わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

日本映画史上もっともステキな女優「原節子の真実」

2017-02-22 17:27:43 | スターColumn

 今年の1月17日付・朝日新聞(朝刊)のコラム「いちからわかる!」に、こんな記事が載っていました。題して「原節子さんのエッセー見つかったんだって?」「戦後の日本への提言として、自ら書いた珍しい文章だよ」。一昨年、95歳で亡くなった伝説の女優・原節子。彼女が26歳だった昭和21年(1946)、日本敗戦の翌年に季刊雑誌「想苑」(福岡県の出版社刊)に「手帖抄」と題して掲載された原稿用紙5枚ていどの随筆だ。これを見つけたのは、立教大学の石川巧教授で、掲載したのは文芸誌「新潮」(新潮社刊)今年の1月号。普段は、当時の映画雑誌などで発言してはいたけれども、それらはいずれも宣伝か編集部の意向をくんだ記事だった。だが、この「手帖抄」は、原が自分の意思で書いた数少ない文章のひとつだったといわれる。
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 内容は先ず、戦後の満員省線電車(現在のJR)内の状景。赤ん坊の泣き声に、あちこちから怒声が上がる。これに対して「黙れ! うるさければ貴様が降りろ」という声が飛ぶ。また二等車では、若者が座席の布をナイフで切り取り靴を磨く様子。更に省電の中で、乳児を抱える母親と若い女性のやりとりに口を突っ込むエセ紳士。そして、ミス・ニッポン・コンテストに容貌容姿の美だけが尊ばれることに対する疑義。それは「文化の水準を高めるいとなみとは云へない」。なぜ、人間として申し分のない人を選ぶというわけにはいかないのか、と原節子は言う。最後は「日本人にあいそをつかしたい思ひをさせられることはたびたびである」と言い、「めいめいが何とかして一日も早くお互に愉しく生きてゆけるやうに仕向けようではないか…」と結ぶ。短い文章で、戦後の人心の混乱を簡潔につづった名文です。
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 この文章を「新潮」で読んだ後、解説を書いている石井妙子著「原節子の真実」(新潮社刊)を読んでみた。石井氏は「満映とわたし」(岸富美子と共著・文藝春秋刊)で、戦中戦後の旧満洲における映画人の動向をきめ細やかにつづっている。原節子(1920・大正9年~2015・平成27年)の本名は会田昌江。家計を助けるため、昭和10年(1935)、14歳で日活に入社。彼女に女優業をすすめたのは、義兄の映画監督・熊谷久虎だった(「想苑」のエッセーも熊谷の関係から書いたという)。当時の原は色黒でやせっぽち。スタジオに入っても寡黙で、時間があると文庫本を読んでいた。そんな彼女にチャンスをもたらしたのが、昭和12年(1937)に出演したアーノルド・ファンク他監督の日独合作「新しき土」だった。戦争を控えた時代、この国策映画で彼女は大成功、宣伝でヨーロッパとアメリカをめぐった。
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 この旅行で、17歳になった原は大女優マレーネ・ディートリッヒに会い、堂々とした風格に魅せられる。当時、日本では女優の地位は低かったが、原はひそかに意志が強く自立する女優を目指していた。ちなみに、戦後間もなくして見た「カサブランカ」(1942)では、ヒロインを演じたイングリッド・バーグマンに心酔、生涯のファンになる。彫りの深い容貌と、女優としての明確な志は、のちの原と共通する部分でもある。それまで、どちらかと言えば、忍従する日本女性の役が多かった原に役者としての新境地を開いたのは、戦後の黒澤明監督「わが青春に悔なし」(1946)で自己主張するヒロインを演じた時だった。
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 だが、ここで強調したいのは、戦後の原の生き方についてである。たとえば、冒頭に掲げたエッセー「手帖抄」で、原は常に電車に乗って人々を観察している。当時、彼女はトップ女優でありながら、電車と徒歩で撮影所通いをした。運転手つきの自家用車か、進駐軍の将校に送り迎えさせる女優たちを横目に、原は戦後の混乱期にこうした姿勢を貫いた。超満員の電車に揺られ、横浜の自宅と世田谷郊外の東宝撮影所を往復した。また付き人も持たず、市井の人と同じような生活を望んだ。戦後は食糧不足のために、撮影所からの帰りなどに在所に立ち寄り、家族のために米や野菜を手に入れ、リュックで担いで帰ったという。彼女自身、栄養失調になったこともあった。こうした決意は普通の女優にはあり得ないことであり、その強い意思と姿勢は「手帖抄」に反映されている。「原節子の真実」の筆者・石井氏は、こうした原の素顔を、あらゆる資料を駆使してみごとに浮かび上がらせている。
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 原節子の作品でベスト3を掲げるとすれば、迫害と闘うヒロインを演じた「わが青春に悔なし」、田舎の因習に立ち向かう教師に扮した今井正監督「青い山脈」(1949)、しっかり者の嫁を演じた小津安二郎監督「東京物語」(1953)だと思います。そして昭和37年(1962)、42歳の時、稲垣浩監督「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」で大石りくを演じた後、突然引退。その理由は、映画業界に嫌気がさしたのかもしれないし、眼疾などのせいで体調不良だったのかもしれない。その後、昭和38年(1963)に恩師・小津安二郎監督の通夜に訪れた後、公の場にほぼ姿を見せなくなり鎌倉に隠棲した。小津監督との仲などが噂されたが、生涯独身を貫き“永遠の処女”“神秘の女優”などと言われた。だが、彼女の人間性と女優としての矜持を思うと、それが原節子の戦後の生き方だったのだろうと思う。「手帖抄」に書かれた戦後の日本人に対する辛口の提言は、そのまま現代にも通じるように思われてなりません。



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