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「あなたの敵を愛しなさい」ということを調べてみました・・・ 「真の愛」について考える

2017-01-07 13:51:41 | 真の愛

「あなたの敵を愛しなさい」ということを調べてみました・・・ 「真の愛」について考える

  

一昨日文顕進会長が2日に訓読会をされて語られた言葉を引用させてもらいました。

 文顕進会長:「人は、成熟するのなら、たとえ自分に責任がないことでも責任を感じるようになります。私がこのように感じているのに、あなたたち一世は何を語るのでしょうか?2016年のテーマは、悔い改めと贖罪でした。祝福家庭の中で、罪なき人は誰もいません 。」

 「人は、成熟するのなら、たとえ自分に責任がないことでも責任を感じるようになります。との一節が気になりました。「人が成熟する」とはどういうことなのだろうか?それは愛が成熟するということではないのか!

 

愛の成熟ということから考えてみると、昨日は「真の愛」について記事を書きました。

なぜ人間世界に争いや憎しみが絶えないのか!それをどのように人類は克服してきたのか!

「恩讐を愛する」と言ことがポイントだと思いますが、それをそのように実践、実現してきたのか!

 

イエス・キリストが「あなたの敵を愛しなさい」と教えたことを思い出しました。 

そこで「あなたの敵を愛しなさい 聖書」というキーワードgoogle検索してみました。

 

一番にヒットしたのが日本キリスト教会 南柏教会の駒井利則 牧師の説教でした。少し引用させてもらいます。

あなたの敵を愛しなさい | 日本キリスト教会 南柏教会

minami-kashiwa.sakura.ne.jp/2014/10/27/452

あなたの敵を愛しなさい

2014年10月26日(日) 南柏教会主日礼拝説教(説教:駒井利則)

聖 書:イザヤ書11章1~10節   マタイによる福音書5章43~48節

説教題:「あなたの敵を愛しなさい」

レビ記19章18節を読んでみましょう。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記1918節)

(日本聖書協会訳は「あなたは仇を返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。私は主である。」)



福音書マタイ伝543節にはこうあります。

マタイによる福音書5章44節で、「あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」



マタイ伝543節~48節 日本聖書協会の口語訳では次のように訳されています。

43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

以下駒井牧師は、旧約聖書のレビ記の一節を引用して語っています。

レビ記19章18節を読んでみましょう。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(18節)

駒井牧師は聖句をあげながら「敵を愛する」というイエスの教えの歴史的な内容をわかり易く解説してくれていました。詳しい内容はリンクページを参照してみてください。



さてネットで検索を続けると「ローマ人への手紙」にも同様の聖句がることが紹介されていました。

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」(ローマ人への手紙12.14

敵を愛する、恩讐を愛すること言うことが旧新約聖書を通して一貫した教えであることがわかります。


さらに検索を続けると、逗子教会の小宮山剛牧師が、ルカによる福音書の聖句を引用して語っています。

「~逗子教会/小宮山剛牧師~」

あなたの敵を愛しなさい ルカの福音書62736- nakaminatoch ...

nakaminatoch.jimdo.com/.../あなたの敵を愛しなさい-ルカの福音...

引用されている聖句は以下の部分です。
ルカによる福音書6章27~30 

27
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 」
マタイ伝とは多少表現が異なりますが、同じく山上の垂訓で語られた同様箇所のイエスの教えの部分です。

小宮山剛牧師はこの説教の中で、あるアメリカ人の女性がまさに聖書の福音書の教えをその如くに実践した逸話を紹介しています。自らの父母を日本軍に殺された米国人の女性が、その日本軍の兵士たちに尽くし愛したというまさにイエスが教えた「敵を愛する」という教えをそのごとく実践した一人の女性の話を引用していました。その部分を引用させていただきます。
以下小宮山牧師の記事より引用
マーガレット・コヴェル 
 先週は終戦記念日がありました。日米開戦、つまり太平洋戦争が始まったのは、1945128日の、日本によるハワイの真珠湾攻撃からです。その飛行戦隊を率いたのが真珠湾攻撃の総隊長:淵田美津雄という海軍中佐です。この人が「トラ・トラ・トラ」(われ奇襲に成功せり)を打電したことでも有名です。この人は、戦後クリスチャンとなり、キリストの伝道者となりました。その最初のきっかけとなったと思われることをご紹介します。 
 終戦後、連合国による戦犯裁判が始まりました。淵田氏はそれについて、「これは人道などの美名を使ってはいるけれど、勝者の敗者に対する一方的な合法に名を借りた復讐でしかなかった」と思いました。それで逆に淵田氏は、連合国側もいかに非人道的な行為をしたかの証拠を集めるために、戦争中に敵側の捕虜となって、戦後帰還してくる人々から取材をすることにしたのです。アメリカから送還された旧日本軍捕虜が、浦賀に設けられた収容所にいったん入れられました。淵田さんはそこに出かけて行って、捕虜になった者から、連合国側の捕虜虐待調査を始めたのです。やはり中にはずいぶんひどい扱いを受けた日本兵たちもいたのでした。 
 すると、アメリカのユタ州から帰還した兵士たちがある出来事を語りはじめたそうです。彼らは20人ばかりで、腕を落としたり足を切ったりの重傷者たちでした。そして、アメリカのユタ州のある町の捕虜病院に収容されました。そこで手当を受けながら義手義足も作ってもらったそうです。するとある日、1人の20歳前後の若きアメリカ人女性が現れ、日本人捕虜に懸命の奉仕をし出したそうです。それが、マーガレット・コヴェルという人でした。彼女は日本の捕虜たちに向かって、「皆さん、何か不自由なことがあったり、何か欲しいものがあったりしたら、私におっしやって下さい。私はなんでもかなえて上げたいと思っています」と言ったそうです。 
 捕虜たちは、最初、何かの売名行為かと思っていた。ところがこのお嬢さんのすることが、純粋な奉仕でした。手足の不自由な捕虜たちに親もおよばぬ看護ぶりだったそうです。なにか捕虜たちの身辺に不足しているものを見つけたら、翌朝は買い整えて来るというサービスぶりであったそうです。そうして二週間、三週間と続いていくうちに、捕虜たちは心うたれて来たそうです。それで、「お嬢さん、どういうわけで、こんなに私たちを親切にして下さるのですか?」と聞いたそうです。 
 彼女はしばらく黙っていたそうですが、やがて彼女は言いました。「私の両親があなたがたの日本軍隊によって殺されたからです。」 衝撃の事実でした。彼女マーガレット・コヴェルの両親はキリスト教の宣教師であり、日本の関東学院のチャプレンだったそうです。そして日米開戦前、引き揚げ勧告によってフィリピンのマニラに移ったそうです。しかし日本軍のマニラ占領によって、ルソン島の山中に隠れました。 
 やがてアメリカ軍の反転攻勢が始まり、昭和201月、アメリカ軍はマニラに上陸し、そこを占領しました。それで日本軍はルソン島山中に追い込まれることとなりました。そこでゴヴェル宣教師夫妻の隠れ家が見つかった。日本兵は、コヴェル宣教師夫妻にスパイの嫌疑をかけ、日本刀で夫妻の首をはねて殺したそうです。 
 このできごとは、アメリカで留守を守ってた娘マーガレットにも伝わりました。彼女は、両親を失った悲しみと、両親を処刑した日本兵に対する怒りでいっぱいになりました。しかし、アメリカ軍の報告書には、このとき目撃していた現地人の話が記されていました。‥‥彼女の両親は両手を縛られ、目隠しをされ、日本刀を振りかざす日本兵のもとで、2人は心を合わせて熱い祈りをささげていたということでした。 
 マーガレットは、地上におけるこの最後の祈りで両親が何を祈ったかを思ってみました。すると彼女は、自分がこの両親の娘として、次分の在り方は、憎いと思う日本人に憎しみを返すことではなく、両親の志をついでキリストを伝える宣教に行くことだと思ったそうです。そして、自分の住んでいる町に日本兵の捕虜収容所の病院のあることを知りました‥‥捕らわれの身でありながら、傷つき、病んでいる。どんなにか、わびしい毎日であろう。‥‥マーガレットは、町の捕虜病院に飛んで来ました。そして事情を話したので、ソーシャルーワーカーという名義で働くことを許されました。それからというもの、心からのサービスで、捕虜たちが日本へ送還されるその日まで、約六ヶ月、病院に来るのを一日も欠かしたことがなかったというのです。 
 ‥‥この話は淵田さんの心を激しく打ちました。「やっぱり憎しみに終止符を打たねばならぬ。」ということで、淵田さんは、畳を叩いてほこりを立てているような捕虜虐待の調査を即刻止めにしたのです。 (淵田美津雄、『真珠湾攻撃総隊長の回想・淵田美津雄自叙伝』、講談社より) 
(引用終わり)
文中淵田さんが「やっぱり憎しみに終止符を打たねばならぬ。」と畳を叩いてほこりを立てているような捕虜虐待の調査を即刻止めにしたとあります。敵をも愛する真の愛によってのみ憎しみの歴史に終止符が打たれるのでしょう。先日は安倍総理大臣がハワイを訪れ「希望の同盟」を語りました。日米が和解から希望の同盟にまで進むことができたのは「和解の力」ですが、その力をもたらしたのは、「敵を愛する」という聖書の教えがあったからと言うことができるのではないでしょうか。


先に文顕進会長が年頭の訓導会で引用された2008年に真のお父様に捧げた手紙にこのようにありました。

「お父様、私に対してご心配なさらなくても結構です。どのような困難と誹謗が私の前を塞いだとしても、お父様とみ旨のための私の覚悟と行動は続くでしょう。お父様の夢とレガシーは、私達を通して世界の前にずっと広がっていくでしょう。・・・・」

 

人類史上最初の恩讐が生じた事件はカインによるアベルの殺害でした。以来人類の歴史には恨み憎しみが付きまとい、復讐や殺戮が当然のごとく繰り返されてきました。

先に紹介した「逗子教会の小宮山剛牧師」の引用したもう一か所の聖句は(旧約 創世記34章25~29)です。この部分は、ヤコブがレアに産んだ娘デナがヒビ人ハモルの子シケムが辱められ、そのことに怒ったシメオントレビが男子をことごとく殺害しハモルとシケムを殺してデナを連れ帰した話が記述されている。この後、ヤコブの一族はべテルで祭壇を築き神に祈り、その後、「あなたの名をイスラエルとしなさい。」との祝福を受けるのである。
旧約の律法はヤコブの子孫であるイスラエルに「敵を愛すること」を教えてきました。引用されたレビ記のほかにもイスラエルを教え諭す言葉が多く見受けられます。その旧約の教えを究極的に実現したのがイエスキリストであり。その教えは新約の2000年間を通して広く世界に広められて人類を教育していきました。
2000年のイスラエルの歴史は、その信仰をかけて他の神々に仕えるものとの戦いや葛藤を繰り返してきましたが、イエスの教えはその葛藤の歴史に終止符を打つ「敵を青愛する」という究極の愛の教えであり、イエスは自ら十字架に登りながら「敵を愛する」という言葉をそのごとくに実行していかれたのです。


思えば救世主、再臨主、真の父母たる文鮮明先生もその生涯は恩讐を愛することに徹して来られた生涯でした。その教えと実践の核心は「恩讐を愛する」というその極限の道であり。恩讐を愛することにおいて愛する妻や子供たちさえも犠牲にしてこられた道でした。
文顕進会長が2008年当時、謂れなき中傷や迫害を受けられたとき、真のお父様は我が息子を弁護も擁護もされませんでした。むしろその弟子たちや兄弟たちの抽象や迫害をそのまま信じ込まれたかのような言動さえ取られました。それは恩讐を愛するという究極の実践そのものでした。そのような中でその究極の姿の中に本当の真のお父様のレガシーがあると実感して、その精神を引き継いでいかれたのが文顕進会長なのではないでしょうか。
12日訓読会の最後に涙されていた会長の姿の背後に神様の復帰摂理の、恩讐を愛することに涙を流してきた多くの先人の涙がともにあることを感じます。
思えば「教権勢力」と金容成氏も規定した真のお父様の側近たち・・・彼らは真の子女様たちから悉く嫌われて来た人々でした。お父様の愛を奪っていった恩讐です。しかしそのような愛の恩讐でもある側近たちをお父様は何故排除して行かれなかったのか、その事情を知る者たちには理解できない内容でした。
「恩讐を愛する」「敵を愛する」ということこそが、神様の復帰摂理の究極的神髄であり、父子の因縁の中で真のお父様が究極的に天の父であられる神様と究極的に結ばれた世界であり、我が息子、長子としての顕進様に父子協助時代を通して受け継がせていきたい内容であったことがわかります。
そのことを顕進様も最初はよくわからなかったかもしれません。しかし、一連の試練や「逆理の法」と言われる歩みの中でその心を完全に相続していかれたのではと思います。
「今日の訓読の友の会」の 16日のページに「真の後継者 」というみ言が掲載されていました。
http://kundoku.blog-fps.com/Page/3/
 (一部引用)
破滅へと運命づけられているかのような世界をあとに残すのでなく何としても復活していく世界を残したいと願っている先生ですから、生きているうちにこの運動の基盤を完成していくために、自分の生涯においてありとあらゆる苦難、頭の痛いこと、苦々しいこと、嵐のごとき非難、迫害等良くないことのすべてを一身に受けることを決意して、「どうか我にすべての重荷を負わしめ給え」と祈っている先生です
(引用終わり)
とあります。今日統一教会、家庭連合の食口たち、祝福家庭は今何処の誰に従っているか所属しているかが問題ではなく、そのようなお父様の精神、思想、世界を見る目と愛の実践を相続しているのかどうかを問い求めてみるべきではないのでしょうか!
今日はいろいろ引用しているうちに長文になってしましました。内容も重複したり未整理の部分もありますが、とりあえずアップさせていただきます。趣旨をお汲み取りください。皆様のご意見コメントお待ちしています。問題個所がありましたら順次修正させていただきます。(HOPE)
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いま私たちに必要なもの 「真の愛」・・・・・どうすればみんなを幸せにすることができるのか!それだけを考えてみました。

2017-01-06 18:14:55 | 真の愛

どうすればみんなを幸せにすることができるのか!それだけを考えてみました。

 

みんなが平和を実感し、みんなが幸福を実感できる世の中を実現していくにはどのようにすれば実現できるのでしょうか?

 

幸せな世界には、分裂や抗争、非難や中傷、ましてや武力や暴力的手段で敵対するなどということは考えられません。人類歴史はカインがアベルを殺害することで始まりました。カインは神様への供え物がアベルだけ取られて自分の供え物が取られなかったことに怒り狂い弟であるアベルを殺害しました。これが人類最初の殺人事件になりました。以来、人類歴史に殺人や殺戮の歴史は絶えることがありませんでした。

神様はそのような歴史をどのようにして解決し、どのように終わらせようとされて来たのでしょうか?

それこそが、人類復帰歴史の最大の最大のテーマであり。「神の子」と言われる人々はそのことのためにあらゆる犠牲を払い続けて来たのです。

  

人間はどう生きることが幸せなのか?そしてどのようにすれば人類の普遍的テーマである、「幸福の実現」に至ることができるのでしょうか?

 

いま私たちに必要なもの…「真の愛」

 私たちが常に求め続けているものそれは「幸福」です。

 原理講論の総序の冒頭はこのように始まっています。

「人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人のささいな出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現にほかならないのである。」

以下次のように続きます。

それでは、幸福はいかにしたら得られるのであろうか。 ・・・・」

 

文鮮明先生が人類救済のために最初に説かれたのが「統一原理」であり、その統一原理を系統的にまとめられたのが「原理講論」です。

 

その原理講論は「本心と邪心の葛藤」の問題に進み、この葛藤を終わらせるためにもたらされるのが「新しい真理」であると結論付けています。

ここで新しい真理とは何かということですが、それはこの原理講論に説かれた統一原理を骨格にした、文鮮明先生の教えそのもの、そのすべてであるということができます。

 

さて幸福は自分だけで得られるものではありません。幸福は他者とともに実現していくものです。

戦いや葛藤を終わらせて実現していく平和や豊かさの世界です。そしてその中で最も大切なことが「愛」です。

新約聖書の有名な言葉に次のような一節があります。コリント人への手紙Ⅰ第 13 章の1節から8節です。

「1たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい応鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 

「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい応鉢と同じである。・・・・・」とあります。

何事をなすにおいても、たとえそれが真実や正義を求めることだとしても、「愛」の心をもって行わなければそれは無益なものだと断じています。

私たちが心しなければならないことですね。



文鮮明先生は、その教えの中でも核心的な内容を纏められて、「家庭盟誓」を制定されましたが、そのことに関して次のように語っておられます。

今、四十年を経て、初めて「家庭盟誓」が出てきたのです。この「家庭盟誓」は、歴史にはなかったものです。「家庭盟誓」が出てくることによって、今後、地上世界のサタン家庭には行き場がなくなります。「家庭盟誓」が出てきたということは、先生が四十年を通して四千年歴史を蕩減することによって、失われた第二次大戦後の勝利の基盤を復帰した基準に立ち、地上に天国が設定されるということを意味しています。最初は何ですか。「私たちの家庭は真の愛を中心として」です。すべてに「私たちの家庭は真の愛を中心として」という表題が出てくるのです。真の愛とは何ですか。「真の愛」という言葉は、神様の愛と真の父母の愛が堕落せずに一つになり、その真の愛を中心として真の生命、真の血統が連結されることを意味しているのです。


文鮮明先生が生涯語り続け、歩み続け、求め続けられたのが「真の愛」であり、その真の愛によって実現される神様の理想であり、人類すべての救済であり、平和世界の実現ということです。

 

神様の創造理想のαでありωであるのが「幸福の実現」でありその核心が「真の愛」であるわけです。

それこそが文鮮明先生が教えた核心であり、その生涯のすべてであるとも言えます。

そのことのために集められ、集まってきたのが祝福家庭であり食口であり、その集合体が本来の「世界平和統一家庭連合」であるわけです。

 

私が、そして私たちが求めるものは、幸福(しあわせ)な世の中でであり私たち自身の生活です。

そしてそれを実現していくうえで最も大切なものが「愛」であり「真の愛」です。

愛は自分一人で実現されるものではありません。家庭の中では家族があり、社会の中では隣人がいて、世界の中では諸国民がいます。言葉を換えれば「ために生きる」ということでしょう。

 

人を喜ばす。人を幸福にする。人のために何か役に立つことをすることが、その第一歩です。

いま私たちに一番大切なことそれはために生きること。「真の愛」の実践そのものではないでしょうか。

何事によらず「愛する心」をもってなしていきましょう!



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