天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

偽仏教の化けの皮をはがす

2010-11-21 07:17:27 | Weblog
昨日は仏舎利のことに入りましたので、そこを少々話したいと思います。

仏舎利は「仏陀(仏様)の遺骨」のことです。
釈尊の遺骨、といっても構わないほどの認知度です。

その遺骨は確かに釈尊の肉体だったものです。人間は焼かれてしまえば骨しか残りません。
その骨に対し唯一の残ったものですから、偲んだり愛着が沸くのはありえることです。

ですから、たとえ釈尊のような聖者でなくても、自分の愛する身内親族、知人などが
亡くなって火葬して残った遺骨を非常に大事にしたり、遺骨まで愛情を注ぐ人さえ
いるのを見かけます。それはやはり理論的に考えると「タダの骨」なんですが、やはり
生前の方の肉体の一部分でありますから、名残や愛着が発生するのはあると思います。

しかしながら、その遺骨にさえも「変な執着や観念を持たないように」と戒めたのは
さすが釈尊です。
自分が死んだら遺骨が残る。その遺骨に対して争いや変な風に道が逸れる、というのを
充分わかっていたからです。

釈尊の死後は偉大な師を無くす訳ですからどのようにしたら良いか懸念します。
なので、釈尊は側近で従者のアーナンダに問われた際に細かく答えたわけです。
その中で有名なのは「自分で自分の足元を照らして歩め」という「自灯(燈)明」です。

しかし、この「自灯(燈)明」は有名なのに、仏舎利に対しての解釈は全然といって
いいほど知られていません。これは誠に変なことです。

実はその事実は仏教(偽仏教のこと)にとって「都合が悪いから」です。
なので、その部分は触れない・言わないでいるのです。

釈尊が自ら「仏舎利に依存しても何も無い」と言うことを言われているのですが、それを
ダイレクトに出したら、墓も仏舎利もたいした意味を成さなくなります。
それこそ私が墓のことについて述べたときのように「墓はタダの骨の安置所」になってしまい
恭しく祀ることが薄れてくるからです。また墓もさほど売れなくなる。
お寺さんも商売が出来づらくなってくるからです。

また後世のお経(偽作経典郡)は「仏舎利は最高の本尊」と謳っていますからそれを否定
したら今の在来仏教自体が成り立たなくなります。
まして、常に本尊に従う「密教系」は特にすぐに看板を下ろさないといけないほど深刻です。

浄土とか法華経系は仏舎利を「いいものだ」とは言っていますが、安置まではしてない。
なので、さほど仏舎利が無くてもやっていけるのです。
ですが、密教系は「仏舎利」を最高の位置づけにしていますから、仏舎利=本尊であり、
仏舎利が無かったらただの観念宗になってしまいます。それだけ仏舎利は重要で位置づけが
重く高いものなのです。

しかし、仏教の開祖釈尊自身がまさか「仏舎利に依存しても何も無いよ」と言っているのを
知っている人はどれだけいるでしょうか?
またお坊さんでこの事実を述べていながら商売をしている人はどれだけいるでしょうか?
実はほとんど居ません。それだけタブーな事項だからわざわざ自ら言う人はいないのです。
または、仏舎利など無くても運営できる宗派だからのどちらかだからです。

そして、A宗は仏舎利を今から20数年前にスリランカから分けてもらった、と宣伝しています。
これは釈尊の遺骨をもっていて凄いのだぞ、という示しなのです。
しかし、この仏舎利は偽物であるということがいわれています。
なぜなら本物の仏舎利は国の重要な機関や施設に保管されていて、簡単にいち教団へ提供する
ようなことはありえないからです。

また当時のスリランカ政府からの発行書のようなものにも「本物の仏舎利を分与した」という
記述はありません。またA宗とスリランカ政府との国家との取り引きであるということも
証明されていません。ただ、その贈与式のときに当時のスリランカ大統領が出席していて姿を
現し参加したのは事実ですが、大統領が全てお墨付きを与えたわけでは有りません。
見事な錯誤を仕組んだA宗だな、ということです。

そして、例えば百歩譲って本当の釈尊の仏舎利をA宗が手に入れたとしましょう。
ですが、それでも釈尊自体が「仏舎利には何も無い」と言っているのですから、手に入れても
ただの「お釈迦様の本当の骨ですよ」だけにしかならないのです。

密教では法を修するのにこの仏舎利が尊まれるのは理由があります。
それは仏舎利は「宝の宝庫」だからです。別に例えるなら「魔法のランプ」と言ってもいいでしょう。

仏舎利を本尊に供えその前で密教の方式で法を修すると、願い事が叶って成就するということです。
あれあれ?これってどこか変じゃないでしょうか?
お釈迦様が急に死んで骨になったらいきなり「ご利益製造マシーン」に変わるのでしょうか?
またいつの間に変わったのでしょうか?

生きているときには散々「我を拝んでも何も無いよ」と言っていた釈尊が急に死んで骨になったら
その骨を祀って拝めば「あなたの願いは叶えるぞ」になってしまったというトンデモ論ですよ?

どこをどう見たっておかしなことでしょう???

でも、密教の教義で見るとそれは「正常」であり、変ではないのです。
しかし、正統仏教では「外道」の教えなのです。

なぜそんなことがおきたのかは仏教の歴史を調べるとわかります。
つまり、密教は大乗仏教(大衆派仏教)の最後に出来た「後世の人の作った偽仏教」なのです。
だからそういう「釈尊が言いもしない変なこと」をやらかすのです。

なので、もうここでA宗が如何に「密教の形式で成仏法を修す」とか「仏舎利を祀って云々」と
言うのが破綻しているかがわかります。
A宗は仏舎利といろんな方便で「我が教団こそ正統な仏教であり原始仏教の流れを持っている」
という嘘八百を並べているというのがばれるのです。
多くの嘘とデタラメばかりをちりばめた教団がA宗なのです。

ですから、学者ほどの知識を持たなくても、基礎的な仏教を学べば如何にインチキを働いているか、
それがわかるのです。

今日はここまで。