天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

監査庁を作れ!

2013-03-27 05:51:35 | Weblog
http://seiji.yahoo.co.jp/close_up/1271/

生活保護費や児童扶養手当をパチンコなどのギャンブルで浪費することを禁じ、市民にも通報を求めるという全国でも例のない条例が、兵庫県小野市で成立へ。
あなたは生活保護でギャンブルしている人をみつけたら通報しますか?

今日(3月27日)見た記事ですが、通報することが当たり前な時代になるのがよろしいでしょう。
それこそ本当なら手当や費用を出している官庁の人間が確認作業をやればいいのですが、ニュースでもそれはなかなか容易ではないと聞いています。
また私も個人的に考えて「調査する団体を作ればいい」と思いましたが、それも費用がかかるので実際的に創設できるか、は難しい。
そうなると一番手っ取り早く確実なのは我々のタレコミならぬ通報を募るのが効果的といえるかと思いますね。

先般もNPOのだらしなさや不正を暴くためにマルサのような監査をする部署を設ける、または庁舎を設けるといいと思いますが、さてそれを政府がマジにやるかと思えばおそらくやらないでしょう。
無駄な税金を使っているのを真剣に取り締まろうという気が政府には感じられないので個人的に批判するしかないのですが、まったく嘆かわしいことです。
それこそ訳のわからない省庁をつくるぐらいなら監査庁でもつくればいいのに、です。

まあ、本音を言うとそういうものを作って政府もあら捜しをされたくないからでしょうね。


話は戻りヤフーの記事ですが、当然でしょう。私も通報をするに記入しました。


というか、昨日ローカルニュースですが高齢者医療費だったか何かで医療費を誤魔化したことの裁判があるそうですがそれをTVでみて憤りを強く感じましたね。

嘘をついて医療費などを騙し取り尚且つ身体に障害があるのに平素自家用のベンツを乗り回していると。
嘘をついた当人や関係者(家族など)も悪党ですが、それをチェックできない官庁も重罪です。

例えば百歩譲って一回認可したとします。でも後の調査で詐欺に当たる嘘だとわかったら取り消せばいい話です。
それを官庁はしなかったという体たらくに腹が立つのです。

こういうことはだいぶ以前からニュースでも聞いていますからいい加減どうにかしないといくら税金があっても足りなくなるのは当たり前です。
そして本来ちゃんと手当てを受けられる人が受けられず餓死したりなどの事件もありましたよね。

本末転倒な事件が多すぎるんですよ、わが国は。

それこそ今無職の人間が多いのだからそういった職のない人を雇う上でも有益な省庁を作り雇えばいいのです。
アベノミクスという言葉が流行っていますが、そういうことでもして雇用を増やせばいいのに、別なことで雇用を促そうとしているのは私には理解できない。
働く場所がないのにどうやって経済を保ち職を得るのか。

懲悪の場所をもっと増やせば児童相談所の問題やさまざまな問題も対応できるはずです。
そういうほうに頭やお金を使えないのか。建設関係ばかりを強化しようとする政治には私は甚だ疑問が浮かびます。

また通報してそれが正しい情報で裁きができた場合には通報者に金一封がでるなどもやってもいいと思います。
みんなお金がもらえるとなれば力も入りますしやる気も出ます。
ガセネタもあるでしょうから必ず正しい情報で確認が取れ裁きができた時点でとしないと何ですがそれでもいいと思います。
一件一万円とか。


本当に監査庁を作る展開を望みますね。

NPOにも監査を

2013-03-24 05:29:47 | Weblog
先日報道ステーションでNPO「大雪りばぁねっと。」のずさんさの報道を見て怒り心頭ですね。
以前にも軽く内容は聞いてたものの深くは知らなかったので代表に対して「何こいつ」とは思ってました。
その程度でしたが、昨夜報道を見てある程度認識できたのでかなり頭にきましたね。

最低だな、こいつ。

こういう馬鹿に金を渡した山田町も「なんだかなあ」という思いですが。

こういう馬鹿な代表は裁かれるべきですね。何様だと思っているのか。


はっきり言えばNPOという団体を使った詐欺といっていいようなものです。
受け取った金額もかなりの額なのにそれを二年もしないで使ってしまってその挙句「お金がないので運営できない」とは何事ですか。

山田町もこの団体を信じ期待を寄せていたわけです。だからかなりの額ですがそれを出した。
しかしそれが代表ら幹部及び代表の無駄遣いに消えてしまった。

代表はしゃあしゃあとしているが、本当に悪党ですね。全然悪いとも思っていない。
この与えられた資金はどういうものか。またNPOとしてこの団体が行わなければいけなかったことの自覚があまりにも薄い。
まるでこれでは税金を「思い通りに使っていいよ」という風に与えられて有益に使わなかった企業と同じです。

この与えられたお金というのは復興のため、またそれらに関するものです。
尚且つこのNPOで働く人たちの雇用にもかなり意味や影響力があるわけです。
それを二年もしないうちに枯渇させておき「THE END」とはどういうことか。

無期懲役にでもしてほしいものですね。

やっぱりこういうことが起きるので今後は与える方もチェックを働かすものを用意しないといけませんね。

わが国にNPOという団体が数多くありますが、中には「どういうものかわからない」のもあります。
尚且つ無料でというところもありますが、無料でできるということは背景に何かあるから無料で出来るわけです。
ということはこの馬鹿な団体同様、どこからからお金が入っているから無料で出来る団体があるわけです。

完全ボランティアだったら関係ありませんがね。

NPOはどうも認可されるまでが難しいですが、認可されたらかなり美味い仕組みのようです。
やはりどうも胡散臭い団体もあるかもしれないと思います。

やはりどんなものにでもチェック機構を働かせないと何をやっているかわかりません。
今回の事件でよくそれを知らされた気がします。

それこそマルサではないですが、厳しく取り調べる機構をわが国に作り監査させるようでないと駄目でしょう。

本当にふざけた代表とNPOだったと強く思います。

彼岸考 風習に騙されるな

2013-03-19 04:53:41 | Weblog
今年も春の彼岸の時期がやってまいりますので、書かせて頂きます。
(考えてみれば秋の彼岸もありますが)

まず彼岸の意味を調べてみます。

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%BD%BC%E5%B2%B8%EF%BC%88%E6%9A%A6%E3%80%81%E6%B0%97%E8%B1%A1%EF%BC%89/

ヤフー百科事典より

彼岸(ひがん) [ 日本大百科全書(小学館) ]

春分・秋分の日を挟んで前後3日ずつ、計7日の間を彼岸、初日を彼岸の入り、終日を彼岸の明け、春分・秋分の日を中日という。
彼岸は日本独特の暦注で、元来、暦家の説にはなかった。平安時代仏家からいいだして暦に記載するようになった暦の雑節の一つである。
彼岸の中日は太陽が真東から昇って真西に沈み、昼夜の長さが等しいので「時正(じしょう)」ともいう。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E5%B2%B8

彼岸 ウィキペディアより

彼岸(ひがん)は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。
最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶ。
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。

起源

語源
サンスクリット pāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター) の意訳「至彼岸」に由来する[2]。
Pāramitā を pāram(彼岸に)+ ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え(三途川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする。
ただし、「波羅蜜」の解釈については異説が有力である。

由来

彼岸会法要は日本独自のものであり、現在では彼岸の仏事は浄土思想に結びつけて説明される場合が多くみられる。
浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられている(西方浄土ともいう)。
春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。
もとはシルクロードを経て伝わった、生を終えた後の世界を願う考え方に基づいている。心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われることを願ったもの(念仏)と理解されているようだ[誰?]。
しかし後述のように、天皇の詔として始められた行事であったが、いつの時代も人として、生を終えた後の世界への関心の高いことは同じであり、いつの間にか生を終えていった祖先を供養する行事として定着するに至った。
彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言える。日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教の頃からつきものなのである。仏教語の彼岸は後から結びついたものであるという説(五来重による)もある。

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詳しく調べるときりがないのでこれ以上の検証は各自で行って頂きたいのですが、これを見てわかりますように「ヤフー百科事典」では日本の風習とし仏教云々は書かれていません。
しかしながら多くの人は仏教と絡めたウィキペディアでの認識が多いようです。
実際彼岸の時期になれば先祖供養の一環とし供物を供えたり法要を行う方もいらっしゃいます。

この彼岸を易しくいうと先祖で向こう岸、つまり彼の岸に着けないでいる先祖が居てその先祖が「どうぞ向こう岸に着けますように」ということで子孫が行う法要と言うことになります。

ですが、この彼岸に対して自分は阿含宗に在籍していたときに訝しく思った事項の1つです。


それはなぜか? それは阿含宗では釈迦の成仏法のお陰で先祖は必ず成仏できる、つまり彼の岸へ到達できるのでそこが良くて入信したわけです。
ところが阿含宗では彼岸の供養ということで各種の供養を奨めます。
護摩木祈願でもいいですし塔婆供養もあります。また道場や阿含宗の施設(墓稜なども)で法要も行います。

ですが私は「変だ」と思ってたのです。欺瞞を知らない時期でも、です。

つまり彼岸というので法要をやるのはいいのですが、成仏させてやれない法要です。
やって意味があるのか?ということが一番の懸念でした。

それこそ先祖にすれば成仏も出来ない慰霊でどうするのか?です。
また子孫も成仏させれない供養(法要)にお金を掛けてどうするのか?そういう思いが自分が強かったのです。
ですから彼岸供養は一度しか行いませんでしたね。しかも護摩木か塔婆のどちらかだった気がします。

実際やってみて先祖が喜んだという知らせも現象も起きませんでした。
なので尚更行う気がしませんでしたので、二回目からは法要参加さえしませんでした。
(この行事だけは毎年すかして参加しません)

私にすれば解脱供養で先祖が成仏する以外は慰霊では意味が無いとさえ思っています。
実際その通りでいくらでもお金が必要できりがない程です。ですがそれを彼岸の供養や護摩木での慰霊で誤魔化すのはおかしいと思っています。

釈迦の成仏法を持っている阿含宗。霊障を起こしてない霊は我々信者の勤行でいつしか成仏せしめる、というのが阿含宗の教義です。
ですから頑なに解脱供養さえ申し込まず勤行で成仏させようとしている信者さんも稀ですが居ます。

究極的には「成仏か非成仏か」しかないのです。慰霊供養を批判したのは教祖桐山氏です。
ですから忠実に追ってゆけば「成仏できなければ供養は意味が無い」とさえ言える面があるわけです。

そしてその成仏法を謳う阿含宗がどうして中途半端な彼岸供養、またお盆の万灯会をするのか。私にはどうしても理解しがたかったわけです。

理屈はわかります。解脱供養は一体10万円です。それを先祖の皆さんへ施すとなればかなりの金額になります。
家族分となれば家を建てるより金を費やすことになります。

ですからおいそれとお金を用意できない人のために慰霊でもいいから供養法ということで用意しているというのはわかります。
しかしその慰霊という繕いを「いつまで行うのか」ということです。

お金が用意できない人は何十年とその慰霊を行わなければいけない。それで先祖が喜ぶのだろうか?
また霊障は消えず受ける毎日です。慰霊ごときで解消できるか?です。

また信者さんはよほどルーズでない限り勤行というお勤めを毎日します。
それで足りないから彼岸などの法要を行うのか?または足りているとすれば上乗せで何故彼岸などの供養をするのか?です。

私には悪いが「無駄金」以外の何物でもないという認識ばかりでしたね。
本当に馬鹿臭いと思って一回しかやりませんでした。



阿含宗は親切でやっていると思う方もいるでしょうが、私にすれば「ただのあてがい」にしか映らない。
むしろ彼岸供養なんてものをやるよりもその分の費やす金額を解脱供養に回せ、という方がよっぽどありがたいですね。

成仏しない供養など、供養ではないです。




私は先祖供養が目的で入信したのが核です。ですからそこはかなり重要でありシビアでもありました。
その先祖供養が成されてない・機能してない・嘘っぱちだとわかったからかなり目が覚めた。
そして欺瞞を理解してゆくきっかけになったのです。

阿含宗に入る方は目的が様々です。超能力を得たい人もいるでしょうし、奇跡を戴きたい方もいるでしょう。
私は仏陀になりたいのもありましたが、先祖供養が一番でありました。二番が輪廻転生したくないので因縁を切りたかった。
この二大目的で入信しましたから、これが果たせなければ金も命も掛ける必要などないのです。

そして退会して阿含宗の嘘・インチキ・デタラメを世に知らしめているのです。


それこそ極端な言い方ですが、在来仏教教団が「お彼岸ですよ」といい供養もどきをやるのは別に腹も立ちません。
なぜなら彼らがやっているのは慰霊であって絶対に成仏させられない茶番供養だというのがわかっているからです。
何が向こう岸に渡れるようにご先祖様に回向と追善供養しましょうね、ですか。片腹痛いだけです。

ですが天下の阿含宗が在来仏教と同じことをしているのだけは許せないわけです。
同じことをしていると成れば阿含宗はインチキということになる。何で在来仏教を批判して尚且つ阿含宗は凄いのだとのたまいながら同じものを行うか。
だから私は教祖の姿勢や考えが理解できなかったので従わなかったわけです。もちろん強制でなかったというのもありますが。

強制でもきっと逆らってたかもしれませんし、余り煩かったらそれが嫌で辞めてたかもしれませんね。
とにかく私は彼岸は一回。万灯会は2回しかやりませんでした。
尚且つやってみて何の効果も無かったですし。


後で彼岸を調べたらどうも納得がいきません。それはウィキペディアなどでもわかったようにさほど思気がない。
ただ風習になぞって行う「儀式」のようですっきりしません。

なんのことはない。わかったのは「ご先祖さまが成仏できますように」という追悼の儀式というだけです。
しかも「年二回もやらされる意味のない儀式」です。


ああ、やっぱり私はまちがってなかった、と安堵したものです。
こういう風に巷にある風習で害はないものの「やらされている」というものが存在するわけです。

遥か昔で現代のように情報が無かった時代なら仕方なく応じるのもあったかと思います。
しかし今はインターネットもあり色々調べれる時代です。そして物事でわからないことがあれば調べれば早く深くわかることも出来る。
本当に便利な時代になりました。

彼岸供養を昔から行っていてやらないとどうも、と思う方や心で行いたい、という方はおやりになればいいでしょう。
私は中身を知って「意味が無い」からやらない、というスタイルなだけですから。

また最後に、阿含宗は説明したように巷にあるものと同じような姿勢で物事を行うので「そんなに阿含宗って悪徳か?」と思う方がいると思いますが、悪徳です。
巷と相違無いことも絡めて「うちは皆さんが知っている供養も行っていますよ」と見事にカメレオンをしているのです。

もしも本当に成仏せしめることができてそれを謳うなら堂々と強く打ち出せば良い。
ですがそれをあまり強くやりすぎると嘘やインチキがばれてしまう。なので程ほどにして後は巷と似ている行為やなぞりを行っているのです。
だから違和感があまり無く導けるという算段なのです。

阿含宗は本当に偽仏教でろくでもない教団です。ぜひ気をつけて関わらないようにしましょう。


本当の仏教は「自力救済」が当たり前

2013-03-16 07:56:18 | Weblog
前回も2chより阿含スレから引用して説明をしましたが、12日に深山さんの素晴らしい投稿記事がありましたので、引用し転載させていただきます。

_______


2ch 阿含宗という宗教224から

http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1362802726/l50

この中の記事「62と63」番を解説してゆきたいと思います。

62 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ :2013/03/12(火) 12:30:05.03 ID:/qZ6YPNB
>>54 :我は聞いた:2013/03/12(火) 10:39:28.88 ID:t7qHruqy
>「神仏の救済は目に見えないが、確かに感じることができる」という境界にまで

信者さんの中で「神仏の救済」などという言葉が大好きなら、
仏教信仰には向いていない。
釈尊は救済などしません。
正しい仏教では、神仏の救済などありません。
釈尊は亡くなる時、弟子たちすらも捨てて行くとはっきり宣言している。
その釈尊がどうやって我々を救済するのですか。
こういうきれい事、絵空事の言葉に惑わされないことです。
アゴン宗でも奇跡、神仏の加護などと言葉で誤魔化すのが大好きです。
だが、釈尊の説いた仏教にはこういうきれい事は出てきません。
釈尊の死後は、清浄の比丘に従うか、彼の説いた教法を師として
修行するように説いている。
逆に言うなら、救済すると称する神仏があるとすれば、
それは少なくとも仏教とは関係のない存在であり、
仏教であるかのように見せかけているだから、邪悪な存在です。
アゴン宗の応供の如来などその典型です。
神仏の救済を説く宗教がいるなら、これまたただの嘘つきです。
阿含経でも、釈尊は人々を救済するなど否定しています。

63 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ :2013/03/12(火) 12:35:48.07 ID:/qZ6YPNB
「棘が肉に刺さったのを知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。汝らは(みずから)な
すべきである。諸の完成者(如来)は(ただ)教えを説くだけである。」
(『真理のことば・感興のことば』、中村元、196頁)

これが釈尊の姿勢です。
自分で救済しろ、と説いている。
これを見ても釈尊の教法に神仏による加護や救済などないのがわかります。
信者さんたちがいくら焚き火や石ころを拝んで、金品を
差し出しても、本物の釈尊は何もしてくれない。
釈尊の教法とは学校の勉強と同じです。
教師はただ勉強を教えるだけで、それを学び点数を取り、
合格するのは、生徒の問題であり、先生は関係ない。
先生が生徒を救済するのではないからです。
これと同様に、釈尊の教法も、釈尊本人は関係なく、
その教法を自分で実践して、煩悩を断ちきれば解脱するというものです。
神仏の救済だの、神仏の加護なんて桐山さんの作った嘘です。
救済や加護など、アゴン宗に金と人を出せるためのエサにすぎない。
塾の先生が、「自分に金を出し、経営を手伝い、新しい生徒を連れて来れば、
成績が上がるぞ」なんて言ったら、信者さんたちはどう思いますか。
桐山さんの言っていることはこれと同じです。

(引用転載ここまで)

______________


記事62から説明をして行きたいと思います。

この深山さんの説明を見て驚く方と「そうだね」と合点する方がいると思います。
合点する方はよく仏教を知っている方です。逆に「嘘だ」とか「そんな馬鹿な」と思う方は本当の仏教を知らない方です。
私が強くこのブログで主張するのはここにあるのです。つまり一般の方で「釈尊は救済などしない」という事項を間違って覚え、お釈迦様か神仏が信者や仏教を信仰するものを助けてくれると思っている人が多い。
かくいう私も過去そのように思っていました。少なくともお釈迦様は救わなくても観音様や不動明王、または色々いる諸尊の誰かが私たちを救ってくれると思っていました。

ところが本当の仏教を知るとお釈迦様はもちろん観音様もお不動様もない。救済などないのがわかりびっくりします。

するとそこで思うのが「では今まで聞いたり覚えていた仏教の内容って何?」という風になります。
実はそれが偽仏教、または逸れた仏教の教えなのです。
そういう嘘や間違った認識が巷では「仏教」として流通し認識されている。一方本当の仏教の内容はあまり知られてなく何かの経緯で学ばないとわからないように”未だに”なっているわけです。

そのように逸れた教えがあるゆえに一般の人が未だに偽仏教の教えを講じらされているのと、宗教詐欺に遭う事態を招いているのです。

ですから確かに我らに正しい仏教の知識をが無くて騙されることに過失度はありますが、騙す方にも「それでいいのか」といいたくなります。
特に阿含宗に於いては「本当の仏教教団」と謳っている分だけ許せないですね。

続いて深山さんの解説を見てゆくと非常にわかりやすい内容を述べられています。そしてその解説が本当の仏教の内容なのです。



次に記事63を見てみましょう。ここでは62に続き阿含宗の内容(教義)にも触れています。

阿含宗はお釈迦様の言ってないことや行っていないことを「さも本当にお釈迦様が言った・やった」という風に言い、またそれらを信者に行わせてもいます。
もちろんこの詐欺である指導方法や教義に沿わない信者さんも居ますが、多くは多かれ少なかれ信者さんの大半は従い沿います。
それこそ教団と教祖の指導に従わない信者というのは信仰自体が成り立ちません。ある程度従う意思があって入信しますから従わない場合は何か理由があったりします。
ある程度信仰の内容を軽くでも理解したら沿うのが普通です。

そしてその「沿う」というのは教祖の出した指導方法であり作り上げた教義です。
その中身は色々ありますが最たるものは「信者獲得」です。これを多く奨めている。
お金を教団に費やす。信者を増やす。教団運営に協力する。この3つが教団・教祖の求めるものです。

では何で信者を増やすように促すか? それは簡単です。金や物を運ぶのは「人」です。
教団と教祖の思惑に沿うような信者が多ければ多いほど潤います。つまり「儲かる」というわけです。

金や物が一人でに歩いて教団や教祖に寄って来るのではありません。信者という「人」を通じて教団・教祖に金や物が入ってくるのです。

ですから「自分がいいと思ったものはどんどん周りの人に奨めなさい」ということで信者を増やすように促す。そういうものが教義の中にあるのです。

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神仏の救済だの、神仏の加護なんて桐山さんの作った嘘です。
救済や加護など、アゴン宗に金と人を出せるためのエサにすぎない。
塾の先生が、「自分に金を出し、経営を手伝い、新しい生徒を連れて来れば、
成績が上がるぞ」なんて言ったら、信者さんたちはどう思いますか。
桐山さんの言っていることはこれと同じです。

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阿含宗では梵行と称し教団発展のために動くことを修行と称して信者に課します。
清掃行為の果てから護摩木販売や信者獲得のための「お導き行」という名目で自分に縁のある人を阿含宗へ入信させる行為をさせます。

そして教義上ではこの「お導き行」が一番修行の中で尊く、徳が一番いただけるという内容になっています。
尚且つご本尊様(お釈迦様を始め神仏など各種諸尊の事)が「大変お喜びになる」ということを言っています。

それはなぜか?お釈迦様は一生を掛けて仏教を広めになった。つまりこの聖なる教えを広める=阿含宗を広めるということは仏教を広めていることなのだ。
そういう行為を一番お釈迦様はお喜びになる、と説明しているわけです。



しかしこれは教祖の方便であり嘘です。
確かに一生を掛けて仏教というものをこの世に残した。また広められた。
ですが阿含宗で説いていることはお釈迦様の説いた内容ではありません。嘘の教えを広めてお釈迦様が喜ぶ???
こんな馬鹿なことを言っているわけです。

だから「塾の先生が、「自分に金を出し、経営を手伝い、新しい生徒を連れて来れば、 成績が上がるぞ」なんて言ったら、信者さんたちはどう思いますか。桐山さんの言っていることはこれと同じです。」と深山さんが言っているのは真実なのです。

教祖桐山は私たちが本当の仏教の内容を知らないことをいいことに、この深山さんのたとえのような行為を信者さんに行わせているのです。



お釈迦様は教えを説くのに「自分に金を出し、経営を手伝い、新しい生徒を連れて来れば、 成績が上がるぞ(因縁が解けるぞ)」ということを説いていません。
むしろ無料で誰にでも教えを説き仏陀になることを勧めた。それだけです。

お釈迦様の教えに沿わなくても別に構わない。ただ教えを請い聞く者には教えを説いた。出家の用意をして出家になることを認められれば出家も受け入れた。
もちろん在家のままでもお釈迦様の教えを講じるものは弟子でありそういう方たちにも教えを自然に説いた。

金をもってこい。物をもってこい。信者を増やせなんてことは微塵も言わなかった。というかそういうことをいう自体がエセ宗教でしょう?



お釈迦様は別に教団が大きくなったり、しようとも思いませんでした。ただひたすらに「仏陀に成りたい人へなるための方法を教えただけ」です。
それを一生続けて亡くなったということです。弟子たちが勝手に増えて教団として大きくなっただけで教団を大きくしようとは思ってなかった。
それこそ「仏陀になりたい」という人が少なくて人数(弟子)が少なくても全然構わなかったようです。

これを仏教を勉強していると出てくる事項です。私もこれを最初知ったときは「嘘だ」と思いました。
ですが言動録であるお経の解説本やお釈迦様の歴史・生涯を考察した本などを見れば、そのようであったというのがわかってきます。

そういうものを踏まえて阿含宗を見るとなんと嘘の多いことか、と呆れるばかりです。



そりゃあそうでしょう。嘘の教えで信者さんらを騙し儲けることが目的ですから嘘など朝飯前です。
尚且つ嘘に気づかない信者さんが相当数いるので、未だに儲けの騙しは辞めるつもりが皆目ありません。
実際に未だに阿含宗が健在なのを見れば私の言うことが嘘でないことがわかります。
嘘をついているのは「桐山氏」らなのです。

ですからこのブログも2chの阿含スレも掲示板らも阿含宗や詐欺宗教に関わってない・縁のない人には無用なものです。
しかしもしもあなたが「阿含宗」に関わっている、もしくは知り合い・縁者に阿含宗の関係者がいたら、ぜひこの内容や事項を知らせてみるべきです。

なぜなら知らないうちに詐欺に巻き込まれているからです。

桐山氏の作った嘘の教えを講じさせられて大切な財産や時間を失っているのです。
尚且つ阿含宗で講じたものは嘘ですから先祖も成仏しないし、悪因縁も切れやしない。
ただ教団と教祖らに貢いで終わりです。

ぜひ、私たちの説いている内容を検証しても構いません。嘘をついているのは誰なのか。
また騙されているのは誰なのか、を良く知るべきです。

そのためには本当の仏教を知ることと阿含宗の内容を精査することです。

阿含宗の「宗教詐欺」から一日でも早く抜けられることを祈っています。

騙されないために

2013-03-12 08:51:09 | Weblog
私の知り合いから「ブログの今回の記事内容」について感想を戴きました。
そこで言われたのが「もっと詳しく述べたらどうか」といわれましたので、そこを書きたいと思います。

丁度示しとなるいい記事がありましたので、引用し転載させていただきます。

_______


2ch 阿含宗という宗教224から

http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1362802726/l50

この中の記事「49と50」番がとても参考になります。

49 :ユビキタス ◆18iA.mwnDU :2013/03/11(月) 23:41:16.35 ID:hhBRZrF0
>>38
>我は現世利益を肯定してるけど、現世利益を求めて修行したことはない。

現世利益を求めていないなんてのは真っ赤な嘘です。
現世利益とは決して贅沢な願いを叶えようとすることではありませんよ。
神仏に祈って病気などが治るような素朴な祈願を現世利益と言うのです。
釈尊は厳しい人だからそこからも脱却することを説いた。
あなたは病気や災害などの苦そのものを滅するものでなかったらそんな
宗教は要らないと書いた。だから現世利益を求めたのですよ。
せめて自分自身くらい直視できるようになりなさいよ。

50 :ユビキタス ◆18iA.mwnDU :2013/03/12(火) 00:09:32.54 ID:U6JYuxW+
>>38
>それからさ、在家は現世利益も必要なのさ。ただ欲張ってはいけない、欲張りは

在家は家庭を築き、一家の生活を支え、生活を繁栄する為に一所懸命仕事に励むことを説きます。
そのこと自体は欲張りでも何でもない。
でもそれを宗教に求め、宗教の力で神仏に頼ってなんとかしてもらおうなんて話が
やはり欲張りと言わざるを得ないんですよ。
自分の生活をささえ繁栄させることくらい自分の努力で達成しなさいな。
欲張りでないのならささやかな生活を支えることに誇りを持って自己努力しなさいな。

(引用転載ここまで)

______________


このユビキタスさんの述べられていることがまさしく私の父の言わんとしたいことだったのです。
つまり宗教を講じている人の全員とはいわないがほぼ大半がやはり逸れている内容の教団が多い。
そしてその教団が教える、または講じさせる内容や姿勢が「依存」というものなのです。
教団や教祖に依存させその教義に沿わせ操作しようとする。つまりできるだけ自立を持たせない。
依存をするような思考や体制に信者が成り、それが多ければ多いほど教団の利益になるのです。
そういう信者を一人でも多く作り沿わせることが教団の繁栄であり利益に繋がるのです。

そして騙されている側、つまり信者さんはできるだけその策に気が付かない方がいいわけです。
気が付かないで教団や教祖の方針に沿ってくれれば都合がいいわけです。

で、実際的に一部の人を除き信仰をしている人の大半は「祈り」と称し「拝み」をやらされている。
そのことに気が付かないわけです。
それを短く示したのが「記事49」なわけです。

次に父の言う「欲しいものがあれば自分で掴む」というのが「記事50」なのです。

このユビさんの記事を見て皆さんどう思われますか?
「当たり前の事だな」と思う人もいれば「随分エライことをいっているな」とか様々でしょうが、
「当たり前」と思った人は正常に近いですね。

実はこの当たり前が(逸れた)宗教を講じている人には実行しがたく理解されていないのです。

例えば阿含宗の中には「祈願」ということで様々な願い事を叶えるべく祈願の方法が用意されています。
最たるものは「護摩木」というやつでその木に祈願を書いて奉納します。
そして教団側はその護摩木を護摩修法の際に焚き上げる、つまり燃やすわけです。
焚き上げることによってその祈願を本尊らに叶えてもらう様に祈念することが「護摩修法」の意味・意義なわけです。

これは一件何でもないように見えますが、良く見れば「本尊への依存」なわけです。

確かに例えば祈願内容に「身体健全」とかまるっきり欲ボケのような内容とは違うものもあります。
それこそダイレクトに「金運如意」とかのように「お金がたくさん授かりますように」なら欲ボケの祈願です。
ですが「身体健全」は「身体が健全で丈夫でありますように」ということなので、欲ボケではない。

しかし、そもそも身体健全というようなものはわざわざ願うことではなく、自らが健康に気をつけて乱れた生活をしないでいたり摂生や養生、また栄養摂取や適度な休息や運動なども行うなどをしていればそんな健康を害するようなことにはなりません。
つまり生活のよい調整や講じでおおよそ叶えられるものなのです。
そういうものを何故わざわざ「願うのか」ということ。つまりは「願わなくとも叶う事項を何故願う必要があるか」なのです。

そうなると自分の努力で叶えられるものも自然と願うようになる。そうなると段々願い事をすることに慣れてきて違和感を持たなくなります。
実はこれが教団の目的なのです。

またこういうのもあります。自分の努力などで何か達成できたとします。その達成以前に祈願をしたとします。
すると時間が経って結果が出ますがそうなると当然成就したという結果になります。
そこで人は「阿含宗の護摩木のお陰が効いたみたいだ」と錯覚することがあります。これも教団の意図する方向です。
こうやって「勘違いしてくれること」が望ましいのです。

その結果「願い事を積極的にするようになる」イコール「教団の趣旨に沿ってくれる」のが理想なのです。



辛らつな言い方に聞こえるかもしれませんがそうではないのです。
信仰にはまっているとこういう「当たり前の事」が見えなくなる、もしくは「鈍化する」のです。そこが怖いのです。

ですから無宗教や反宗教な人はまず宗教人の行うような思考をしません。
願い事や神様・仏様とか教祖・本尊などの奇跡やパワーなどを信じません。
まず自分でどうにかならないか、と考えます。またそのように行動もします。
また病気なら医学。お金なら労働などで得ようとする。まず宗教を頼ろうとしません。

この姿を見てるとわかりますね。依存が全くありません。つまり自立している、何かに頼ることがないのです。

仏教の言葉で「現世利益」というのがありましてそれを「記事49」にてユビさんが語られていますがその通りです。
願い事をして叶うのを願うのが「現世利益」です。
ですが本当の仏教はこういう思考がありません。示唆もありません。どこまでも「仏陀になること」だけが目的で利益は追いません。
つまり現世利益は後世の人間が考えたものであり、在家の人間らを信仰に惹き付けるための方便なのです。

だから本当の仏教を講じるとか学ぶなら「現世利益」は追わないし不要なのです。

次に「記事50」はそのことが理解できたら自然と行える事項です。
お金は生活をするうえで必要であり重要なものです。
出家して仏教のダイレクト実践でもしない限り、やはり在家では利益を追わないという生活は無理です。

じゃあ在家は利益を追っていいのだな。祈願してもいいのだな、とは別です。
その答えが「記事50」なのです。

実はここも理解できてないのが間違った宗教を講じている人間が陥る「落とし穴」なのです。

巷の人間の大半が「在家」であることを理由にエセ宗教は「依存」を正当化させ行わせようとします。
そうすることで教団側が「利益を得られる」からです。
また自分たちも周りを見れば「神社・お寺」は当たり前に存在しますし、普通に参る施設です。
中には全然行かない、という方もいるでしょうが、晦日や正月に神社に行ってお賽銭を入れて願うごとをすることも立派な「依存」です。
依存をしなければそういうことはしないものです。ですから如何に自然に宗教が我々を「依存をさせるようにできているか」というのが多いというのがわかりますでしょう?

だからこそ気をつけなければいけないのです。

特に阿含宗ではその巷にある観念、つまり「拝んだっていいじゃない」に沿いながら阿含宗の教義内容に染まらせます。
そして信者をコントロールし沿わせる。
中には沿わない人もいてそういう人は阿含宗に登録しているだけで信仰してないか、もしくは辞めていたりします。
教団と教祖の考えに従わず沿わないでいれば当然そのどれかになるものです。
真面目に従うか訳がわからなくても従えば必ず教団や教祖の示唆どおりに動きますから。で、動けば依存体質になる。

中にはその依存体質にはまりながらも「いや、やっぱりどこかおかしい」と自力や何かのきっかけで脱却する人もいますが、数は多くない。
やはり多くの人は騙されているのが現状です。

ですから巷にある観念や風習が全て正しいとは言い切れないものもあるわけです。
別段神社へ参ったりお寺へ行ったりは変なことでもないし、そこでお賽銭を投げて祈念する。お札やお守りを買うのも変な行為ではない。

しかし依存が無ければお札もお守りも祈願も不要なのです。そうなるとお寺や神社は「観光で見て回るぐらい」で終わるのが関の山です。
何かをするという行為は出てきません。

そういう依存をさせるエセ宗教が多いわけですからそこから自分を持っているという人はある程度しかいません。
やはり何らかの宗教を講じている人で騙されていないという人は少ない。
尚且つ深くはまっている人となれば余計その依存形に持っていかれているのが多いですね。

こと仏教に関して言えば正しい仏教を講じている人は少ない。なので案じているわけです。

過去の自分の経験と共に振り返れば、この今自分で言っている人間がまさに自分であった。
反省も含め警告をしているということなのです。

人を騙して儲ける。とんでもない教団や宗派があるということを理解しそういうものにはまらないように、と願う次第です。

諸刃の剣 宗教3 (ラスト)

2013-03-11 06:34:57 | Weblog
経験のある方はわかると思いますが、反宗教心を持っている人は父のような言い方をします。
ですが、宗教にはまっている・騙されている人はこれから述べる自分の言い分の考え方をします。
それゆえに平行線をたどる人が多い、というのがあるわけです。

ですが、実はそれがエセ宗教に騙される原因でもあったのです。

宗教を講じる人はこのように思うものです。

「私たちは別に依存してなどいない。それこそ宗教嫌いの人はすぐに宗教人を『拝んで何か成そうとなんでもする』という。
しかしそれはそのように見えるだけであって、拝んで何かをどう・こうしようとしているのではない。
拝みではなく”祈り”だということに反宗教人は気が付かないだけなのだ。

姿形は拝んでいるように見えるが、拝んでどう・こうする自体は昔の古臭い宗教や逸れた宗教の成す行為だ。
ところが本当の宗教や新しい宗教は拝んで何かを成そうなんてことはしない。むしろナンセンスだ。
だから拝むのではなく「祈りを以って解決や成就のいざないとする」のだ。それが反宗教人はわからないだけなのだ。」

そのように思っていたわけでした。

ですが実際は「祈り」なんている言葉で誤魔化された拝みを自分らはさせられていたのです。
つまり教団や教祖がそのように思わせ、実際にやらせていたのは「拝み」だったのです。
気づかないのは「馬鹿な信者だけ」ということが後になってからわかって大変ショックでした。
つまり父の言うことは「間違ってなかった」のでした。

こんな簡単なことに気が付かないの?と思う人がいるかもしれませんが、宗教というもの特にエセ宗教はそういうものがありますが、それに気づかせないのと気づかない人たちが集う場所です。
ですからそれに引っかからない人は幸いです。ですがそれにやられる人もいるわけです。

例えば病気で苦しんでたり何か大きな難題で人生上で非常に困ったことがあった。
それを偶然でもいいから解決したら結構騙されたりするものです。私はそういう経緯はないがそういう経緯で信仰に入った人もいます。
平素は信仰なんて、とむしろ小ばかにした人が奇跡を見せられそれで宗教人になったという人がいます。

ですからもしも父に願いが叶ってたとしたら益々わが家はやばかったかもしれませんね。



また過去の私もこういう風に父を見ていました。

「普段自分らのような宗教を講じる人を見るとほとんどの人を馬鹿にするが、当人はどうなんだ。
宗教を毛嫌いしているくせにじゃあなんで意味もない浄土真宗を講じているのだ?
また、神棚も置いてあるがマトモに作法も手入れもしてないじゃないか。また仏壇にはろくに手も合わせないし供えをしたことも一回も見ない。
結局心の中で宗教を馬鹿にしているくせにやっていることがなってない。尚且つ健康を案じたり善きことの念じもあるくせにそれだって一種の宗教行為で父自身が嫌っているものじゃないか。
本当に宗教が嫌いなら仏壇も神棚も不要でいいじゃないか。正月になれば車にお神酒を上げたり注連縄を飾ったりするのはどうなのだ?
自分教は良くて人が講じる宗教は批判の対象か?全くふざけている」

辛らつな物言いですがこれらは本当の事項です。
ですから父の言っていることはわかります。ですが心情的に「理解したくない」のです。

これがもし一本筋の通った人であり示しがあったならおそらくここまで辛らつには言わないでしょう。
ですがやはり父も無知識ですしこれといった宗教に対する論はなく、結局は毛嫌いしているだけのやっかみにしか映らないのです。

しかしながら自分が阿含宗がエセ宗教教団であったのがわかり、それと同時に周りが見えてきた。
すると世の中にある宗教の逸れ方やエセ教団が多いのを理解したら、がっくりきましたね。

あの教団も、あそこの教団もエセか・・・。
尚且つ仏教に於いてはほとんどが嘘であり、そういう内容が世にはびこっている。

キリスト教に於いても同様で宗旨替えをして済むというものではないのがわかる。
その他神道でも何教でも同様で講じるに値しないとわかったら、もう無宗教が一番だとわかった。

ああ、生きるのに別段宗教は無くてもいいのか。そうわかったら何だか気も抜けたけど気楽になりましたね。

そして父の言わんとする真意も良く理解できたので今では私の方が徹底して「無宗教論」を言えるほどです。
しかも宗教にほだされる人の欠点や傾向までもいうので父もその点に於いては私に同意するほどです。

騙された経験で私が逆に強くなっちゃったみたいですがね(苦笑)



なので本当に今でも阿含宗を講じてたら、と思うと嫌気が差しますね。ぞっとします。
そして人はそんなに「宗教宗教」としなくても生きてゆけます。

話は最初の時点に戻りますが、私が見たTVで「アウシュビッツで生き延びた人の傾向」ということに触れての番組がありましたが、そこで出てくる「信仰心を持った人」が割と生き延びれたとありました。
これは実際にあったことですから反論(批判)はしませんが、私が言ったものとはちょっと違いますね。

このアウシュビッツに於いての信仰心というのはキリスト教であり尚且つ祈りに於いても神聖なものであった。
私の出した巷的詐欺宗教の祈りとか信仰形態とは違います。だから効果が得れたのでしょう。

ただここまで巷で奨める信仰は神聖なものは余りありません。というか自分の周りではそこまでのいざないの教団はないですね。
どこか必ず騙しが入っているか教義がおかしかったりします。(それでてのこのブログの批判内容です)

逆を言えばそれだけクリアで神聖な信仰をしている教団があれば教えて欲しいものです。

究極の極限状態に於いて生き延びるためにはいろんなものが要素となった。
その中には笑いやユーモア、音楽・歌もありました。そして信仰(宗教)があったのです。

私は悪いが今のエセ宗教には救いの力などないと見ています。
ですからそんな極限状態を超える・耐える、また生き延びるだけのものを、となればそれだけのものは得れない。
むしろ途中で投げ出すかポキッとすぐに折れる杖のようでしょう。宛てにもタメにもならないでしょうね。

私は信仰が人に及ぼすものがあり甚大と思っていた。しかしそれは「良い方」と思ってたが実際は「悪い方」が多いというのに気が付きました。
それこそ素晴らしい教えを説くところもありましょう。しかしそこに出会い講じれるかはわからない。

それこそそんなエセばかりの世の中なら何も講じないほうがよっぽどマシです。
釈尊が「自分だけだぞ」といわれたのが良くわかります。

そして最近の人では自分さえも頼りにならず、死を選ぶ人まで増えている。




誰も頼らず自分さえも頼らない。これがいいのではないかと思うほどです。
宗教なんかに頼らず生きてゆく。そういう強さを見につける。これは意外と重要だなあと気が付かされた自分でした。(終)

諸刃の刃 宗教 2

2013-03-10 03:23:33 | Weblog
続きです。

その際たるものが「オウム真理教」だったといえばわかる人は多いでしょう。
あの教団は破壊行為を表に出してしまった、つまり実行してしまったわけです。
宗教及び教団が逸れて尚且つそれが世間に及ぼしたらどうなるか、の見本です。

ですが実際はああやって表に出るのは早々ありません。むしろ表に出ず「内々」で済ませている方がかなり多い。

どういうことかというとたまにニュースで聞く「教団での信者殺害」がそうです。
修行や信仰上の事項とし殺害されていたりするものです。

次に懸念されるのが殺害までは行かないけれど信者の人生を狂わせてしまった、などです。
信仰に染まらせ財産を奪う他その信者の周りの人間を教団や信仰に引き込んで来させようと仕組んでいるのにはまっていることです。

もはや信仰や宗教が人を向上させたりするというものではなく、逆に落としてしまうような状態にさせている。
そういうものがあるので無宗教を奨める意図が無くてもそうなってしまうのです。

そして信仰上の事故よりもむしろこの信者コントロールの方が非常に・圧倒的に多いのです。



それはなぜか?それは教団や教祖らが信仰と言うものを利用し儲けるだけの手段にしているからです。

だから私は遅すぎるほどですが、今年昨年録画したビートたけし作「教祖誕生」の映画を初めて見ました。
もう20年以上前の映画ですが、当時も有名になった映画ですが見ませんでした。
それは自分が阿含宗に染まっていたのと自分に入ってきていた情報でビートたけしさんをなめて掛かっていたからです。

「宗教の何たるやを知らない、またどこぞの信仰に所属もしてない一介のお笑い芸人に宗教の何がわかる」
このように自分は考えていて、馬鹿にしてみてなかったわけです。

ところがかなりの年月が経って初めて映画を見たら、参りましたね。
全てが阿含宗に共通や繋がるわけではないですが、ほぼ内容や傾向はあっているのです。
ですから見てからビートたけしさんは宗教を揶揄したんじゃなくて『エセ宗教には気をつけた方がいいんじゃね?』といいたかったのではないか、と思ったほどです。
今の私がもしも信仰に対する映画を作るとしたらやはりあのような感じになるのではないかとも思ったりしました。

あれは映画ですし決まった尺がありますから端折るしかないわけですが、それでもその尺の中で見せたエセ宗教の悪どさがわかりますね。



そしてその映画でわかったように、騙されて馬鹿を見ているのが信者側です。
教祖や教団が信者さんらのあがりで儲けている。あの様が阿含宗でも同様なわけです。
偽仏教を本当の仏教であると嘘をついたことから始まり教義も中身もほとんどが嘘です。
嘘とデタラメとインチキで繕ってそれを用いて信者さんを騙して世間を騙して儲けている。
これが宗教のやることですか。

そして真剣に・真面目に取り組んだ信者さんたちが馬鹿を見て終わりなのです。

だからかえって下手に信仰なんかに進むからこうなったというほど馬鹿を見ます。
軽く何抜きなしに入り遊び程度で深く講じず、ならまだ僅かな出費で自己の僅かな損失で済むからいいが、これがそういった個人の僅かな損失を超えたら大変です。
尚且つその人の縁者とかに影響を及ぼす場合がありますから、そこまで至る人は抜き差しならない場合がある。

また酷い宗教になれば人格も下がりせっかくの人間関係も壊してしまうこともあったりします。
もうこうなれば人生さえも狂わせてしまう悪の根源ではないかと思うほど嫌に成ります。

あと特に私の父が嫌ったものがありますが、それが「依存」です。
その宗教を核に物事を考え、尚且つ依存するわけですから祈り・拝みで済ませようとする。その姿勢が大嫌いだったのです。

元々は私の父の母が私が生まれる前に個人的にある宗教を信じていた。そこに熱心だったゆえに息子である私の父にも奨めたらしいのです。
父は気が進まなかったのですが、自分の母の言う事ですし従ってその宗教のところへついていったそうです。
そして何かの祈願をしたそうです。

ところがその願いが叶わなかったそうで、それが機で宗教を毛嫌いしたといっていましたね。

父いわく、「願い事や欲しいものがあれば自分で努力し自分で手に入れるようにするべきだ。拝んで何か成そうとするのは間違い」
こういう考えが確立していました。

ところが宗教にはまるという人間はそうはとらないんですね。
実はここが宗教を講じている最中には「落とし穴」ということに気が付かなかったのです。(続く)

諸刃の剣 宗教

2013-03-09 07:16:27 | Weblog
先般TVでアウシュビッツで収容されていた人の事で生き延びれた人の要素を説明して考察していたものがありました。
途中から見たのですが中々の勉強になるものでした。

詳しく言うとこれも長くなるので今回は短く行きますが、その要素の中でこういうのがありました。
「信仰を持っている人」というやつです。
厳しい環境の中で大半の人が亡くなってゆく。そういう中で生き延びた人に色々な要素があるのですがそのうちの1つに「信仰」というものがありました。
「そうかあ」と思う半面私は宗教の持つ「諸刃」の部分を懸念していました。

私は別段そのTVに意見するというわけではありません。
逆に平素の今における環境にて信仰をする場合と日本そして巷で見た場合の多い傾向について懸念をするわけです。

それは何か?
それは「信仰はともすれば生き方を誤る原因になる」ということです。
実はここを意識して行っている人は意外と少ないのです。

というか行っている人の半数以上、下手をすれば4分の3は私の懸念を無意識で抱いているかもしれないとさえ思うほどです。
そしてかつての自分もそうだった。

詳しく言いますと今の巷にある宗教は「教団や教祖・教義に依存するように構成されている宗教が大半だから」です。
ですから極端な物言いですが「宗教を講じれば依存しやすくなる」ということです。

それゆえに自分でものを考えたり判断したりできにくくなる。または宗教を核にものを考えるようになるのでそこが怖いというわけですね。

随分辛らつな物言いだな、と思われるかと思いますが、実際に経験し考察を加えて世の中そして他教団をもみたらまさに阿含宗以外もその様子だったので「ああ、これはまずい」と思ったのが最初でした。
つまり悪いのは一部の宗教や教団であって大半は悪くない。そう思っていた。
しかし現実を見れば逆であって「宗教の大半がよろしくない」とわかったのです。これはショックでした。

確かに私の表現や見地は宗教を講じる人から見れば「馬鹿にしているのか」といわれる内容です。喧嘩を売っているといえましょう。
ですがそうではない。特に宗教を講じる人は現実と宗教との格差が多いのに気が付いていないということです。
特に宗教を講じていますという人の中で「人格を疑う」という人がいますが、それが最たるものです。

私は以前からこう主張していました。
「宗教というものは人を育て向上させる素晴らしいものだ」と。
だから逆に無宗教な人を疎んじていました。

ですが現実に色々見てゆけば確かに宗教を講じている人で立派な方はいます。
しかしながらやはり「これで宗教人?」という人が多いのも事実です。
私も実は自分で頑張ったと思っていますが、残念ながら「これで宗教人?」の行為をしたことがあります。
つまり自分を含めて悪意は無いものの、やはり人様から言われる不遜な状態であったわけです。

また宗教間の喧嘩や論争も絶えません。世界で行われている戦争の原因は「宗教間のいざこざ」といわれているほど有名です。
そして戦争までは行きませんが実際属している宗教でお互いが嫌いあい、また問題に成っている人もいます。

私はそこのところから深く見てゆくと先ほどチラッと述べたことが非常に懸念するわけです。
つまり宗教間のいざこざよりも問題点はある。そこが「依存」の問題です。

結局大きな観点でいえば「何何宗」とか「●●教」など講じるのはその人の勝手です。信教の自由がある。
しかしその信じる対象、つまり教団に問題があればそれは無視はできない。
つまり信じる人の勝手から何をしようと基本は自由であれども、その教団の内容が世間より逸れていたら危険なものです。
そしてその宗教を信じる人が逸れてゆくこと。これが怖いわけです。(続く)

ヤフー質問箱に答える(3~ラスト)

2013-03-07 06:49:50 | Weblog
今でもそうですが巷の方で仏教に詳しい人はどれだけいるか、というとかなり少ない。ほとんど皆無といってもいいほどでしょう。
学校で歴史で授業で仏教についてを習っているはずなのに心にも頭にも残りません。
せいぜい残るといえば仏教の二大分裂とどうやってインドから日本へ仏教が伝達されたか。また各宗派が沢山あると言うぐらいです。
詳しく釈尊という人物と内容を把握している人はまずいません。

それは理由があります。詳しくすると各在来仏教教団が困るからです。
巷にある仏教教団に多くの日本人は檀家として所属しています。
そのお寺さんがまさか「偽仏教教団である」とわかったらどうなるか?です。

おそらく講じる人は減るでしょう。またお寺に参る人さえいなくなるでしょう。
そうなったらお寺さんらは廃業しないといけなくなります。

そういうことを避けるうえでも仏教の詳しい内容は学校でさえも教えないのです。学校の授業では歴史をさらっとなぞる程度で終わらせているのです。
だから学校で仏教の歴史を授業で学んでも詳しく把握している人はいないし、いても上っ面なところの把握だけです。中の中までは知らない。

ですから仏教の知識や中身を知れば阿含宗がデタラメな教団であることもわかりますし、在来仏教教団らも欠陥があることがわかります。
そうすると私の言っていることや内容が正しいのがわかりますし、巷にある新興宗教も大半が偽仏教教団であることもわかります。
(仏教の絡みが無い新興宗教教団は除く)

また桐山氏は観音信仰が巷に広まっていることも上手く利用しています。

普通信仰するのは聖観音がほとんどです。せいぜい派生して六観音のどれかを奉じるぐらいでその中心で大半は「聖観音様」を奉じる。
ですが、桐山氏は聖観音も奉じるが観音様は沢山存在することと六観音を上手く利用している。

つまり千手観音、聖観音、如意輪観音、馬頭観音、十一面観音、不空顕索観音で六観音とするが、この中でメジャーなのは聖観音、千手観音、馬頭観音です。
他はまあどこかの扱っているお寺などで知っているぐらいで普及度は低い。その他竜頭観音や白衣観音なども有名ですが六観音ではない。
ですがやはり観音様といってもかなりの数がいるというのはあるわけです。

そしてそういう観音様を信仰し奇跡体験や功徳を得たという人もいて民間信仰で人気の高い信仰です。

ですが、これが実際仏教と関係が無いと知っている人はどれだけいるか、です。

そういう事実は知る人が少ないのに信仰している人が多いのはやはり本当の仏教ではないにしろ何らかの効験などが影響したものと思われます。
それを見事に使ったのが桐山氏です。

六観音でメジャーじゃないので最たる観音様は「不空顕索観音」です。さすがに私もこの観音様はピンと来なかった。
ですが、その観音さまでなく「准胝観音」を持ってきたところが騙しに適していたといえるのです。

准胝観音もメジャーな存在ではありません。おそらくその名前だけを一般の人に伺っても即答や深く答えられる人はほとんどいないでしょう。
ですが、やはり存在して密教の方ではまあまあな存在でもあった観音様です。

しかも特殊で観音様でありながら如来でもあるのです。これはかなり特殊です。

その特殊さに輪を掛け桐山氏が打ち出す「因縁解脱」に即させるのですから巧妙な手法だと思います。
これも厳密に調べれば因縁解脱の本尊だなんて嘘だとわかるのですが、私が先ほどから述べているように一般人には良くわからない世界です。
適当にそれらしい方便を駆使されたら「そうなのか」と思ってしまうわけです。
尚且つ因縁解脱の思考さえ仏教に無いことすら見抜けない一般人に准胝観音を上手に方便されたらどうなるか。
また観音信仰が巷に浸透している日本です。外国ならあまり通用しないでしょうが、日本で通用する方便ですから騙しは行いやすい。

尚且つ桐山氏は「成仏法は高度な智慧の法である。一般人が講じるには難解だがその法を講じるためには密教の手法が講じやすい」という方便を垂れるので無知な人は「そうかあ」と思ってしまう。
そして密教には「准胝観音」がいます。阿含宗の本尊であり、前身の「観音慈恵会」から信奉していた仏様ですよ。観音様でありながら如来であり尚且つ因縁解脱の本尊でなんですよ、とやられたらかなりの確認をしない限り真実は見えない。
巧妙な騙しがここにあるのが説明したからわかりますが、これを各自で紐解いて「この嘘つきめ!」と個人でやれる人はどれだけいるか?です。

おそらく一般人ではっきりわかって見抜ける人は少ないでしょう。
大抵は気づくのは何となく嫌だというので避けるとか、実際阿含宗に入ってみたがこれといったことが無いので辞めた、というのがほとんどで自ら欺瞞を知って退会するというのは本当に少ない。
ですから知らず知らずのうちに詐欺師の罠にはまるというのが意外とあるわけです。

巷に普及している観音信仰、仏教の嘘を巧妙に正しいものと錯誤させるテクニック、そしてそれらしく思わせる方便。これらの駆使によって騙される人を日々狙っているわけです。

この流れがわかれば桐山氏が観音信仰を以っていざなっているのがわかりますでしょう。
そして阿含経を奉じながらも観音様の功徳もいただけるし尚且つ准胝観音は本尊でもある。
だから准胝観音経を読みあげる。信仰するのは別に変ではないのです。阿含宗的には変ではないのです。

ですが釈迦仏教・根本仏教から見れば邪道で外道です。
釈尊は密教など勧めて無いし作ってもいない。

仏教の歴史を見ればわかりますが密教は後期大乗です。法華経よりも後にできた宗派です。
ヒンズー教の教えを取り入れて組み込んだ混ぜ物です。釈尊が亡くなってから作られたものですから釈尊が説くはずが無いのです。
後世の人間が作った偽仏教なのです。

だから如何に桐山氏が「密教の様式が云々」といってもそれは方便で嘘です。
准胝観音を推し勧めるのと桐山氏の方便を嘘と適合させるための索です。
全てが嘘で繕っていますからそれらを適合させる必要があるわけです。そうしないと嘘がたちまちばれます。
ばれたら詐欺は行えない。なるべくばれない嘘をつき続ける必要があった。なので巧妙なのです。

しかしながら仏教の知識がある人にはこの桐山氏の嘘は通用しません。しかし、一般人で素直な人を騙すには十分通用した。
尚且つ若者に受けるような様々な主張が昔は通ったわけです。
例えば抹香臭い仏教は終わった、とか超能力関係のいざないとか、能力開発なども打ち出した。
これらも丁度時代や若者にウケたのもあって何も知らない人たちは阿含宗へ期待を持って入信したわけです。ですから過去は結構賑わった。
自分が入信した時期が丁度その時期でもあったので良くわかっています。本当に賑わった。

ところが嘘で繕っていますから段々通用しなくなっていたのと誤魔化しで繕っていた際に麻原が「オウム真理教」で阿含宗の信者の関心を誘った。
結構オウムへ流れていった人や新規で入信した人も多かったようです。
つまりは麻原は桐山氏を模倣したのと誤魔化しでいらだっていた信者らの気持ちや関心を見事にさらったというのがうまく行ったわけです。
だが麻原は桐山氏とは目的が違うため段々破綻していったのは皆様がご存知の通りです。

つまり一言で言えば桐山氏も麻原も「宗教はビジネスになる」とわかって企んだわけですね。
宗教を以って人を騙し貢がせる。そして教団と教祖らが儲けられるシステムを構築した。

本来は宗教は神聖なるもので崇高な目的や境地に至るものと思われがちだが、そうではなくそれらしく見せて騙していれば利潤が得られると彼らは見たわけです。
そしてその悪なる考えが通用してしまったわけです。

桐山氏は麻原のような破滅的な行為や思考はしませんが、人を騙して儲ける上では同様です。差は無い。
教祖となりて人の上に君臨し、信者を統率して操作する。上がりを受けて儲けとする。そのための嘘なら何でもやっているのが桐山氏です。
自分の名誉と地位と儲けのために様々な嘘をつき続け今に至ります。

ですから桐山氏がどういう嘘をついているかなどを見抜けばある程度の判断はつきます。
そのためにはまず正しい仏教の知識を知るのと批判側が言っている情報を検証する。

桐山氏のいうことと釈尊の教え、そして批判側の情報とを照らし合わせる。そうすれば最低でも真実は見えてきます。
それで不足なら仏教関連の書物なども交えて調べてみればいいでしょう。

本当に詐欺に遭わないで健やかな人生を歩んで欲しい。皆様と阿含信者さんにぜひそうして欲しいと切に願っている自分でした。(終)

ヤフー質問箱から(2)

2013-03-06 06:48:34 | Weblog
続きに参ります。

>補足

会員・信者には護摩ばかり伝授して、肝心の因縁解脱の方法なんか全然教えていません。

_______________


最近の阿含宗の動向として信者に護摩法を教えないとネタが無くなってきた、もしくは今までははぐらかしてきたがそれが通用しなくなって来たのでそろそろ後出しの弾として出していますが、それも良く見れば大した物は無い。
やはり小手先のごまかしと繕いで済ませているのが阿含宗のやり方です。

護摩ばかりといいますが、これはかなり伝法とかも出ていて有資格者だけの特権です。ですのでやはり骨格としては信者には護摩ばかりというには及んでいません。
やはり護摩は最後のネタであり多人数に伝授というわけには行きません。

ですが昔から比べれば「護摩を教えるぞ」という形は出してはいます。それは護摩焚きというものに関心を向けさせ誤魔化すために行っています。

例えば護摩を焚いたといっても法務部のようにいつも護摩を焚けるわけでは無い。必ず縛りがあります。

それこそありえませんが、熟達して信者が法の効験でも出して教団を立てられたらたまったものではない。
必ず阿含宗を超えるものや人は育成しません。

また阿含宗の護摩は真言宗の護摩とも違います。詐欺師桐山氏が作った創作物ですから効験が得られたらそれこそ奇跡です。
いわゆる「焚き火」というやつです。護摩壇というスタジオの中で焚いた宗教ごっこ焚き火ですから行じている本人や関係者は真剣かも知れませんが、法的には何ら意味は無くデタラメな作法によって火を焚いているだけです。

だから焚けるまでには大変なハードルがあり縛りもある。それをクリアして焚けたとしても効験も何も無い。
尚且つ一般信者で護摩法要に導師として参加できるほどの信者さんはまだいません。

こういう現実を見れば阿含宗はインチキを教える教団なのと縛りで絶対に信者には大きい場所には立たせないのがわかります。
結局は信者から金や物を搾取するのが目的ですからゲスト扱いやお客様扱いはするでしょうが、特待はしない。
必ず良い気分にはさせるかもしれないが、肝心なところは持たせない・やらせない。詐欺宗教教団ならではのライン引きがあります。

本当に因縁解脱を達成するための示唆はほとんど無く、信者を誤魔化してできるだけ貢がせるようにしている。
それに信者さんらがはまることで成り立つ教団です。護摩で釣っても釣られては成らないのです。

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>猊下自身が阿含教がお釈迦様が説いた唯一の教典で他の教典はどこの馬の骨ともわからない人が書いた偽物の教典だとバカにして起きながら猊下自身が准胝観音経を功徳があるからと進めるし、訳がわかりません。

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これは短く言いますと教祖は昔他宗を馬鹿にしていた。大乗経典は偽作経典でありそれを奉じているのが在来仏教の姿です。
尚且つ多くの大乗派が阿含経を小乗と馬鹿にし貶め世から抹殺した。

それに対し阿含宗は根本仏教聖典である「阿含経」を依経とし正当な教団であることを謳っているわけです。

しかし、これは建前や看板だけであり実際阿含宗は阿含経の中身を実践さえしていません。つまり阿含経を依経としているのは言葉上だけで中身の実践すらしてないのですから本末転倒です。
そしてそのままダイレクトだとさすがに嘘がばれますから、方便を持って繕っています。

その過程と阿含宗の前身である「観音慈恵会」の伏線で行っているので方便の上では一応辻褄が合います。
ですから准胝観音経を奉じ、准胝観音を本尊とし因縁解脱を目的としそのために成仏法云々とするのはそこなのです。

ただ全てを細かく調べて行き考察を深めると「どうにもおかしい」というのがわかってきます。
ですから信者さんにはこの考察というものを行わず、教祖の言うことだけを信じてくれるように仕向けます。
護摩などもその1つの方法といわれています。密教の様式を以ってというのも方便です。

基礎的に言えば仏教は釈尊の教えを講じる宗教です。つまりどこまで行っても釈尊というものを核に置き教えを講じなければいけない。
ところがその行為ではなくいろんなアレンジや繕いをしたもので補おうとするのが阿含宗です。
そしてその繕いこそが桐山氏の騙しの方法であり方便です。これらを使って嘘を正しい内容と錯誤させ信じさせる。
ここに長けていたのと自分たち一般人が仏教に疎いことをいいことに働いた詐欺手法なのです。

ですから質問者が書かれているように、釈尊の教えをクリアに真摯にやろうとすると必ず阿含宗の教義や内容が釈尊の教えと合わないことがわかってきます。
桐山氏の言い分を聞けば巷的にはそこそこ合います。ですが釈尊の説いた内容とは合わない。
そうなると釈尊が間違っているのか、桐山氏が嘘をついているのか、となります。

仏教の歴史や学者さんらの研究とを見てゆけばやはりどうみても釈尊のほうが正しいという方に軍配が上がります。
尚且つ桐山氏のやっていることは阿含経に書かれていないことです。

つまり阿含経=釈尊の言動録ですからそれを奉じているのに沿わない、ということは釈尊なんてどうでもいい、という悪行為を行っているということにも繋がります。
そうなると阿含宗が阿含経を依経なんて「口だけの嘘っぱち」ということになります。

逆に本当に阿含経の内容を講じれば護摩も占いも先祖供養も因縁解脱も無くなります。
准胝観音も密教も無くなります。つまり桐山氏のやっていることや内容がほとんどやらなくなる・不要に成るのです。

そうなるとやはり検証すればどちらが嘘をついていたか。釈尊の教えに逆らっていてデタラメをやっていたのは誰か?というのが明白に成ります。
こういうデタラメやインチキをやっているのが阿含宗という教団です。

准胝観音は観音ですから観音信仰となる。釈尊は観音信仰は説いていません。観音信仰というのは後世の人間らが考え派生したものです。
尚且つ日本では巷で奉じられる信仰でもある。

ですから阿含経とか関係なく正統仏教教団というのを名乗らずいち新興宗教として観音経を奉じ観音様を信仰する教団であれば問題は無いのです。
阿含経を依経とし正統な仏教教団であるのを名乗り、釈尊の教えを講じていないから批判し言われる(責められる)わけです。

ですから阿含宗というのは名ばかりで中身が無い教団なのです。
信者から金品を搾取して儲けるだけの新興宗教なのです。(続く)