天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

本当の仏教を知れば、嘘は判る。この強さを知る。

2018-07-01 01:12:22 | Weblog
今まで阿含宗を信仰する人が「このようである」とか「本当の仏教を知らない故に騙されている」と言う内容を飽きるほど述べてきました。

しかし、そのことは絶対的であり間違いではないのですが、どうも響いてない。理解が得れてないというのを最近知り合いから聞きました。

なので基本的なものは同じでも、見方というか見地を変えてみればまた違ったものが見える。もしくは理解が進むかもしれない、というのを感じ、その方向性を進めて行くことを行います。


まず今回話したいのは「桐山氏がついた嘘を信じた故の勘違いループ」です。


気づいたのは阿含宗信者が「仏教とは如何に」と聞かれると多くの人は「因縁解脱」と答えます。
なので、そこを自分が言って「それは間違いである」と今まで述べてきたわけですが、稀にこのように答える方も居ます。


「仏教とは解脱することである。涅槃へ入ることである」


このように答える人が数は少ないがいるのです。



この言葉だけを聞けば「仏教を知っている」と思いがちですが、教祖は嘘をついていますから肝心のところで間違える。
そこに気がつくかが「騙されている」の判別がつくところなのです。


では、その中身を見て見ましょう。


仏教はいつも自分が言っているように仏陀になって涅槃へ入ることが目的です。
まずこれを述べてきます。

しかし、それを述べてからこういう風に間違った方向へ話をしてきます。
そこを押えておくと、如何に間違っているか、どこが間違っているかがわかってきます。

仏教は仏陀に成って涅槃へ入ることが目的なのだが、それは簡単ではない。
涅槃へ入る前にまず仏陀という存在にならなければいけないからです。

その仏陀に成るためには、様々な修行をするのだがその修行を満了することが出来ないのが大半だという。
なぜか?それは仏教の修行は難解なため、成しえることが難しい。
また成し得るまでの間にその人の境涯や環境の問題。また自身が持つ悪業(過去世からの悪果)のために修行が頓挫するということがあり満了できないのだと説いてきます。

勿論これはベース的な話であって、この話を納得させるために尚も様々な話をしてきたりします。

例えば徳(有徳)・不徳に絡む話。因縁論を出してくる話。先祖供養の話などを出してきます。
これに対し何も知らない人は「もっともらしく聞こえ信じてしまう」と言う場合があったりするのです。

勿論頑なにその阿含宗で教わるところの内容に対し、拒否・反論してくる方もいます。
仏教的に、また理論的に見事に反論してくる人は稀ですが、そこまで出来ないとしても「自分はその考えに賛同できない」と言う形で拒否し、応じないという方がいます。

応じなければよろしいのですが、これがもしも阿含宗の持つ「嘘の内容」に絆されると、やられてしまう。
つまり「騙されてしまう」ということなのですね。これが本当によろしくないといつも私は説くのです。



さて、それらを見て行きますと本当の仏教を知る人からは、面白いほど嘘が浮き上がってきて「如何にも騙されているな」がわかります。


まずは、得意の因縁論です。いわゆる因縁解脱を説いてきます。


内容は色々説きますからそれはそれで説く方も一生懸命なので本当らしく聞こえますが、それに対して暴くことや拒否することも出来ます。
それはいつも自分が言っていること。つまり


「阿含経のどこに因縁解脱が書かれているか。またお釈迦さまが何経のどの部分にでもいいからそれが示されている箇所を説明・示して欲しい」と言えば、相手はそれを答えるために後日回答に保留するか、言葉を濁す・誤魔化すなどします。


要は答えですが、阿含経どころか、どのお経にも「因縁解脱」は説かれて(書かれて)いません。
仏教学的には「創作経典」と言われる阿含経以外のお経さえ、書かれていないのです。


これは誠に不思議なことですよね。


阿含宗ではお釈迦さまの持つ「成仏法」を元に修行をして成仏すると言う。そして因縁解脱を提唱しているのです。
ですが、今度は逆にこちらから

「では、その記述箇所や証拠を見せてください」と言われると、たちまち「出せなく」なります。

今まで熱弁していた「因縁解脱」が急に・途端に示せなくなるのですね。




どうしてこういうことになるかというと、教祖桐山靖雄のついた嘘を「嘘だと知らないで信じきっているから」なのです。
ろくに確認もしないで信じてしまって、教祖の言うことや内容を信じきって「覚える」



覚えたはいいが、今度はその「証拠を出せ」と外部に言われる。すると「じゃあ、それを出しますよ」とすると「無い」のに気が付く。
又は「無い」のを誤魔化すために色々方便をかますしか「方法が無い」のが実情です。



これは私も経験しているので、100%自信を持って言えます。
というか、それを過去に信者だった時期に2chで批判側に言われて「ようし待っていろ。出し示してやる」と燃えて調べた。


ところが調べたら無いのに気づきます。あれえ?変だなあ。
そう思ってくまなく調べるが、欠片さえもないのに気づく。


青くなったのは自分です。相手に「出せ」と言われて「出す」といった手前、引っ込みが付かない。


また、教団の関係物や教祖の著書などをくまなく調べるが、なんと一切その示そうとしているものが「ゼロ」なんですよ。
相手に言われて初めて気づく、という大失態を経験しているのですね。




そして時間を掛けて調べた結果、因縁解脱の示す箇所が全く無いことに気づき、尚且つ因縁解脱を提唱し説明した教祖の言動を確認したら、教祖が因縁解脱を「お釈迦さまが説いた」という風に言っている。
または、因縁解脱の理論を教祖が言っているだけで、お経のどこに書かれていて、という記述は一切無いことに気づきます。

いわゆる「騙されていた」のを知るわけですね。



だから因縁解脱の関係のことを言ってきたら、私が言うように「証拠を見せてください」とやる。


中には「じゃあ、あんたが「無い」と言うのだから、無いというのを見せなさい」とか、学者さんでもいいから「無いと言っている人の意見や文章を示せ」などと言ってくる場合が有ります。

これは全くの言いがかりや変な反論でして、それには取り合わないのがよろしい。



学者さんらでは学術面での物言いはするが、どこそこの教団に影響を及ぼすような物言い。つまり喧嘩でもなるような物言いはしないのですね。



そりゃあそうでしょう。もしも勇ましい学者さんがいて「巷で因縁解脱を説いているところがおありだが、あれは全くの間違い。仏教にそのようなものはありません」とやったらどうなるか?



阿含宗のみならず因縁解脱を説く教団は山ほどあるのですから、そこから叩き上げに遭う。
そんな多数と真っ向から喧嘩するような学者さんはおりません。



本当なら私からすれば喧嘩でもして嘘を暴いて欲しいものですが、そういう人はおりません。
もしもいたなら、とっくに日本からは「因縁解脱」は廃れるか消えていることでしょう。

そのほうが世のためなんですがね。




だから「因縁解脱などない。嘘っぱちだ」と言っている学者さんを示せ、とかその人の書いた文章でもいいから出せ、というのは応じなくていい。
むしろ「因縁解脱と言うのはね・・・」と言ってきた方が示すべきです。だから相手のそういう意図に応じず

「因縁解脱の正当性を述べてきたのはそちらではないか。むしろ有るといっている方が先に示すべきではないか」と言って応じなければいい。

またそれを糧にして「貴方の話は信じられないので、阿含宗の話をするならその因縁解脱が有ることを示してきてからにしましょう」といって切り返せばいいのです。



そうすれば嫌な話はカットでき、断ることができます。勧誘もです。
またうまく行けば相手が教祖に騙されていることに気がつくきっかけになるかもしれません。

これは高望み過ぎですけどね。




後は「徳・不徳に絡む話」やら「先祖供養」の話を出してくる場合がある。

これも教祖の受け売りで、全くのデタラメです。



どうしてそういうことがいえるかと言うと、教祖は阿含宗の内容、又は因縁解脱の理屈を信じ込ませようとしていろんな方便を使っています。
その中のもの(アイテム)ですから、嘘ばかりなんですね。



例えば「徳・不徳」と言うのを見れば、そのために悪いことが起きるとかいいことが起きるなんてのは「お釈迦さまは説いていません」
これも先の因縁解脱と同じで、お経のどこに書かれているかは示せません。

また仏教の要である「仏陀になって涅槃へ入る」のに「徳・不徳が関係する」という記述もありません。
そういうことをお釈迦さまが言うとすれば、お釈迦さま自体もペテン師ということになり、仏教自体も「嘘っぱちの教え・宗教」と成ってしまいます。

仮にそうだとしたら「仏教なんてやらない」方がいいのではないでしょうか?
無宗教だったり、もしも宗教を講じるなら、神道やらキリスト教など仏教以外の宗教で十分ではないのでしょうか?



先祖供養もそうです。特に日本人は昔から親や祖父・祖母など自分よりの年長の家族から受け継がれてきた流れなどがあります。
だから先祖を供養することは大事だよ、というのと、昔からの風習に従い倣う、というのがあります。


で、肝心の「供養は如何に?」となると千差万別であって、宗派によっても形式や行い・内容なども違います。
また阿含宗は阿含宗としてのものもあります。



それらをそれぞれによってやらされたら敵いませんよね。



そして一番の肝心なものは「巷にはお釈迦さまが説いた本当の仏教の示す”先祖供養”の仕方を教えているところは少ない」と言う事実があることです。
だから皆教団によってまちまちだし、言うこともやらせることも違うのです。



ですが、本当の仏教の先祖供養は自分たちの認識と全然違います。むしろ合致しているのは「お盆に家族や子孫らが集まって偲ぶ」と言う行為ぐらいです。



つまり本当の仏教の教える「先祖供養」は大まかに言うと


①故人を偲ぶ
②故人の遺業や生き様に倣い、良き点を学ぶ。又は実行する
③生きている親などは「生きている先祖」なのだから敬い尊む

これらです。


これをみるとどこにも「お経を読め」とか「真言を唱えよ」とか、供物を供えよも無いし、巷で見られる恭しい行為は見られません。



それこそ先に言いましたが、巷で行っている行為と共通するのが「お盆に家族や子孫らが集まって偲ぶ」というやつ。
実家などにお盆だから、ということで家族や親戚など一同が集まって、お墓や仏壇などにお参りし、その後家族で団欒するでしょう?

あの団欒などが「偲ぶ」になるし、また仏壇・お墓で冥福を祈る行為が「偲ぶ」なのです。



だからぶっちゃけ「お坊さんを呼んだり盛大に供物などを盛って」としなくてもいいのです。
仰々しくしなくても、心や頭の中で先祖を偲べれば「供養」になるのです。



例え、実家に行けなくても、墓や仏壇に参れなくても、心は先祖を偲んでいれば「先祖供養」になるのです。



だから私はこの内容を知ったときは「ぶっとび」ましたね。お釈迦さま、シンプルすぎって。




だけど、しばらく考えて唸りました。


「ああ。多くの寺院が色々供養だとお受けするが、それはある種商売になるからなんだな」


そう思いましたね。



だって、そうでしょう?本当の仏教の先祖供養を皆がやったら、今までの常識や風習に関係する寺院や商売になる仕事をしている人らは「商売にならない」



墓石屋さんだってそう。花屋さんだってそう。仏具やさんもそうでしょう。またお仏飯関係やら供物関係の商いの方も売り上げが下がる。
線香やロウソクもあげなくても偲んでいれば「供養になる」んですから、今までのセオリーで商いをしてきた人はたまったものではない。



むしろそれよりも巷の風習に倣い、

「生前故人が好きだったものを供えて上げましょう」とか「回忌供養しましょう」とか「お盆の法要をしましょう」とかしたら商売になる。

そしてそういうものが根付いてしまった、ということですね。で、多くの人がそれをやることが「供養」なのだと思ってしまった。



ですが、本当の仏教はそれは説いていないのです。



尚且つ、在来仏教はまだ可愛い方で、阿含宗の場合はやぶさかではない。



先祖が成仏してないということを語って、阿含宗式の供養をさせようとするからです。これが悪質なのです。



それが「解脱供養」と言う名目の供養を筆頭に様々各種の供養を行わせようとします。これが曲者です。





繰り返しになりますが、お釈迦さまはそういったものは説いていません。阿含宗教祖が勝手に作り上げた「供養」と言う名の「商売」なのです。



だから在来仏教では説かない「霊障」と言うものを持ち出して、供養しないと運気や運命に関わると言い、脅します。
なので、悪質なわけです。




お釈迦さまは霊障なんてものは説かないし、またそういうもので運が悪くなるなども言わない。
仏教はひたすら「仏陀になって涅槃を目指す」のですから、そういう邪道なことは言わない。



一方、阿含宗はオカルトだらけの内容で人を惑わします。またさも本当のような言い分で信じさせようとします。非常に悪質です。




だから先祖供養といって本当の内容を言わないところは皆アウトです。阿含宗はおろかどこの教団もです。



ただ、敷いて言えば阿含宗が非常によろしくない。なので述べているわけです。




というわけで、徳・不徳、因縁解脱、先祖供養色々言ってきますが、どれも本当の仏教の前では「嘘でありデタラメ」なんです。
本当のことを語ってたら私と同じ本当のことを語るのが「本物」なのです。



ですが、阿含宗は教祖桐山靖雄が「人々を騙して儲ける為に作った教団~詐欺宗教教団」ですから、嘘ばかりです。



だからもしもこのブログを読んでいる人で知り合いに阿含宗の関係者(信者)が居る方もいるでしょう。
その方々に入信を迫られ、又は入らないかと勧められているのなら、応じてはいけません。



そして自分が言ったことを参考にして、絶対に詐欺宗教の餌食になってはいけません。



ぜひ、皆さんが健やかに詐欺からの魔の手を浴びず、平和で安心して暮らせる時間を得れるようにと願っています。

今日はここまで。