私の以前所属していたA宗での欺瞞の酷さに退会してフリーな状態の自分ですが、やはり私の加入の原動だったのは「先祖供養」がありました。特に日本は多くの方が先祖供養を何らかの形で行っていると推察いたしますが、特に目に付くのは「葬式仏教」と呼ばれる仏教の法要です。
私は高校生のときに「葬式では成仏できない」という感知があり、それゆえ道を求めてきました。しかしながらそれがA宗でも果たせない、となればどうなるのか?という考えも出てきます。
私は7月に弟を亡くしましたが、その際も当然自分では嫌でしたが親の関係もあり葬式はしました。もしこれが弟と二人っきりで親が居なければおそらく葬式はしませんでしたね。
比較対象として以前過去にキリスト教の葬式?を見たことがありました。
そこではお経は当然唱えない代わりに「鎮魂歌」を歌ってましたね。
つまり、故人は死して神の元へ行くので、そこにはそういう概念のために暗さはありませんでしたね。お別れに適した歌を捧げる、という形は私も好印象を感じましたね。
ただ、これが成仏となればまた趣は変わってきます。
しかし、それをキリスト教にまでぶつけても水掛け論ですし、意味の無い論議なので当時は行いませんでした。
で、私が思うのは仏教から成仏云々を取れば、キリスト教とさほど変わらなくなってくるのを感じたことです。
釈尊在世の様子を記した原始経典などに見られる釈尊の様子を見ていると、お経を唱えたり、何かまじないめいた儀式~葬式~というものを行っていないのがわかります。そうすると、それほど偉大なお方がそういうことをされておらず、冥福を祈っているかのような静けさに私は当初違和感を感じました。
そうです。それは現代にしっかりと残る葬式仏教が嫌というほど染みこんでいるからです。しかし、それを取り去ると残るのはやはり黙祷というか冥福を祈る静かな姿勢などしかないのです。
私も腹いっぱいお経や真言を唱えた輩です。弟や先祖が喜ぶのならいくらでもお経を唱えてやろう、そういう気持ちは今でもあります。
しかしながら、それをやっても喜ぶという保障は無いのです。だからやらない。
結局葬式というのは生きた人間が行うもので、死んだ人間が行えません。
逆に私が亡くなったら「お別れ会で沢山」と妻に今から言ってあります。
私が下宿していた時期にそこの大家さんが毎朝読経しているのですが、当時一生懸命だなあ、と感心したものです。やはり、大家さんも先祖供養をしたい。つまり、先祖が喜んでくれている・供養が届くと思っているからやっているわけで、これが死者側から見たら「別段何の効果も無い」としたら果たしてどうなさるでしょうかね?
先祖を思う気持ちとやる行動が一致しないことに、疑問を感じる自分でした。
私は高校生のときに「葬式では成仏できない」という感知があり、それゆえ道を求めてきました。しかしながらそれがA宗でも果たせない、となればどうなるのか?という考えも出てきます。
私は7月に弟を亡くしましたが、その際も当然自分では嫌でしたが親の関係もあり葬式はしました。もしこれが弟と二人っきりで親が居なければおそらく葬式はしませんでしたね。
比較対象として以前過去にキリスト教の葬式?を見たことがありました。
そこではお経は当然唱えない代わりに「鎮魂歌」を歌ってましたね。
つまり、故人は死して神の元へ行くので、そこにはそういう概念のために暗さはありませんでしたね。お別れに適した歌を捧げる、という形は私も好印象を感じましたね。
ただ、これが成仏となればまた趣は変わってきます。
しかし、それをキリスト教にまでぶつけても水掛け論ですし、意味の無い論議なので当時は行いませんでした。
で、私が思うのは仏教から成仏云々を取れば、キリスト教とさほど変わらなくなってくるのを感じたことです。
釈尊在世の様子を記した原始経典などに見られる釈尊の様子を見ていると、お経を唱えたり、何かまじないめいた儀式~葬式~というものを行っていないのがわかります。そうすると、それほど偉大なお方がそういうことをされておらず、冥福を祈っているかのような静けさに私は当初違和感を感じました。
そうです。それは現代にしっかりと残る葬式仏教が嫌というほど染みこんでいるからです。しかし、それを取り去ると残るのはやはり黙祷というか冥福を祈る静かな姿勢などしかないのです。
私も腹いっぱいお経や真言を唱えた輩です。弟や先祖が喜ぶのならいくらでもお経を唱えてやろう、そういう気持ちは今でもあります。
しかしながら、それをやっても喜ぶという保障は無いのです。だからやらない。
結局葬式というのは生きた人間が行うもので、死んだ人間が行えません。
逆に私が亡くなったら「お別れ会で沢山」と妻に今から言ってあります。
私が下宿していた時期にそこの大家さんが毎朝読経しているのですが、当時一生懸命だなあ、と感心したものです。やはり、大家さんも先祖供養をしたい。つまり、先祖が喜んでくれている・供養が届くと思っているからやっているわけで、これが死者側から見たら「別段何の効果も無い」としたら果たしてどうなさるでしょうかね?
先祖を思う気持ちとやる行動が一致しないことに、疑問を感じる自分でした。