旅のウンチク

旅行会社の人間が描く、旅するうえでの役に立つ知識や役に立たない知識など。

当たり前からの脱出

2007年05月16日 | 宗教
私が高校生の頃に仏教思想に触れて、"これは知ってた方が特だ"と考えた時に自分なりに考えた事があります。これには自分の周囲(身内)の中に多数存在する、俗に言う"ナマグサボウズ"達が大いに影響しているものなのですが、この思想に、おそらく後付けで誰かが利己的な理由で付加した思想がかなり混じっているのではないかという疑惑でした。

そこで考えたのは、思想の中の一番シンプルな部分を抽出するという手段でした。その根拠としては、ある時代、しかもインターネットも電話も無い時代に世の中に広まったという事は、本質的には、それほど難解な考え方ではないはずだという事でした。もちろん実践する事は難しいかもしれませんが、パッと聞いて、多くの人がナルホドと思わなければそれほど広まるはずが無いと考えたわけです。

そこで行きついたのは前にも挙げた"あたり前な事は世の中に何一つ存在しないという事を理解する"という事が思想の核なのではないかと思ったのです。そして、これは今でも私の考えの中心ですが、もし違っていたら、それはそれで、私のオリジナル思想として、これから偉大な思想家になれるかもしれないので嬉しいとも言えます。

今、目の前に起こる事が当然であったり、あたりまえではなく、奇跡的な事だと理解すれば一つ一つに興味や感動を感じられるし、時には感謝もできる。そして何より自分の存在自体も当たり前ではないのだから、日々をもっと懸命に生きるべきだと考えてはいかがかという事です。逆にあたり前という考えが無駄に自分を苦しめる場合がある事は仏陀のくれた自由に少し触れました。

では当たり前であるという発想はどういう所から出てくるのかという事です。

人は皆、自分の過去の体験や受けて来た教育などで蓄積されてきた"あたり前"を持っています。そして、そのあたり前を基に自分の周囲の事象を判断しようとします。自分の中にある当たり前で判断できない事象が発生すると、それを判断しようとして本を読んだり、インターネットを見て情報を求めます。そうやって他人のあたり前を自分の中に組み込んでいこうともします。

そこまでは誰でもやっている事ですし、これが文化というものであるとも言えます。また、キリスト教やイスラム教はむしろこの"当たり前"を信者全員が共有する事で人との接点において"あたり前"のズレによる誤解や争いが発生する事を防ぐ機能を有しているのだと思います。

ただ、特にインターネット社会になってから、必死で"あたりまえ"を掻き集めて徒に自分を苦しめているのではないかと思う時があります。自分が掻き集めた"あたりまえ"に必死で当て嵌ろうと苦悩している姿を目にする事が多々あるのです。

だから時には"あたりまえ"の枠を取り払ってみる事が大切だと思うのです。

旅はあなたの"あたりまえ"を根底からブチ壊してくれます。だから、"あたりまえ"に煮詰ったら、旅行でリラックスするなどという"あたりまえ"な事を考えるよりも本当の"旅"に出ようではありませんか。


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