アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

時は老いをいそぐ

2013-01-27 23:09:15 | 
『時は老いをいそぐ』 アントニオ・タブッキ   ☆☆☆☆☆

 日本語に翻訳されている中では最新の、アントニオ・タブッキ短篇集。本書の刊行は昨年の2月で、私がアントニオ・タブッキの訃報に接したのは3月だった。そうやってタブッキの訃報とともに私のもとへやってきたために、私は正直、しばらくの間この本を心から愉しむことができなかった。その後何度か読み返してその素晴らしさは心に沁みこんできたけれども、その一方で、この作家を喪ったことの哀しみもまた大きくなった。だから私にとってこの書物は何より哀惜や悼みという言葉に結びついていて、またこの短篇集も、今となってはそうした言葉に完全にふさわしいトーンで語り、こだまを返すように思われる。

 タブッキはいつも死について書いたし、その作品のたたずまいはいつも静謐だったが、この作品集では老いや衰退、ヨーロッパの黄昏、それと同時に過去への追想や郷愁が、ひときわ親しみをこめて語られている気がする。かつてのタブッキ作品が持っていたバロック風味、幻想風味は薄れ、かすかな痕跡が見られる程度となっている。ここでのタブッキの関心はおそらく、人間の日々の生活の中にある。記憶や忘却、夢、空想、夢想、そうしたものが渾然一体となって人間の人生、そして日常生活を形作っているのだとすれば、そのメカニズムの中にある神秘とポエジーを彼は掬い取ろうとしている。

 私はこの短篇集のキーワードとして、まず「記憶」をあげたい。もちろん記憶と時間は表裏一体の関係にあり、タイトルにある通り「時間」がもう一つのキーワードだ。記憶は、かつて起きた事実の(人間の心の中にある)記録のように思われがちだが、実際は時間とともに変化し、揺らぎ、夢に似た何かに近づいていくことになる(逆もまた真なりで、夢もまた事実の記憶へと近づいていく)。記憶とははかないものであり、人生が記憶としてしか残らないものだとすれば、人生もまたはかない。この作品集を貫いているのはこのようなトーンである。

 一方、訳者はあとがきで本書のキーワードを「郷愁」と捉えている。郷愁、すなわちノスタルジー。ノスタルジーという言葉は最近「昭和ノスタルジー」みたいな使い方をされることが多く、「センチメンタリズム」と同じような、真に芸術的とは言いがたい通俗的なアピールの手段と思われがちであるように思う。私はこれに違和感があり、「昭和ノスタルジー」みたいなものはいわば通俗化された、括弧付きの「ノスタルジー」であり、本来のノスタルジーとは芸術にとって非常に重要かつ本質的な何かだという気がしている。ミラン・クンデラは『無知』の中で、郷愁とは自分がそこにいないために苦しむ、という意味であると書いている。何かの不在によってもたらされる苦悩、それがノスタルジーである。従ってチェコ語で「私はあなたに郷愁を感じる」という言い方は、もっとも深い愛情の表現だという。

 また澁澤龍彦は『記憶の遠近法』の中で「もしかしたら、ノスタルジアこそ、あらゆる芸術の源泉なのである。もしかしたら、あらゆる芸術が過去を向いているのである」と書いている。彼の晩年の小説作品はすべてノスタルジーの追求と言っても過言ではない。その他カフカ、シュルツ、マルケス、デュラス、モラヴィア、タブッキなどの諸作品を読むにつれ、ノスタルジーが芸術の本質的な何かだという確信は強まるばかりだ。

 ちょっと話が逸れたが、要するに訳者は本書のキーワードを「郷愁」と書いているが、多分それは正しく、本書の大部分は回想、ないし過去の仄めかしによって成立している。しかし過去は決して美しいばかりではない。むしろ本書が扱う過去は痛ましいものばかりだ。つまり、痛ましい過去もまたノスタルジーの対象になりうるのである。なぜだろうか? 人は痛ましい過去にでも戻りたいと願うからだろうか? 多分そうではない。人間は過去の集積であるにもかかわらず、過去は常に失われてゆく。従って、過去から未来へと移動する以外にない人間にとって、ノスタルジーは根源的な苦悩となる。生まれた瞬間から死に向かって進む人間にとって、老いは宿命である。死への恐怖や老いの哀しみの裏返し、陰画が、ノスタルジーというものではないだろうか。

 記憶、時間、郷愁、老い、そして死というものについての物語集である本書は、タブッキの独特の小説作法をきわめて洗練された形で見せてくれるショーケースのようだ。ここにある作品には、小説の常套というものが通用しない。すべては断続的、断片的、暗示的であり、ふいに消え、あるいは不可解な繋がり方をする。これらの物語を読むと、タブッキはまずいくつかの別々の物語を想像した後、それらを断片化、象徴化し、まったく別の情景の中で、暗示や仄めかしというデリケートな手段で結びつけ、化学反応を起こすことで小説を書いている、という印象を受ける。

 冒頭の「円」は、本書の中でも特に掴みどころのない一篇だろう。親戚達の集いの情景と、その中にいて孤独を感じている女性、そして彼女の脳裏に広がる馬の群れのイメージ。これらの結びつきが不思議である。「ポタ、ポト、ポッタン、ポットン」では、病院にいる作家とその母が描かれるが、結びの一文がなんとも素晴らしい。「亡者を食卓に」も見事な短編で、ある男が秘密警察の仕事で尾行していた相手の墓を訪れ、その中で妻の裏切りを回想する。彼は自分の人生を肯定しようと努力しているが、おそらく、その試みは必ずしもうまくいっていない。「将軍たちの再会」では、運命に翻弄された過去の回想、そして敵同士であるはずの二人が再会することの、不思議な至福が描かれる。

 「フェスティヴァル」はかつてのタブッキを思わせるアイデアで、記憶の中だけに存在するフィルムの物語、不在が実在よりも力を持つというマジカルな逆説の物語である。また「雲」もタブッキ十八番の会話形式の作品で、コソボ紛争の平和維持軍で劣化ウランを浴びたイタリア人兵士と女の子が、海辺で、雲占いについて会話する情景を書いたもの。最後の「いきちがい」もまた叙情性、メタフィクショナル性、社会性が分かちがたくまじりあったタブッキらしい、そして謎が多い短篇で、断片的であり、未完のような印象を与えるにもかかわらず詩的には完全に完結しているという、タブッキ錬金術の見本である。クレタ島へのフライトで20世紀の重大な瞬間を眺め、広島の原爆やアブグレイヴ刑務所に思いを馳せた主人公は、やがて幻想的な修道院に辿りつく。そしてストーリーは『インド夜想曲』のように、作家の物語構想と現実(記憶)が渾然となったところで、虚空に吸い込まれていくように終わる。

 こうしてざっと書くだけでも明らかなように、すべてが独創的で、不思議で、にもかかわらず詩的である。アントニオ・タブッキという稀有な作家が残した、もう一冊の短編集。この書物の価値について、それ以上の言葉は不要だろう。
 


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2 コメント

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追悼 (reclam)
2013-02-03 19:57:53
ego_danceさんの書評(ノスタルジーがあらゆる芸術の本質的な何かであるとの意見には驚きました)を見て、良い機会だと思い再読してみました。
この短編集はタブッキの暗示・仄めかしという技術が、時間と老いというテーマと見事に合わさった作品であると思います。それにしても、物語の意味が曖昧なのに、ある一場面でイメージをはっきりと浮かび上がらせるというのはタブッキ独自の達人技となっていますね。個人的には「風に恋して」の娘の歌のイメージが印象に残りました。
これほどの作家が亡くなった事は本当に残念に思います。この作家の価値を知る人が増えて、絶版書籍が少なくなり邦訳作品が増える事を心から願います。
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ノスタルジー (ego_dance)
2013-02-04 01:48:43
ノスタルジーという言葉はよく、「それは単なるノスタルジーだ」のように否定的な意味で使われますし、そういう意味での、「あー昔あったね、なつかしいね」という通俗的な「ノスタルジー」も確かにあります。でもそれはタブッキやマルケスの文学が、インドやイタリアやコロンビアに行ったこともない日本人の読者に、強烈なめまいにも似たノスタルジーを感じさせることを説明できないように思います。こういう根源的なノスタルジーというものは、芸術にとって非常に重要な何かだという気がします。それはもしかするとユングが言う集合的無意識に近いものかも知れません。

タブッキという作家は他に似た作家がほとんどいない、きわめてユニークな作家だったということと、個人的にはそのユニークさが文学の最良の可能性の顕れだったように思える作家だったので、その死が残念でなりません。彼がこれから書いたかも知れない小説のことを考えると、世界が失ったものの大きさに呆然としてしまいます。

が、彼にはまだ邦訳されていない作品がいくつもあるので、まずはそれを全部日本語に訳してほしいですね。翻訳者の方々の努力に期待します。

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