HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

第50回真の神の日における文顕進会長のみ言

2017-02-08 20:44:01 | 文顕進会長

韓国パイオニアカフェに投稿された、第50回真の神の日に語られた文顕進会長のみ言です。

神様と天地人真の父母様への深い心情と神様のみ旨成就に対する篤い思いを感じましたのでことらに投稿させていただきます。

 

摂理の中心は神様です。/ 50回 真の神の日 顯進様のみ言葉 (1)

 

真の神の日は最も重要な名節

今日は真の神の日です。真の神の日は事実上、祝福家庭にとって最も重要な祝日でなければなりません。統一家が、特に、真のお父様が聖和された後、現在に至って、世界的な祝日として称賛することができないようにしたことは恥ずかしいことです。私は、祝福家庭がそれほど早く神様を忘れ、真のお父様のメシア的使命を忘れてしまったことにとても驚きました。神様は皆さんの核心的なアイデンティティです。神様がいなければ真の父母もなく、真の家庭もありません。

 

私は祝福家庭に四つの基本的な質問をしました。最初の質問は摂理の中心は誰なのかということです。第2の質問はメシアの使命は何なのかということです。第3の質問は真の父母様と真の家庭の顕現が持つ意味は何なのかということです。そして第4の質問は祝福中心家庭の責任は何なのかということです。この4つの質問の中でも最初の質問に対する皆さんの答えが間違っていると、その次の質問からのすべての答えが間違ってしまうのです。

 

摂理の中心は神様

最初の質問は摂理の中心は誰なのかということです。皆さんは摂理の中心が誰だと思いますか。(神様)真の父母様ではありませんか。神様です。アダムとエバが堕落した時、復帰摂理を始められたのは神様でした。それではメシアの使命は何ですか。メシアとは誰ですか。原理ではメシアをアダム的人物だとします。私たちはメシアの使命を最初のアダムの失敗を復帰するという観点から理解します。ですからメシアとは神様の夢を実現する神様の息子です。真のお父様はイエス様が神様のみ旨を完成することができなかったので、使命を完遂できなかったと語られたのです。何を成すことができませんでしたか。理想家庭です。

 

キリスト教の信条の影響

皆さんはこの点を明確に理解しなければならず、また、キリスト教がイエス様を理解しているのとどのように違うのかも理解しなければなりません。統一教会の指導者は、キリスト教の信条をそのまま持って来て、その枠の中でイエス様を真の父母様に置き換えてしまいました。クリスチャンの信仰とは何ですか。彼らはイエス様が贖罪の供物として人類の救いのために十字架で死ぬためにこの地に来られたと信じています。これは原理的な観点ですか。原理講論はこのようなクリスチャンの信条の誤りを指摘しています。クリスチャンの信条はイエス様の人性を否定し神格化するための努力の産物であるという事実を語っています。

 

メシア観の違い / ユダヤ人とクリスチャン

初期のクリスチャンたちは皆ユダヤ人でしたが、エルサレムの教会に根ざしたヤコブとディアスポラ(離散ユダヤ人)を基盤としたパウロの間に派閥争いがありました。ユダヤ人たちは人間を神格化することを神様に対する不敬と見なします。ユダヤ人であったイエス様が自身を神の子ではなく人の子と語ったのも、神様の摂理が人間とは全くかけ離れた違う世界の事ではなく、人間の経験に根ざしたこの世での事だからです。旧約の4千年歴史は、神様の実体的な王国を他の惑星ではなく地球に構築するための基盤です。イエス様の根がユダヤ民族であるにもかかわらず、神様が4千年の間準備されたユダヤ民族であるのに、キリスト教におけるイエス様に対する認識が歪曲され、今日のユダヤ人からするとキリスト教の信条はユダヤ人的なものとは到底認めることの出来ないものとなってしまいました。どうしてそうなってしまったのでしょうか。

 

深く追求はしませんが、皆さんにはメシアに対するユダヤ人の観点とクリスチャンの観点は非常に異なるという点を明確にしてほしいと思います。ユダヤ人の観点からすると、メシアは宗教的な権威だけでなく国家的な権威を持つダビデ王のような存在です。そのため、真のお父様による訓読会でのみ言葉を読むと、イエス様について言及されながら「神様はユダヤの宗教とユダヤの国[O1] をイエス様が立つことのできるカインとアベルの立場として準備された」と語られているのです。皆さんは、メシアの役割に関する原理的な観点がキリスト教の信条の観点に近いと思いますか、それともユダヤ人の観点に近いと思いますか。クリスチャンの信条の体系がかなり外れてしまった理由は何ですか。

 

旧約聖書を見ると、ノア、アブラハム、モーセ、そしてイエス様の誕生に至るアダムの血統的系図が基盤となっています。もちろん、新約聖書の著者たちはイエス様の死後、西暦300年から700年の間に聖書を書きました。皆さんは聖書を書いた著者の動機を理解しなければなりません。また、パウロの影響力に関しても知らなければなりません。今日はそのような話はしませんが、皆さんはメシアの使命に関するキリスト教の観点と原理的観点に根本的な違いがあることを理解しなければなりません。

 

イエス様の死後、彼らはイエス様が誰なのかということに関してさらに深い意味を付与しようとしました。天の観点ではなく堕落したこの世界の観点からすると、堕落した男女にとってイエス様のような人物を最も高く尊敬することのできる道は何ですか。それは神になることではありませんか。堕落した人類の歴史を通して、人類は神のようになることを望みませんでしたか。ユダヤ教を古代の他の文明から差別化できる点は、人間の人性の重要性を悟り、人間が神のようになってはならないことを悟っていたというのです。

 

当時の古代世界には、目に見えないものが本物であり、目に見えるのは汚く腐敗したものという考えを提供する二元論的な伝統が蔓延していました。それにもかかわらず、ユダヤ人たちは人間が神様の完璧な創造物であると見なし、神様のみ旨に服従し価値を持つ基本的な方法として神様に整列[O2] しなければならない人間の責任の重要性を強調しました。イエス様は、ユダヤ人の伝統から外れてまで神様を自身の父であるとしたにもかかわらず、自らを神の子ではなく人の子だと言及したことは興味深いとは思いませんか。イエス様が自身に付与した地位は人の子だというのです。

 

メシアに対する原理観

原理的な観点を質問します。原理的な観点から私たちは人類が汚れた存在だと、私たちの存在を恥じるべきだと思いますか。私たちは完成ということをどのように考えますか。肉身を否定し肉身世界での生活を否定しますか。完成とは主体と対象という関係の正しい統一を成すことです。私たちは、私たちの霊人体が最初から完成していたとか理想的だったとは考えず、私たちの肉身が汚れていたり捨てなければならないものであるとも考えません。私たちは霊的な面でも肉的な面でも神様の被造物であり、心と体の正しい関係を通して完成することが私たちの責任であることを認めています。

 

ですから原理講論の緒論では、復帰と再創造の目的が、神様の王国が天で成される前にこの地上で先ず建設されなければならないことを明らかにしているのではありませんか。メシアの使命と根本的に関連があるのは、私たちが生きているこの世界に変化をもたらすことであり、人間の心と体の両面を変化させることです。特に祝福家庭は、もしも今まで原理的観点から私たちの5%の責任分担がどれほど重要なのかを理解できていなかったならば、今からは理解しなければなりません。

 

キリスト教信条の批判 / 原理的観点から

キリスト教の信条の話に戻ると、キリスト教の信条はイエス様が私たちの罪ゆえに十字架で死ぬために来られ、イエス様を信じさえすれば天国に行けるとしたのです。多くのキリスト教の牧師たちは、イエス様がピラトに「私の王国はこの世のものではない」と語られたみ言葉を堅持しています。この世界は汚く、イエス様が主であり救い主となるのはあの世であると理解しているのです。しかしイエス様はユダヤ人です。皆さんはイエス様がメシアの役割をユダヤ人の観点から理解していたとは思いませんか。キリスト教の信条について続けます:イエス・キリストを信じさえすれば天国に行けます。皆さんは真のお父様がなぜ信仰基台と実体基台について語られたと思いますか。原理講論は、キリスト教の信仰の元であったキリスト教の信条の誤った体系を解体し、正そうとしました。すべての要素をテーマ別にみると、原理講論はキリスト教の信条の問題を徹底的に分析したものです。

 

復活の概念において、キリスト教では終わりの日には、死んだ者が起き上がり肉体の復活があると信じています。この信条は自然世界における経験とは一致せず、自然界に運行する法則に反しているので、キリスト教信仰と科学の間に葛藤をもたらします。しかし不思議なことに、最も著名な科学者たちは皆、素晴らしい信仰を持っていました。彼らは自身の信仰ゆえに、肉体世界を治める法則と原理を研究しなければならないと感じました。

 

二通りのキリスト論 / 上から対下から

さらには、初代キリスト教共同体でもキリスト論における二つの観点が存在しました:一つは、上からのキリスト論、または存在論的キリスト論といって、イエス様の存在性と神性に焦点を置き、もう一つは、下からのキリスト論、または救済論的キリスト論といって、イエス様の救済的使命と人性に焦点を置きました。どちらが原理的な観点を受け入れるために準備された人々でしょうか。上からのキリスト論でしょうか、下からのキリスト論でしょうか。カトリック教会はどちらに近いでしょうか。カトリック教会内の神学教育は上からのキリスト論の基盤となるギリシア哲学に端を発しました。

 

真のお父様によるキリスト教批判 vs 現統一教会の立場

キリスト教のコミュニティの中でも、キリスト教の信条が物事の道理に合わない要素を多く含んでいるため分裂が生じました。従って真のお父様は初代キリスト教にパウロが残した先例に非常に批判的でした。ところが、真のお父様が作られた統一家とお父様が教育した人たちが、真のお父様がキリスト教共同体を教育して解体しようとしたその信条を受け入れ、イエス様の位置に真の父母様を置いたことは本当にあってはならないことだとは思いませんか。

 

私が最初にUTSで勉強した時のことが思い出されます。真のお父様が行けと言われたので行きました。神学校の教授たちは、私たちがキリスト教の神学的位相に対応すべき神学を確立しなければならないという論理を持っていたように思います。多くの厳格な学界では、他の人の研究を盗作すると大きな問題になりますが、教授たちがしたことが何なのかを想像して見てください。彼らは、基本的に真のお父様がキリスト教共同体に対し、イエス様が誰であり、イエス様の使命が何なのかを正しく教育して解体しようとされた、まさにその信条を盗作したのです。

 

私は本当に驚きました。それだけではありません。そうすることによって彼らは何をしましたか。真のお父様が50年代に世界基督教統一神霊協会を創立されましたが、キリスト教信仰の核心であるキリスト教信条を盗作した人たちはイエス様の位置に真の父母様を置いたのです。真のお父様が教育してひとつの信仰として一体となれるようにされた、まさにそのキリスト教共同体においてそのようにしたので、キリスト教が真のお父様を憎むようになったのです。

 

新しい試図 / 顯進様の立場

しかし、もしも彼らがメシアに関する原理的な観点を堅持していたなら、神様の摂理における中心が誰なのかということに関する原理に忠実であったならば、クリスチャンたちもそれに対し何の問題もなかったことでしょう。彼らの多くは、この新しい解釈がイエス様に対する彼らの理解を深めてくれると感じたことでしょうし、再臨主に関する論争に陥ることなく自然に真のお父様が誰なのかを理解したことでしょう。

 

提供:家庭平和協会


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