旅のウンチク

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仏陀のくれた自由

2007年04月16日 | 宗教
私にとって最初に衝撃を受けた仏教思想は説話の最初の方にある"四門出遊"という話でありました。興味がある方は四門出遊を検索してみてください。

大乗仏教が主流を占める日本ではこの説話の解説は、館の門から外の世界に触れたゴータマシッダルタ(仏陀)が世界の不幸を目にして、それを救う事に命を捧げる事を誓ったという説明が主流となっていますが、私が感じた内容は少し違います。これはおそらく高校の時に聞いた天台密教的な解釈だと思うのですが、もしかすると私がご都合主義で勝手に解釈したのかもしれませんし、母親に語られたのかもしれません。

私が感じた内容はこの事の物語っている"真理"というのは"あたりまえという事は存在しない。あたりまえと思っているだけである"という事でありました。

たとえば、小学生の時、親から小遣いをもらったりします。その額が他の子供よりも少なかったりすると、"どうして自分の小遣いは友達より少ないのだろう"と不満を感じて人は不幸を感じます。

ところが、それは親が小遣いをくれる事を"あたりまえ"と認識しているから発生する不幸であって、実際には親以外の人間に小遣いを要求してみてもほとんど貰えない事から考えれば、小遣いが貰える事が奇跡的な出来事であって、貰った事に対して不満を感じる感情は消え、"感謝"の気持が生まれて幸福な気持となれるとは思いませんか。

私は"四門出遊"はそういった、"あたりまえ"の固定観念から自らを開放して前向きで自由な発想を手に入れる事を提案していると感じたのです。

仏教の宗派によっては様々な荒行を修行の一つとして行う事がある事はご存知の方も多いでしょう。天台宗では"千日回峰行"がよく知られていますが、こういった行はこのあたりまえからの開放を目指したものだと思います。いや、あたりまえのレベルを高めるための体験を求めての行であると言えばよいのでしょうか。

たとえば、1日に3食を食べる事があたりまえの生活をしている場合、数日間の断食を行えば今までの"あたりまえ"から開放された、新しい視野を自分は手に入れる事ができるでしょう。""あたりまえ"からの開放には自らの体験の幅を広げるという手法がいちばん効くのです。

そんな事を考えさせられた事は、私がその後、様々な国を旅する動機の一つとなっていたかもしれませんし、旅している間は確かにこの事を常に意識していたのでした。

いつのまにか歳をとったもので、私も自分より若い人と話す事が増えました。"近頃の若い者は"という人並の話をしてみると、"あたりまえ"な事ばかりをもっともらしく話す、"若さを感じない"若者が増えたものだと思い、ガッカリさせられる事も多々あるのが正直なところですね。

たとえば、ご立派な説を唱えていても"自分も食べていかなければならないから"とか、"資本主義社会だから"とか、正直、そういう話はつまらないんですね。なぜならば、自分の周囲にある"あたりまえ"を全面的に認めた上で、その枠内でどうしていこうかという事に必死になってるだけで、枠を換えようとか枠を広げようとかそういう若さを感じないのですよ。

もっと様々な体験を積んで"あたりまえ"の枠を取り払って自由な発想へ旅立とうではありませんか!!!!!!!


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