同人戦記φ(・_・ 桜美林大学漫画ゲーム研究会

パソコンノベルゲーム、マンガを創作する同人サークル

名前が欲しい 【律氏】

2010年04月23日 | 短編小説
 名前が欲しい。小さな灯火を揺らめかせて彼女が呟いた。
「ゆかり」
「良い名前ね。もう一度呼んで」
 消毒液のしない病棟。小さなベッドルームを隔離する真っ白なカーテンは、もうすぐ黒の縞が現れる。恐ろしい現実。僕は茫然と立ち尽くした。
「ねぇ」
 という彼女の声ではっと我に返る。ずっと立っていたかのように足が疲れている。不意の焦燥感に背をべっとりと湿らせながら、顔には笑顔を張り付けた。
「ゆかり」
 もうこの名を呼ぶことはないだろう。悲しみより先に後悔が押し寄せた。
「ゆかり」
 彼女は不思議な顔をする。僕の頬に流れる涙を見たのだ。でも彼女には内緒だから顔はねっとりとした笑顔で、唇の先を不気味に緩ませている。
「ゆかり」
 喉の水分が一気に蒸発し、からからに乾いた舌の奥に言葉が詰まる。今まで言いたかったことや、言えなかったことが。
「ゆかり」
 なんで僕を置いて先に逝ってしまうんだい。
 なんで今までの思い出を全て忘れてしまったんだい。
 なんでそんな若い身空で死ななければいけないんだい。
「ゆかり」
 来年の春はどこに行こうか。どこへでもいい。京都の桜を見に行こうか。ノルウェーの山や海を臨もうか。夏はどこがいい? ハワイに行きたがっていただろ。秋は家でゆっくり過ごそう。そうしよう。冬は僕の田舎へ案内するよ。岩手の雪は重いぞ。花巻の方に行けば君の大好きな宮沢賢治の故郷だ。遠野は河童で有名でね。盛岡にはおいしい冷麺がある。
「ゆかり」
 結局、それしか出てこない。
「ゆかり」
 もうやめてくれ。誰か僕の口を塞いでくれ。息のできないように頑丈に塞いでくれ。
「ゆかり」
 死なないでくれ。

 そして、ゆかりは灰になった。喪服に包まれた僕は葬式の黒と白の幕に青ざめた。数日前まで、病室で平気そうにしていたゆかりの姿がありと目蓋の裏に浮かんだのだ。
 もう僕は彼女の名前を呼ぶことすらできなかった。口にしたら二度と呼べなくなってしまいそうで。僕の中にわずかに残る彼女の匂いを吐き出してしまいそうで。
 ご焼香の順番が回ってきた。僕が近付いてきたのを知ると、まだ自分が死んだことを知らない彼女は、遺影の中で人懐っこく名前を欲しがった。

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 長編の小説を書いていたり、シナリオを書いていたりすると、息が詰まる時があります。
 そんな時には掌編や短編の小説を書いて気分転換。何も考えずに書くので、落書きのようなものです。あまりに起承転結が無かったりするので自由詩になったりするのかな。

 新入生がたくさん見学に来てくれているようで、嬉しい限りです。女子も中々多いみたいなので男子諸兄は肩身が狭くなるかもしれませんね。

 

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1 コメント

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息抜きでこれほどの (アサヒ)
2010-06-02 23:05:41
文章はイラストより時間の経過が早いような気がします。

息抜きでストーリーやレポートを書いていたらいつの間に夜が明けていることもorz

クリエイターにとって速さは重要ですね^^
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