総タイトル:【比較の対象・「基準」・「規準」・「規範」にするものが重要で、不完全である人や世間、社会、空気、マスコミと比較する事は間違い・・・「くらべない幸せ ~『誰か』に振り回されない生き方~」を読んで】
「くらべない幸せ ~『誰か』に振り回されない生き方~」(著者:香山リカ氏、出版日:2010/2/5、出版社:大和書房)
本書を読みました。因みに、本書に聖書や神の事については書かれていません。
聖書の「規範」に照らし合わして(比較して)点検・確認する事が大事で、
人や世間、社会、空気、マスコミと比較する事は間違いです。
比較の対象・「基準」・「規準」にするものが重要で、不完全である人を基準にする事は間違いで、完全な神・「聖書」の指針を基準にする事が正しいのです。
世間、空気、雰囲気、流行、傾向等を基準にする事は間違いです。
評価や認定は、その規準・基準にするものが何であるかによって異なってくる訳であり、規準・基準にするものが間違っていれば自ずと評価や認定も間違いとなります。
唯一・絶対の神に従う事が正しく、人に従う事は間違いです。
人に従うのは「奴隷」であり、
神に従う事は「神が主」です。
人が未熟な精神状態から成熟な状態への発達過程として、初めは「他信」であり、それは、他人を信じ、「他人本位」であり、他人の奴隷、他人を基準にします。
次の段階として「自信」へと発達し、それは、自分を信じ、「自己本位」であり、「自己実現」を自分で行ない、自分を基準にします。
しかし、同時に自分の欲望の奴隷となってしまいます。
そして
最も発達して成熟した状態が、「神信」です。それは、
神を信じ、「神本位」であり、「神実現」を神の意のままに行なってもらえる様に神に委ねて祈り、神を基準にします。
本当の自分が得られ、神に委ねて拘りや欲望からの解放が得られます。「運命」に委ねる事です。そして、
元々この世に生まれて来た時の「純粋無垢」な心の状態に「戻る」事です。
自分を誇る事は間違いで、神を誇る(信仰を誇る)事が正しいのです。
社会性を身に付けていく毎に、理想郷では無い社会や世間の汚れが付着して心の純度が鈍ってしまい、心の内に存在する「聖霊」が見えなくなってしまいます。
社会・世間に溢れる偽善、矛盾、欲望、欺瞞……。これが本書で言う
「心理的妨害」です。
例え此の世に在って孤独であっても、
「聖霊」が心に宿る、神と共に居る事が「幸せ」です。
「不安」に感じるのは、信仰の無い心に聖霊が存在しない事、そしてそれが後述の
「心の不安定さ」に繋がります。
「“もの足りなさ”を埋めてくれる何かを求めてさまよっている」と在りますが、
世の与える様々なものは欲望の対象となるものばかりですが、直ぐ渇いてしまうので直ぐに次にまた欲しくなり、幾ら取っても満足出来ずに限が(きりが)有りません。しかし神から与えられるものは渇く事が無く、足るを知り、満足出来ます。神への信仰心によって、「欲望の奴隷」からの解放が得られて心が自由になります。世に在るビジネスや商売の殆どは、その欲望によって成立しています。
神の思い(神の御計画)と人間の思い(欲望・目標)とは異なります。「絶望」とは、自分の欲望から起こるもので、元々神の立てている計画は別の方向・場所に存在しているのです。故に、
神に委ねて「神の御心」のままに行うならば、絶望とは無縁となります。
自分の欲望や目標にしがみつかずに諦め(あきらめ)、神に依存する事が必要です。
「『何のために生まれてきたの』『私の人生、何の価値があるんだろう』」と在りますが、
人間は創造主の為にこの世に生まれ、人の生命は創造主の持ち物であり、生命は神の領域であります。そして、
神によって全ての人の尊さが認められています。「神は普遍」であり、全ての人・ものに共通して存在します。
「万人向けの究極の処方箋」とは「聖書」です。
社会・世間から距離を置き、「信仰心」を基に「沈思黙考」・「祈り」・「悔い改め」をして心が解放されてリラックスすると同時に、自分が「純化」され、社会・世間から付着した汚れや自分の罪が落とされます。また、悟り・沈着・泰然不動・心の安定が得られます。逆に世間の中にどっぷりと浸って欲望に身を委ねる事は、浮動・遊動・流動・心の不安定を招き、それは神からはぐれた人間の心の不安定さを表します。例え金・地位・職等の「社会的安定」が得られなくとも、不遇な扱いを受けても、「信仰心」は「心の安定」をもたらします。
「マイペース」と「世間のペース」との違い、「自分の価値観」と「世間の価値観」との違い。
笑顔や行為、空虚な言葉は表面的なもので偽善であります。
「あるべきものがない不確かな存在」と在りますが、
本来、人は創造主によって造られたにも関わらずに人其々に「あるべきもの」である神からはぐれてしまい、世間や社会、空気、マスコミ等の「不確かな存在」に依存し頼っている為に人其々が「不確かな存在」になってしまっています。景気や流行、風評、世論等は時間の経過によって移り変わりますが、「真実・神は不変」です。人間や人の作り出すものは不完全である為に、「不確かな存在」です。不確かな人間に頼る事で、裏切られます。この場合の「不確か」とは、前述の「不安定さ」と同様に、
社会的な事では無く「心」においての事であります。
旧約聖書・箴言29章25節「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」。
神への信仰から来る「単純さ」と「能天気さ」(楽天さ)は、神への単純な信頼で、この世に生まれた時と同様の「純粋無垢」な自分であり、それが本来の自分、本当の自分です。
自分を認めるとは自分の失敗や短所を認める事、他人を認めるとは他人の失敗や短所を認める寛容さが必要となります。
最後に、世間一般の人達は自分の「証」として、学歴や経歴、資格、勤務先会社の名前(ブランド)等を持って行っています。実際、この社会においては就職において履歴書は必須となっています。
しかし、「信仰心」の有る自分自身の「証し」は、主イエスが行ってくれます。例え世間に誤解されようとも、神は常に見守っていて下さっています。これが、本当の「自分の証し」です。
キリストを「証し」し、キリストの「証し人」となる為に、「悔い改め」をして、キリストを受け入れて自分の心が変えられ救われた事を「証し」します。また、イエス・キリストが主であると言う自分の告白、言葉、行い、生き方、判断、捉え方等において「証し」します。しかし、人間は不完全である為に、イエス・キリストを完全に「証し」する事が出来ません。却って世間の知らない人達に誤解を与えかねません。
新約聖書・ヨハネの福音書5章31~39節に書かれている「完全なるキリストの証し」として、父なる神による「証し」、イエス・キリスト自身による「証し」、そして旧約聖書による「証し」が在ります。