わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

ジョージアからやってきた瑞々しい青春ドラマ「花咲くころ」

2018-02-11 14:20:56 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 ジョージア(旧グルジア)から、心が震えるような青春映画がやってきました。ナナ・エクフティミシュヴィリとドイツ出身のジモン・グロス夫妻が監督した「花咲くころ」(2月3日公開)です。だが、単なる甘い青春ドラマではありません。ジョージアは、1991年にソ連邦から独立後、ガムサフルディア初代大統領と反大統領派の対立が、翌年にかけて“トビリシ内戦”と呼ばれる市街戦になった。更に国内の激しい紛争のために、多くの犠牲者、難民が生まれ、社会も経済も壊滅的な打撃を受けて、国内は荒廃したといいます。本作は、そんな時代を背景に、感受性豊かな14歳の少女ふたりの友情と成長していく姿を斬新な感覚でとらえていく。世界の映画祭で、かずかずの受賞を果たしたユニークな青春映画です。
                    ※
 1992年春、独立後に起こった内戦のきな臭さが残るジョージアの首都トビリシ。エカとナティアは、境遇は異なるが幼なじみの14歳の少女。父親が刑務所に入っているエカ(リカ・バブルアニ)は、母と姉と暮らしているが、ふたりの干渉に反発している。彼女は、父が近所の少年の父親を殺したという噂を耳にする。ナティア(マリアム・ボケリア)の家庭は、父がアルコール中毒のため争いが絶えず荒んでいた。街には不穏な空気が漂い、生活物資も不足しがちで、パンの配給にはいつも長い行列ができている。だが、行列に並ぶエカとナティアにとっては、お喋りができる楽しい時間だった。ナティアは、ふたりの少年から好意を寄せられている。ある日、ナティアは、そのひとりラドから護身用に弾丸が入った拳銃を贈られる。だが、もうひとりの不良少年コテと仲間が、配給の行列に並んでいるナティアを車に押し込んで誘拐。それが引き金となり、ナティアはコテと結婚する羽目になる…。
                    ※
 近隣同士が相争わねばならなかったこの時代。物語の中には、幾つかの問題提起があります。荒んだ男たち。エカの父親が持っているソヴィエト時代のパスポート。食料も電気もなく、ローソクをともす生活。配給の行列に割り込む武装した男たち。若者同士のケンカ、銃。そんな中で、女性たちは自立のしようがありません。とりわけ衝撃的な事件が、ナティアの誘拐事件。ジョージアには、誘拐婚と若年結婚の伝統があるという。そして、厳然たる家父長制。コテの自宅で行われる賑やかな結婚式。それでも、ナティアは幸せそうにしている。しかし彼女は、結婚後は家から出してもらえず、友だちにも会えない。彼女を愛していた少年ラドは、嫉妬したコテから刺殺される。そんな風土に抵抗するように、エカはナティアの結婚式で男性舞踊を踊り出す。エカとナティアは、そんな時代を乗り越えようとする若い世代の象徴だ。ここでは、荒んだ時代とジョージア人気質がみごとに浮かび上がってきます。
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 本作は、ナナ・エクフティミシュヴィリ監督の個人的な思い出を基にしているという。彼女は言う―「すべては、私の経験や記憶によります。私は古い記憶を思い出して、設定を再構築し、かつて暮らしていた場所を探しだした。そして、撮影もその場所で行った。当時、私も主人公エカと同じ14歳でした。エカは、私の分身なのです」と。また男性優位主義に対しては、「ジョージアでは男女同権のとりきめや、女性の声に耳を傾けるという習慣は原則としてありません。私は決してフェミニストではありませんが、ジョージア女性から奪われてきた声を取り返したいのです。民主化のプロセスを進めなければなりません」と語る。そして、いまでは誘拐婚はほとんどないが、ジョージアではみんな若くして結婚するとか。若者たちは自立する機会も少なく、親も子供が早く結婚することを望んでいるそうだ。2013年の統計では、7,000人の少女が結婚のために学校をやめた、と同監督は付け加える。
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 しかし、ガチガチの社会告発映画ではありません。14歳の少女ふたりは、たおやかで強い絆で結ばれている。にわか雨を彼女たちが駆け抜けるシーンは、草木の芽吹きのように初々しく美しい。監督たちは、ワンシーンワンカットで撮影したという。前もっての厳密なプランではなく、エモーションによって物語を発展させた。終幕、ラドがコテたちに殺されたことを知ったナティアは、銃でコテを殺そうとする。だが、エカが銃を奪い、ナディアを落ち着かせ、銃を公園の池に投げ捨てる。数日後、エカはそれまで会うことを拒んでいた父親に面会するため、ひとりで刑務所を訪ねる。そこには、憎悪の連鎖を断ち切ろうとする彼女の成長ぶりを窺うことができる。全体的に演出がやや未熟だけれども、展開には筋が通っている。ジョージアでは、外国で教育を受けた新世代の映画人が、自分の国で起こったことをテーマに作品を撮り始めているという。そんな流れに期待したいものです。(★★★★)

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キャスリン・ビグロー、5年ぶりの問題作「デトロイト」

2018-02-01 14:56:27 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 イラク戦争を背景に、米軍爆発物処理班の兵士たちの姿を追った「ハート・ロッカー」(2008年)で、女性として初の米アカデミー監督賞を受賞したキャスリン・ビグロー監督。続く「ゼロ・ダーク・サーティ」(2012年)では、オサマ・ビンラディンの捜索に執念を燃やすCIA女性分析官の軌跡を映画化した。そして今回は、アメリカ現代史の暗黒面に斬り込んだ「デトロイト」(1月26日公開)を発表。1967年の夏、権力や社会に対する黒人たちの不満が爆発したデトロイト暴動は、アメリカ史上でも稀に見る事件であり、43人の命が失われ、負傷者1100人以上を数える大惨事になった。映画は、その間の“戦慄の一夜”に焦点を当てる。いわばビグローが、世界から一転して国内に目を向けた問題作である。
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 1967年7月23日深夜、デトロイト市警が低所得者居住区にある無許可営業の酒場に強引な手入れを行った。地元の黒人たちがこの不当な捜査に反対したことをきっかけに、大規模な略奪、放火、銃撃が各地で勃発。警察だけでは対処できない非常事態に、ミシガン州は州警察と軍隊を投入、デトロイトの市街は戦場と化す。そして暴動発生から3日目の夜、若い黒人客で賑わうアルジェ・モーテルに、銃声を聞いたとの通報を受けた警官と州兵が殺到。それは、宿泊客のひとりがオモチャの銃を鳴らした悪戯だった。だが、モーテル内に突入した白人警官クラウス(ウィル・ポールター)によって黒人青年が射殺される。しかし、それは悪夢の序章に過ぎなかった。実際には存在しない“狙撃犯”を割り出そうとするクラウスとふたりの同僚警官は、偶然モーテルに居合わせた若い男女8人への暴力的な尋問を開始。やがてそれは、殺人をほのめかす異常な“死のゲーム”に発展、新たな惨劇を招き寄せる。
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 本作の製作者は、事件の被害者となった3人の証人を見つけ出し、アドバイザーの役割を果たしてもらった。そのひとりが食料雑貨店の黒人警備員で、アルジェ・モーテルに急行して事件に巻き込まれたメルヴィン・ディスミュークス(ジョン・ボイエガ)。警官たちと被害者の橋渡し的な存在となった彼は、双方から敵視され精神的な痛手をこうむったという。演じるボイエガがシドニー・ポワチエに似ているなと思ったら、オーディションの際にビグローからポワチエ主演「夜の大捜査線」(1967)の脚本を渡され、その1シーンを演じたそうだ。また、地元出身の黒人R&Bボーカル・グループ“ザ・ドラマティックス”のリード・シンガー、ラリー・リード(アルジー・スミス)も、フォックス劇場でのコンサートが中止されたためアルジェ・モーテルにチェックインしたところ被害に遭った。彼は命からがらモーテルから脱け出し、哀れに思った警官が病院に連れて行ってくれたが、友人は殺されてしまった。終幕、ザ・ドラマティックスのコンサートがフォックス劇場で行われる。だが、ラリーは心の傷が癒えないまま、聖歌隊指揮者として以後の半世紀を過ごしたという。
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 ビグローの演出は手堅い。序盤は、街での黒人による暴動をドキュメント映像を交えてリアルに再現。メインのモーテルでの事件に至ると、サスペンス・ドラマのタッチになる。クラウス以下、警官たちの凄まじい暴力。これには州兵も呆れて、途中で引き上げてしまう。また裁判になっても、陪審員も判事も警官たちに無罪判決を下す。いわば、司法ぐるみの差別と隠蔽である。映画は、ヒューマニズムを謳うというより、司法の独断を冷厳な事実として突きつける。これは、デトロイトという街の暗部というよりも、アメリカ社会全体の問題である。警官が罪のない黒人を射殺するという事件は、今日に至るまで続いている。1970年代、仕事でロサンゼルスに出掛けた際、ホテルのティールームで朝食をとった時、黒人母子と、こちらの注文よりも、白人の客を優先されたという経験がある。こんな些細な日常的なことから始まって、アメリカには人種差別が深く根付いているんだな、と感じたものだ。
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 1960年代アメリカは、こうした人種差別や暴動から始まり、混迷の度合いを深めていった。1968年には、キング牧師、次いでリベラル派の星だったロバート・ケネディ上院議員が暗殺された。更にベトナム戦争が泥沼化すると、反戦運動のうねりが強まる。映画界でも、「俺たちに明日はない」(1967)を皮切りに、若い世代の反乱を主題にしたアメリカン・ニューシネマが誕生。ビグロー監督は言う―「芸術の目的が変化を求めて闘うことなら、そして人々がこの国の人種問題に声を上げる用意があるなら、私たちは映画を作る者として喜んでそれに応えていきます」。ただし本作では、警官・被害者ともにキャラが交錯して判然としない部分もある。また、ビグローの「ハート・ロッカー」のように、見ていてヒリヒリするような映像の臨場感は少ない。期待が大きすぎたせいだろうか。ともあれ、この作品が人種差別主義者ドナルド・トランプのような存在を意識しているのは確実です。(★★★★)

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懐かしのジャン=ピエール・レオー「ライオンは今夜死ぬ」

2018-01-24 14:00:16 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 ジャン=ピエール・レオーといえば、仏ヌーヴェルヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」(1959)で注目を集めた俳優です。当時13歳、彼が演じた反抗的な少年アントワーヌ・ドワネルは、トリュフォーの分身として一連のシリーズで親しまれた。以後、ジャン=リュック・ゴダールやジャック・リヴェットらの作品にも出演、ヌーヴェルヴァーグを代表するスターになった。いまや73歳となった彼が、諏訪敦彦監督とコンビを組んだのが、仏日合作「ライオンは今夜死ぬ」(1月20日公開)です。日本で“こども映画教室”に講師として参加してきた諏訪監督が、南仏の子供たちとの映画製作ワークショップを敢行。映画を作る天真爛漫な子供たちを老優レオーに引き合わせて作り上げた作品で、映画に対する純粋な愛と、幻想の世界が絡み合った異色作になっています。
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 舞台は南仏コート・ダジュール。映画のリハーサル中、死を演じられないと悩む年老いた俳優ジャン(ジャン=ピエール・レオー)。過去に囚われ、かつて愛した女性ジュリエット(ポーリーヌ・エチエンヌ)の住んでいた古い屋敷を訪ねると、彼女は美しい姿のまま幻(亡霊)となって彼の前に現れる。再会を喜び、屋敷で寝泊まりを始めるジャン。すると、屋敷に忍び込んだ地元の子供たちが、ジャンにカメラを向ける…「ぼくたちの映画に出てくれませんか?」。ジャンは快諾し、彼らに脚本を用意させる。そして、始まった映画撮影。やがて映画を撮り進めるうちに、ジャンは過去の記憶と向き合い、忘れかけていた感情を呼び起こしていく。残された時間、ジャンの心に生きる歓びの明かりが再び灯されていく…。
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 映画の主題となるのは、死に対する老優の不安と、映画に対して子供たちが示す純粋な好奇心です。冒頭、ジャンは撮影中のシーンの疑問点を監督に問いかける。どのように死を演じるかと。そして「死とは―“出会い”なんだ。死は体験ではなく、その訪れを見ることだ」と言う。劇中、すでに亡くなっている女性ジュリエットの幻を見、彼女と対話を交わすくだりなどは、明らかに死を意識し始めた男の過去への郷愁だ。それとは対照的に、ワイワイガヤガヤと映画の脚本作りや撮影に夢中になる子供たち。ここには、かつての自分を映し出すレオーの心情が感じられる。その証拠に、登場する役名にかつてのヌーヴェルヴァーグへのノスタルジーが感じられる。子供たちの名前、たとえばジュールとかクロードなどは、ヌーヴェルヴァーグ作品でおなじみだ。ゴダールの「ウイークエンド」で歌われた曲も登場する。
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 本作の準備中、諏訪監督はレオーに劇中で歌を歌ってほしいと思ったという。そして、レオーが来日した際に「好きな歌はありますか?」と尋ねたら「ライオンは今夜死ぬ」を歌ってくれたそうだ。そこで、内容が決まる前に、映画のタイトルと歌は最初に決まった。この歌から、すべてが始まったとか。この曲の原典は、トーケンズ(1961年)はじめ、かずかずのアーティストに歌い継がれた名曲「ライオンは寝ている」。この曲は、子供たちの映画のラストシーンを撮る際に、ジャンが突然歌いだし、子供たちもあとに続く場面で登場する。なぜ、フランスでは「ライオンは今夜死ぬ」ということになるのか不明だが。加えて、子供たちのひとり、ジュールが幻のライオンと出会ったりする。そういえば、ライオンはラテン語で「レオー」。ジャン=ピエール・レオーが老いたライオンという意味なのだろうか。
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 諏訪監督の演出は即興主体で、散文的な映像が積み重ねられていく。ジャンと子供たち、ジャンとジュリエットとのやり取り以外、ドラマらしいドラマは無い。監督は、レオーに会った時、映画的なポエジーを彼の身体や話し方に感じたという。そして「この人を撮りたい」という欲望から、映画がスタートした。加えて撮影の8か月前から、南仏で行われたワークショップに集まった20人ほどの子供たちの中から出演者が選ばれ、彼らが映画を発見していくプロセスを、そのまま作品に取り込んだ。でも要するに、この作品の主体はジャン=ピエール・レオーなのだ。ヌーヴェルヴァーグの登場以来、60年近くを純粋な映画愛の象徴として生き抜いた男への敬愛。それにしても、老齢になったとはいえ、その容貌・容姿の変貌ぶりにはびっくり。それも、年齢を考えればやむを得ないか。映画自体は、総体的に観念的。そのあたりが、ヨーロッパで評価される諏訪監督の特質なのかも。(★★★+★半分)

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ようこそ、難民青年。ドイツで大ヒット!「はじめてのおもてなし」

2018-01-15 17:10:33 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 2015年、ドイツではメルケル首相がシリアやアフガニスタンからの難民100万人を入国させると発表し、世界的なニュースとなった。だが、賛成派と反対派が激しく対立し、いまも揺れ続けているといいます。こうした状況を背景にした作品が、ミュンヘン出身のサイモン・バーホーベンが監督した「はじめてのおもてなし」(1月13日公開)です。といっても“難民問題を考える”といった深刻なテーマではなく、ひとりの難民青年がドイツの家族に受け入れられたことから生じる文化や習慣の違い、彼が家族に及ぼす影響を一種のドタバタ・コメディーの形でとらえたユニークな作品になっている。バーホーベン監督の父親は映画監督ミヒャエル・バーホーベン、母親は女優のセンタ・バーガー。軽快なタッチと歯切れのいい展開で、難民問題を日常的で身近なところに引き付けた異色作といえるでしょう。
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「決めたわ。難民をひとり受け入れるの」。ミュンヘンの閑静な住宅地で暮らすハートマン家の豪華なディナーの席で、母親アンゲリカ(センタ・バーガー)がきっぱりと宣言する。教師を引退して生き甲斐を見失った彼女は、医師としても男としても現役にこだわる夫のリヒャルト(ハイナー・ラウターバッハ)と、ワーカホリックのあまり妻に逃げられた企業弁護士の息子フィリップ(フロリアン・ダーヴィト・フィッツ)の反対を押し切って、ナイジェリアから来た難民の青年ディアロ(エリック・カボンゴ)を自宅に住まわせる。31歳にして未だに大学生で“自分探し”真っ只中の娘ゾフィ(パリーナ・ロジンスキ)と、12歳で“一流ラッパー”を目指すフィリップの息子バスティは、心優しいディアロとすぐに仲良くなる。しかし、近隣の住民の抗議が極右の反対デモに発展。いっぽうで、一家はテロ疑惑をかけられて大騒動に。さらに、とどめとしてディアロの亡命申請が却下される。果たして、危機を迎えた家族と、天涯孤独の青年は、平和な明日を手に入れることができるのか…?
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 ハートマン家は、ドイツの小リッチ層に属する。だが内実は、家族関係がぎくしゃくしている。母アンゲリカは暇を持て余し、社会活動に目覚め、難民センターに出入りする。父のリヒャルトは外科医で引退を拒否、若い頃が忘れられずヒアルロン酸を注入、FACEBOOKを始める。息子のフィリップは、バスティを実家に預けて上海で大プロジェクトに挑戦中。おかげでバスティは孤独で、学業成績は芳しくなく、ヤバい薬にも手を出している。娘のゾフィは、大学で心理学を学びながら、将来を模索中。つまり、典型的な家族の危機を内包している。いっぽうディアロは、テロリストに家族を殺されたらしく、天涯孤独。このディアロが、家族の危機に割って入るくだりがミソだ。アンゲリカは、ディアロにドイツ語を教え、庭仕事を指導したりして、生活の輝きを取り戻す。更にディアロは、険悪化した夫妻の仲を取り持ち、家族の潤滑油的な役割を果たす。これじゃあ、まるでアベコベじゃないか!
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 そのほか、アンゲリカの元同僚教師で、難民センターでボランティアをしている素っ頓狂な女性や、リヒャルトの病院で働くインターンで、難民センターでディアロと友人になり、のちゾフィと結ばれる男も登場。また、極右デモや反ナチ派がハートマン家に駆け付けたりして大騒動に発展。そこには、テロが頻発する世界に対する不信感も垣間見られ、寛容と不寛容が同居するドイツの現状も窺うことができる。劇中、こんなエピソードが出てくる。リヒャルトがお気に入りの革ジャンを探していたところ、妻のアンゲリカが難民施設に寄付したと知って機嫌をそこねる。「些細でばかばかしいシチュエーションだが、こういったことは私の家庭でも起きうること」とバーホーベン監督は言う。つまり難民をめぐって、些細な日常の蹉跌が笑いを巻き起こす。それが市民の戸惑いを普遍化する、という具合なのです。
                    ※
 バーホーベン監督は、はじめ家族の物語を作ろうとしたという。だが、何かが足りないと感じて、難民を絡めるアイディアが浮かんだとか。彼は語る―「外国人を登場させることで、家族のキャラクターや家族間の衝突がより浮き彫りにされると思った。また、異文化の衝突を通して、豊かな喜劇が生まれると思った。生死にかかわる問題に直面したアフリカ人が、裕福なドイツの家庭に来たらどうなるのだろうか?」と。裏返せば、それだけ難民の存在は身近であるということです。ところで、騒動の引き金となる知的な老女アンゲリカを演じるセンタ・バーガーの姿が懐かしい。オーストリア生まれで、ドイツ映画出演を経てハリウッドへ。サム・ペキンパー監督「ダンディー少佐」(1965)や「戦争のはらわた」(1975)に出演、清楚なグラマーぶりで注目された。映画会社に在職時代、前者の宣伝を担当したことを覚えています。それが、夫と映画プロデュース業を始め、映画祭の審査委員長や、ドイツ映画協会の初代議長も務めるようになった。本当に、映画業が好きなんですね。(★★★★)

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2017年公開・外国映画ベスト・テン

2018-01-07 17:12:43 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

新年、おめでとうございます。
恒例の2017年公開・外国映画ベスト・テンを選んでみました。
詳細は、以下の通りです。
                    ※
①「残像」
(監督:アンジェイ・ワイダ/ポーランド)
②「ローサは密告された」
(監督:ブリランテ・メンドーサ/フィリピン)
③「太陽の下で―真実の北朝鮮―」
(監督:ヴィタリー・マンスキー/チェコ・ロシア・ドイツ・ラトビア・北朝鮮)
④「はじまりへの旅」
(監督:マット・ロス/アメリカ)
⑤「笑う故郷」
(監督:ガストン・ドゥプラット&マリアノ・コーン/アルゼンチン・スペイン)
⑥「わたしは、幸福(フェリシテ)」
(監督:アラン・ゴミス/フランス・セネガル・ベルギー・ドイツ・レバノン)
⑦「ネルーダ 大いなる愛の逃亡者」
(監督:パブロ・ラライン/チリ・アルゼンチン・フランス・スペイン)
⑧「海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~」
(監督:ジャンフランコ・ロージ/イタリア・フランス)
⑨「ノー・エスケープ 自由への国境」
(監督:ホナス・キュアロン/メキシコ・フランス)
⑩「草原に黄色い花を見つける」
(監督:ヴィクター・ヴー/ベトナム)
                    ※
 昨年は、さまざまな国の力作に出会うことができました。1位の「残像」は、ポーランドの名匠アンジェイ・ワイダ監督の遺作。第2次世界大戦後、ソヴィエト連邦の影響下に置かれたポーランドを舞台に、前衛画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの受難の生涯をとらえた秀作でした。スターリンによる全体主義のもと、芸術を政治に利用しようとする政府に抗して、名声も尊厳も踏みにじられていく画家の苦闘を主題にした作品。映画の冒頭部分で、ストゥシェミンスキがアパートの自宅のアトリエで、松葉杖で片足のない身を支えながら絵を描こうとする。すると、キャンバスが一瞬にして真っ赤に染まる。スターリンの肖像が描かれた巨大な垂れ幕が、建物の窓を覆いつくしてしまうシーンだ。当時のポーランドの状勢と、主人公の置かれた苦境をみごとに視覚化した映像だ。1957年の傑作「灰とダイヤモンド」以来、90歳で亡くなるまで己の主張を貫いたワイダの作家精神に頭が下がります。
                    ※
 2位の「ローサは密告された」はフィリピン作品。ロドリゴ・ドゥテルテ大統領の酷政のもと、スラムに住む肝っ玉母さんローサが麻薬売買で捕まりながらも、腐敗した警察に立ち向かう。庶民から金を搾り取ることきり能の無い警官たちに見逃し料を払うため、街中を駆け回るローサと子供たち。現在のフィリピン映画をリードするメンドーサ監督は、スラム街の生活と人情を活写しながら、やり場のない怒りと絶望感を冷徹にとらえます。ラスト、一時的に釈放されたローサが、屋台で買った串にさしたキキアム(魚のすり身を揚げたもの)を食べながら涙をこぼすシーンに胸を揺さぶられました。抑圧されたヒロインが、貧困や権力に立ち向うという同様のテーマを持つのが、セネガル系フランス人のアラン・ゴミス監督「わたしは、幸福(フェリシテ)」です。コンゴ民主共和国の首都キンシャサで歌手として暮らすヒロイン。あるとき、女手ひとつで育てているひとり息子が事故にあうが、代金を前払いしないと手術できないと病院にいわれる。そこで、金策に駆け回る彼女に悲劇が襲いかかる。庶民の生活に容赦しない体制側、それはいまの世界に共通した主題だと思います。
                    ※
 人種差別主義者ドナルド・トランプが登場して以来、移民・難民の問題に迫る作品も目立ちます。メキシコのホナス・キュアロン監督「ノー・エスケープ 自由への国境」は、メキシコとアメリカ間の移民問題に焦点を当てた作品。メキシコからアメリカへの不法入国を試みる主人公と移民たち。突然、彼らに銃撃を加える襲撃者が登場する。砂漠の有刺鉄線を越えようとする移民を阻止するため、非情にも彼らを狙撃する男。その姿は、“アメリカ=メキシコ間の国境に壁を作る”と宣言したトランプの姿にダブります。対照的にジャンフランコ・ロージ監督「海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~」は、命がけで地中海を渡り、イタリアのランペドゥーサ島を目指す難民の苦難に迫ったドキュメンタリー。監督は島に移住、難民たちの苦難と、彼らを丹念に救おうとするイタリア側の努力をカメラに収めた。映画はひとりの少年の目を通して現実をとらえ、新しい形のドキュメントになっている。
                    ※
 意表を衝くテーマを提示する南米作品も面白かった。とりわけユニークだったのは、アルゼンチンの監督コンビ、ガストン・ドゥプラットとマリアノ・コーンの「笑う故郷」。故郷を捨てたノーベル賞受賞作家が、40年ぶりに帰郷したことから起こる騒動を、ブラック・ユーモアをこめて描き出す。悠々と帰郷して歓迎の洗礼を浴びる主人公。だが、次第に故郷の人々の批判を浴びて糾弾される。故郷の醜い面を小説に書き、ヨーロッパで金持ちになった男。得意満面の彼が、偽善の仮面を暴かれていくくだりが愉快だ。背後に、芸術とは何か、文化とは何かというシリアスな問いかけがある。チリのパブロ・ラライン監督「ネルーダ 大いなる愛の逃亡者」は、革命家でノーベル文学賞詩人パブロ・ネルーダの内面の多重性を寓話として描く。共産主義の政治家でもあるネルーダと、大統領令で彼をつけ狙う警察官。彼らの交錯が、抒情的かつコミカルにとらえられる点がみどころだ。以上2作ともに、シリアスなテーマを幻想的、抽象的に映像化しているところは、いかにもラテン・アメリカ風だ。
                    ※
 へぇ~、アメリカでもこんな映画が作れるんだ!と驚いたのが、マット・ロス監督「はじまりへの旅」。現代社会に背を向けて、アメリカ北西部の山奥にこもり、自給自足のサバイバルライフを実践する父親と6人の子供。鍛え抜かれた身体能力でロッククライミング、狩猟、マーシャルアーツに励み、古典文学や哲学書を読みふけり、誰もが6か国語を操る。冒頭、子供たちが森で食用の鹿を仕留めるシーンが衝撃的だ。一家の口癖は「市民(人民)に力を! 権力にノーを!」。そんな彼らが、母親の死の知らせを受け、バスで彼女の故郷ニューメキシコへ向かう。ミッションは、仏教徒のママを教会から救出し、遺言通り火葬にすること。はじめて下界に下りた子供たちの反応が痛快だ。ダイナーに入ると、ホットドッグやハンバーガーに目を輝かせるが、コーラを毒液と見なす父は何も注文せずに店を出て、スーパーで万引き作戦を実施。そんなアナクロな行為を繰り返したあげく、ド派手な衣装で葬儀進行中の教会に乱入する。要は、原始的生活を応とする一家と文明社会との対決を描いた作品で、見ていて大笑い。こんな度肝を抜くような作品は、インディーズ映画ならではだ。
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 なにはともあれ、昨年は意想外のテーマと、斬新な映像に溢れた作品を選んで見るように心がけました。不意に頭をガツンと叩かれるような衝撃的な作品。いままでの映画の概念に挑むような力作。幸いにも、そんな映画に出会えた年だったと思います。今年も、甘ったるい映像を見慣れた己の精神を変革してくれるような、数多くのガツン・ムービーに出会えますように!…。

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