポト派が埋めたものとされる。カンボジアは19世紀にフランスの植民地となり、その後アメリカやソ連・中国、更には隣国ベトナムの思惑が絡み、時代の流れに翻弄されてきた。1970年に親米のロン・ノル政権が誕生したが、アメリカのベトナム撤退により後ろ盾を失い、内戦が激化。その間の75年~79年、ポル・ポトのクメール・ルージュが政権を握り、百数十万人に及ぶ虐殺が行われたのである。おおよそ国民の5人に1人が殺されたとも言われ、その比率はナチのホロコーストをも上回る。

 いったいポル・ポトとは何者か。単なる臆病な共産主義者だったのかもしれないし、共産主義の理想に燃えながらも、それを実現する術を知らなかった、ただの愚か者かもしれない。いずれにしろ、彼自身は極悪非道の殺人狂ではなかったようである。むしろ我々とさほど変わらない、ごく普通の人間だったのではないかと思う。
 問題は彼の恐れや狂気に従い、その狂気を拡大した人々の多かったことであり、そんな人間の弱さや、そうした事態を引き起こした組織あるいは社会に内在する欠陥こそ、我々は恐れるべきである。それを肝に銘じなくてはならない。
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隣の国で考えたこと

2007-10-20 22:28:26 | 海外で今
 この夏、韓国と台湾に旅行に行った。両方とも3連休を使った2泊3日の短い旅である。仕事が死ぬほど忙しいと言ってたのに何故と言われそうだが、ともにマイレージを使ったもので1年前から予約していた。せっかくのチケットを無駄にするわけにはいかない。往きの飛行機で初めてガイドブックを開き、ホテルの場所と行き方を確認し、そして見るところや食べるところを探す、そんな旅だった。
 韓国に行くのは3回目。ただ、前の2回は知り合いに案内されての旅だったので、自ら歩くのはこれが初めてである。もう一方の台湾は初めて。中国には何回も行ったし、香港やマカオにも行ったことはあるが、台湾はこれが最初だった。

 韓国と台湾、どちらが好きかと聞かれれば、迷うことなく、僕は台湾を選ぶ。韓流ブームにはまっているおばさんには理解できないかもしれないが、僕はこの二つの国では台湾が好きだ。民族性、国の歴史、対日感情など、様々な理由があると思うが、僕は台湾の方が落ち着く、居心地が良かった。
 台湾の選挙や議会等で、大勢がつかみあいの喧嘩をしているシーンをよくニュースで見る。そのせいか、台湾の人は血の気が多い、興奮しやすい人が多いのかな、と思っていたが、実際行って見たらまったく違う。皆、とても大らかな感じがした。同じ中国人といっても中国本土の人とは違うし、香港の人とも違う。あくせくした感じというか、中国人に多い“われ先に”的な感じがしない。

 韓国と台湾は、戦前、ともに日本の植民地だった。日本は、電気・水道・交通などのインフラ整備や教育の普及など、両国の近代化に尽力した。日本による近代化がなければ、両国の経済発展の進捗は今より遅れていたとも言われている。多くの台湾人は素直にその日本の貢献を有難いと考えているが、韓国人はその事実を知らない、あるいは無視している人が多いようだ。これは戦後の教育など両国政府の方針・政治的理由に拠るところが大きいのであろうが、両国の歴史の違いもあると思う。

 過去、韓国は独立国家であったのに対し、台湾は中国やオランダ、スペイン等の植民地であった。韓国は中国の影響が極めて大きかったとはいえ、一応は独立した国である。よって他国に支配されるというのは大きな屈辱であったに違いない。まして、その相手が日本ときた。歴史的に、韓国は日本を見下していた。学問にしろ文化にしろ、韓国が日本に伝えた、教えてきた、というのが韓国側の意識である。いわば日本は韓国の弟子。そんな日本が師である韓国を支配するなど彼らにとっては言語道断である。
 一方、台湾にしてみると、日本の統治は、単に統治者、支配者が変わった程度の意味しかなかったのだと思う。実際、戦後、本省人(日本の統治前から台湾に住む人)の間では、外省人(戦後、国民党政府が支配した後、台湾に渡ってきた人)より日本人の方が良かった、と昔を懐かしむ声が多かったそうだ。日本の近代化により、当時の台湾は中国本土より豊かで教育水準も高かった。権力を笠に搾取を図る国民党政府より、日本の方がまだましに見えたのである。
 勿論、こうした歴史の違いに加え、日本の統治のやり方も韓国、台湾で多少違っていたかもしれない。わが国の統治は、韓国は陸軍、台湾は海軍がメインであったが、一般に海軍の方が進歩的というかリベラルと考えられるからだ。

 しかし、ここで韓国をけしからんと日本人は言えるのだろうか。「そもそも韓国は~」と言う前に、どれだけ韓国のことを知っていると言うのだろうか。
 今日のタイトル『隣の国で考えたこと』というのは、外交官として韓国に赴任されていた岡崎久彦氏の著書から頂いたものである。30年前の本であるが、今も色褪せていない(たぶん)、名著である。この本を読み、人のことを非難する前に自らの無知を知るべきだと思う。かくいう私も、これを機に読み返すことにしたい。
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EU拡大、バルカン半島へ

2007-01-05 23:51:00 | 海外で今
 1月1日、ルーマニアとブルガリアがEUに加盟した。これでEU加盟国は27カ国になった。EUは、2004年にポーランドやチェコ、旧ソ連のバルト3国など10カ国が新規加盟し中・東欧へと拡大したが、これでバルカン半島にも拡がったことになる。新年早々、まずはめでたい話である。
 が、実はルーマニアとブルガリアはバルト3国などと同じ時期にEUへの加盟交渉が始められたのだが、両国の加盟は2年半以上も遅れてしまった。なぜだろう。

 それには大きく三つの理由がある。第一に司法制度改革の遅れ、第二に食品衛生の問題、そして移民問題である。
 まず司法制度改革の遅れ。ブルガリアといえばヨーグルトが思い出され、のどかな国のような気がするが、実はまったく違う。マフィアの支配する国である。多かれ少なかれ、これはルーマニアもそうだし、更にはロシアもそうだ。共産主義国家の秘密警察などによる強権、弾圧の仕組みは、闇の勢力と結び付き易いのだろうか。体制維持のため互いに協力し、共に利権を享受して来たのであろう。国家は崩壊したが、マフィアはそのまま残った。両国では汚職や組織暴力、売春目的の人身売買などが横行し、強盗も多い。
 両国の加盟には事情をよく知るドイツが最も強く反対していたという。黒海沿岸など両国はドイツ人の好むリゾート先であり、いきおい多くの被害を受けているからだ。
 次に食品衛生の問題。EUは食の安全性を大変重視している。両国はBSE対策など食品衛生のレベルが低いと判断された。確かに先般の鳥インフルエンザ流行の際、感染の恐れがあっても鳥を殺すなどとんでもないと、皆で死ぬほど(?)鳥を食べたとか、鳥を隠したというルーマニアのニュースを見たことがある。

 そして最後の移民問題。両国の労働者の平均賃金は西欧諸国に比し極めて低い。ルーマニアが西欧諸国の2割、ブルガリアが1割といったところだ。こうした労働者が大量に流入すれば、賃金の下落はもとより自国民の失業問題に繋がるとの不安は根強い。
 ドイツは、旧東ドイツの問題を抱えることもあって2004年に加盟した中・東欧諸国からの労働者の受け入れを制限しており、今回も両国からの移民を制限した。一方、2004年に受け入れを制限せず、その後、ポーランドを中心に60万人を越す移民が流入したイギリスは、今回、労働者の受け入れを制限する方針に転換した。フランス、イタリアなどは建設や飲食業など人手不足の業種に受け入れを限定している。いずれも、一つのヨーロッパ、域内の自由な移動と労働という、EUの精神に反する話だ。

 にもかかわらず、なぜEUは両国の加盟を認めたのだろうか。それは使命感からだという。かつて世界の火薬庫と言われ、またボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の記憶も新しい、バルカン半島。その安定、平和がヨーロッパ全体の安定に不可欠との判断が大きく働いた。
 今後はクロアチアやマケドニア、更にはトルコのEU加盟も検討されている。経済規模、所得水準、民族、宗教等の違いを乗り越え、EUが拡大、発展して行くことを願いたい。
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