天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

嗚呼、先祖供養

2009-10-30 08:17:54 | Weblog
私の以前所属していたA宗での欺瞞の酷さに退会してフリーな状態の自分ですが、やはり私の加入の原動だったのは「先祖供養」がありました。特に日本は多くの方が先祖供養を何らかの形で行っていると推察いたしますが、特に目に付くのは「葬式仏教」と呼ばれる仏教の法要です。

私は高校生のときに「葬式では成仏できない」という感知があり、それゆえ道を求めてきました。しかしながらそれがA宗でも果たせない、となればどうなるのか?という考えも出てきます。

私は7月に弟を亡くしましたが、その際も当然自分では嫌でしたが親の関係もあり葬式はしました。もしこれが弟と二人っきりで親が居なければおそらく葬式はしませんでしたね。

比較対象として以前過去にキリスト教の葬式?を見たことがありました。
そこではお経は当然唱えない代わりに「鎮魂歌」を歌ってましたね。
つまり、故人は死して神の元へ行くので、そこにはそういう概念のために暗さはありませんでしたね。お別れに適した歌を捧げる、という形は私も好印象を感じましたね。

ただ、これが成仏となればまた趣は変わってきます。
しかし、それをキリスト教にまでぶつけても水掛け論ですし、意味の無い論議なので当時は行いませんでした。

で、私が思うのは仏教から成仏云々を取れば、キリスト教とさほど変わらなくなってくるのを感じたことです。
釈尊在世の様子を記した原始経典などに見られる釈尊の様子を見ていると、お経を唱えたり、何かまじないめいた儀式~葬式~というものを行っていないのがわかります。そうすると、それほど偉大なお方がそういうことをされておらず、冥福を祈っているかのような静けさに私は当初違和感を感じました。

そうです。それは現代にしっかりと残る葬式仏教が嫌というほど染みこんでいるからです。しかし、それを取り去ると残るのはやはり黙祷というか冥福を祈る静かな姿勢などしかないのです。

私も腹いっぱいお経や真言を唱えた輩です。弟や先祖が喜ぶのならいくらでもお経を唱えてやろう、そういう気持ちは今でもあります。
しかしながら、それをやっても喜ぶという保障は無いのです。だからやらない。
結局葬式というのは生きた人間が行うもので、死んだ人間が行えません。
逆に私が亡くなったら「お別れ会で沢山」と妻に今から言ってあります。

私が下宿していた時期にそこの大家さんが毎朝読経しているのですが、当時一生懸命だなあ、と感心したものです。やはり、大家さんも先祖供養をしたい。つまり、先祖が喜んでくれている・供養が届くと思っているからやっているわけで、これが死者側から見たら「別段何の効果も無い」としたら果たしてどうなさるでしょうかね?

先祖を思う気持ちとやる行動が一致しないことに、疑問を感じる自分でした。

今日も元気に、と思ったら?

2009-10-27 21:14:04 | Weblog
昨日夕方に東京から戻り、その後諸用で動いたら自宅で落ち着いたのは夜9時。
時間の過ぎるのはあっという間です。

今日は自分のことを行おう、と思ってたら身体が不調。
あれれ?予想外なので意外でした。

どうやら疲労と緊張からきた体力低下と少々風邪を引いたようです。
なので、昼間は休養を取ってました。

今まで有る程度の緊張があって、ピークは東京での一泊二日だったので、それが終わったのできっと反動が来たのです。
でも、意識して「今日まで緊張せねば」とは思ってなかったのですが、知らないうちに力んでいたのでしょうね。いきなりふぬけになってしまいました。

でも、今後の人生もありますので、へたってはいられない。
また、歩き出します。

今日は休養のために一日をほとんど潰した一日でした。

想いをつづる

2009-10-26 03:05:02 | Weblog
今日はいつもの宗教批判ではなく、日記としてみてください。
@chsにも書きましたが、実は今東京にいます。昨日来ました。

なぜ、来たか? それはこのブログでも前に書いてました身内が亡くなったと書いていた身内というのは実は私の弟でした。

今年の7月に亡くなり40歳の若さで大腸ガンで亡くなりました。
昨年の10月に入院・手術をしてから3回の手術、また抗がん剤などの治療も効かず、亡くなりました。

弟は高校を卒業後、東京の大学を出て2年追加の大学院を経て念願の教師になりました。そして、地元に帰ってきて教師をしていました。
でも、まさか、その16年後に亡くなるとは誰も予想ができませんでした。

その大学時代の有志の方々が、わざわざ弟のための「偲ぶ会」を催してくださり、それに列席するために私と母が東京に来た、ということなのです。

本当は都合が微妙でして参加を断ってたのです。ですが、一週間前になって急に都合がついて許可を得て参加、となったのです。

私も東京へは22年ぶりでしてすっかり以前と変わってしまっています。
かなり都会に進化されておりますね。

弟はこの東京で何をしてどのように生きたのか、私には大まかなことしかわかりません。しかしながら、このようにいち一人の人間が多数の人間に愛されて偲ぶ会というのをやっていただけたことは、誠に感慨深く、光栄であります。

もしも、私が死んでもこのように会など開いていただけることはありません。
弟はやはり人を大事にし、接したからこそこうやって死しても尊まれることを得られたのだと思います。

そして、弟のことで本当に久々に東京に来れたこの現実を見つつも、弟が6年間過ごしたこの東京の地に私が今いるということをかみ締めている次第です。

同志が居たら、と思うけれど

2009-10-25 05:02:48 | Weblog
私は長年所属していた宗教法人を辞めて、今はフリーの状態です。
まあ、在籍していたときから宗派の矛盾項目に疑問を感じて居たときから「独り者」であったとはいえるのですが、現在は本当の意味での独り者になっております。

やはり、長年人と一緒だった流れがありますので、さすがに「全く平気」というわけではありません。しかも、在籍の時は一緒になって燃えてた友も居ましたから、その友と反対の道を行くのですから、独りになるのは寂しくないというのは嘘になります。

しかしながら、真実を追い求めるために辞めたのだから寂しいだのと言ってられません。むしろ、寂しいからと言って欺瞞に満ちた世界でぬるま湯につかる気は無い。その方が嫌だと決めたから辞めたのですからね。

まあ、こういう状態よりも一人でも「同志がいたらなあ」とは考えたりします。
しかし、そう思う反面こういうのを思い出したりします。

「修行とは一人道なき道を歩むが如し。誰に依ることなきぞ正しき。依るべきは自分のみぞあらんや」自灯明とはそういうものです。それを選んだ自分は自分の足で立ち、自分で進むしかないのです。

今日もその自灯明の厳しさと向かい合いながら生きている次第です。

Webでも責任は生ず

2009-10-24 09:56:39 | Weblog
ふと思ったことですが、Webでは何でもありの世界だ、と言われています。
自分の思いや意見を軽々といつでも書け、特に匿名性を醸せば尚更自由に批判もでき、非常に容易い。

しかし、安易な発言は処罰の対象にもなり、全くの野放しということでもありません。先ごろ宅 八郎さんが逮捕だか送検というニュースがありましたが、あれなんかいい例です。一見自由に見えるWebの世界も万全な自由ではないのです。

ですから、発言するに当たって自分が責任というか腹をくくって言えるだけのものを持つか、意見を出さなければ単なるやっかみでしかない。
また、意見を出すに当たって文証を出さねばならないときだって有るのです。

自分が見た・聞いただけではダメなのです。
そういうことも知らずに大の大人がただ、「こうなのだ」という主張ばかりでは貴方一体おいくつ?また社会の先輩として恥ずかしくないか?と言われます。

やはりちゃんとした意見を言うに当たって様々なものがありますが、やはり自分で責任を取れるような内容や姿勢をとるというのは必要だなあ、と思った次第。

単なる批判や悪口は誰でも言えるし出来るが、責任などはなかなか取れるものではない、ということを感じた自分でした。

自己の責任というけれど

2009-10-21 22:03:56 | Weblog
世の中の大半の事項は「自分の意思で選択する」ということが有るわけですが、確かにそのことはありますし理解できます。世の中のほとんどが自分の行動や判断によって決める・選ぶということに於いて自らが責任を持たねばならないし、負わねばならない。それは当然の事であります。

しかし、物事の全てが自己責任と言い下すのはさて、どうなのか、と思います。
それは自己責任を負えない事項も世の中には有るからです。

まず、自分がこの世に生まれてきたことです。
親を選べないし、環境も選べない。これは自己で選択できない事項です。
次に、事故や事件、災害などは特にそうです。自分の判断や選択ということでない事項は自己責任とはいえない。

災害は台風や地震などが有名ですが、そういう類のものに対し「自己責任」とはいえない。自分がいくら真面目で何らかの対応をしたとしても責任など取れはしない。

確かに私の申したのはある宗教が方便のために占いや護摩を用いてもいいじゃないか、という意見に対し物申したことであるが、それに対し自己責任ですよ、というのはわかるが、ではその選択した人にそういういい方で済ませるのか、ということです。

仮に有る人が何らかの宗教を信じ、被害を被ったとします。
で、私はそういう宗教に手を出していなかったとします。
でも、その手を出した方に対して、自己責任だ、とは言いません。

なぜならたまたま手を出さなかった・興味が無かった・存在さえ知らなかった、などで手を出さなかっただけであって、それに対し手を出した方へ自己責任と言い放つのはあまりにも冷たい言い方です。
その言い放ったかたは自分もそういう宗教に手を出していて他人からそういういい方をされて気分がいいか?と問いたい。自己責任という言い方は正論ながら、あまり感じの良い言い方ではありませんので反論を申す次第です。

だから何も言うな、ということでもありません。言い方がさて?と思うだけです。
もしも、同じ言い方を申すなら、

「ある程度の大人になれば、社会に出れば自己責任というのが問われます。如何にこの世の中に詐欺やインチキのようなものが宗教でなくても存在するか、と見ればかなり多いのがわかります。それだけ世の中は様々なトラップがあります。ですので方便ありの宗教があろうが、詐欺だ、インチキだというものであろうが、それを選択するのは個人の判断に依るものが大きく、故に自己責任というものが課せられます。ですので、自分の責任に於いて判断・選択することが肝要と思います」

というのなら私も異論を問わない。
一行だけの端的な意見を述べて、さも自分が正論を申しているぞ、というような姿勢が遺憾に思うのです。

せめて自分はこう思う、という理論や理屈ぐらいは述べてから結論を申しなさい、といいたい。人が散々語った後で「自己責任ですよ」というのは誰でも出来る。
そういうヤジに近い意見は誠に遺憾だ、と思う次第です。
というか、失礼な意見だと思いますよ。

長く意見を述べろとは言わないが、せめて2・3行でも意見らしい意見を申したらどうですか、という気持ちです。

少なくとも私は一行で述べて、それ正論だから悟れ、というような意見の仕方はしないし、方便活用論に対し「全ては自己責任だから方便があってもいいんじゃね」とは言わない。そのための反論に対し泥を塗られた気分です。

文章はなるべき短く要点を示す方がいいけども、あまりに端的でタイミングが良くないものは良い感じを受けません。そう思いここでまた私見を書かせていただいた次第です。

拝まずにはいられない??

2009-10-14 16:02:55 | Weblog
いま、思い出したのですが、依存に傾倒する人の癖として、不幸になるとわかってても不安のほうが嫌で不幸を選ぶ人がいる、というのを思い出しました。
つまり、間違った信仰があったとします。そこに依存している間はそれから離れると不安で不安で仕方が無いのです。なので「わかっちゃいるけどやめられない」という行為をしてしまうのです。

あと実際例も挙げると、DVで苦しんでいる女性が居ますが、普通そんな暴力男性とさっさとおさらばして自由になればいいのに、日々泣きながらもその男性から離れない女性が居ます。これも典型的な例です。

現状を見れば痛い目に遭っているのだからどう考えてもそういう男性と一緒にいるほうがおかしいのだが、あれこれ理屈を付けて離れない。つまり、離れると不安で不安でしょうがなくて、そちらのほうが別れて孤独になるより良い、と錯誤してしまうんですね。これは自立出来ない故にDV男性のほうに依存している現われなのです。独りでは生きてゆけない、と不安が恐怖になるのです。

信仰のほうに話を戻しますと、拝んでないと不安でしょうがないんです。
朗々と、または精魂込めて拝んでないと不安になる。
全ての人がそうだとは言いませんが、心当たりがある方はその傾向があります。

私もA宗を辞めてかなり空虚になった。強依存からは離れたのだが、どうも落ち着かないのを経験しているから、私も少なからずそういう傾向はあったのですね。
しかし、それを納められれば何も怖くは無い。
不安に駆られてUターンする人も居ることと思います。

辞めてわかったことは、拝む行為よりも自分というものをしっかりもって心を強くすることです。どうしても隙が有ると何かに頼りたくなります。
それが宗教でなくても、物や金でも同じことです。

依存からの脱却が仏教にもありますが、それを在来仏教はあまり説かない。
拝むことを勧めている状態です。

本当の仏教というものと、宗教抜きにしても自立心を確立するこの行為が意外と大切なことであると再認識した自分です。

世の中おかしいぜよ

2009-10-11 05:45:54 | Weblog
ノーベル平和賞でオバマ氏に、というのを考えるに付いて情けなさが出るんだがどうですかね?

私は個人的にノーベル賞というのはその色々な事項に貢献した方に送られる賞だと認識していたし、そういうのでいただける権威有るものだと思ってたのですが、それも違ったようですね。何ですか、今回のは。

つまり、私は演説とかしか行ってない、つまり成果や結果を出した人でないオバマ氏に早々と授けたのが呆れかえる訳です。
いろいろとやった人に対して授けるのが本当でしょう?

例えるなら、マザーテレサさんなどやガンジーさんとかならわかるんですよ。
まあ、あまり有名すぎるから敷居は高いが、でもオバマ氏はまだ演説の段階でしょうが。それで貰えるなら世の中でいくらでもいい事をしている人などかなり居ますよ。それがアメリカの大統領で少々良い発言をされたから授与??? 全くナンセインスですね。というか、審査や背景を疑います。

ノーベル賞も地に落ちたな、という心境ですね。
まあ、はなから相手にしなければいいのでしょうが。
勝手に褒め称えてやっていればいいのでしょう。

私は実績を出した人へ賞は授けるべきだと思いますね。

無宗教のほうがいいか

2009-10-10 07:57:42 | Weblog
いわしの頭も信心、宗教はアヘン。この言葉は私の大嫌いな言葉の中のものですが、最近は「こういう風に言われても仕方ないか」と思ったりします。

宗教こそが道徳を超えて人間というものを良く改善する・向上させる唯一のものだ、と思ってたのですが、多くの宗教はその意味を果たしてないと私は最近思います。

日本人は良く外国の方から見れば「無宗教の人が多い」と言われ続けていますが、当時は「恥ずかしいなあ」と思ったものですが、今は逆に「どこかの宗教の属しても素晴らしい行為をしてなければ意味ねーじゃん」という思考になっています。
つまり、どこかの宗教に属すとか講じているのがいいのではなく、ちゃんとした宗教人でありながら、立派な人間であるかのほうが大事だからとわかったからです。

第一ね、何とか宗や教に居たって悪いことをしていたり、良くない行為をしているのなら何の意味や誇張できますかね?
無宗教だから何をやってもいい、とは言いませんが、宗教をやっていながら己の性格も行動も良く成れないのなら、何の意味が有るのか? ただの格好付けだけじゃないか、といえるからです。

それぞれの人が何の宗教をやろうが属そうが、要は講じている人の姿が要なんです。それが出来なのなら無宗教を馬鹿にするのも愚か、ということになろうかと。

かえって無宗教でいながら、捉われない広い心で生きてゆこう、と思える今の自分がそれですね。

意見を言えない人も居る

2009-10-09 11:28:13 | Weblog
私は@chsだけでなく、したらばという掲示板も管理しながら参加していますが、そこでA宗及び管長の過去におこした?であろう奇瑞のことに賛成する側の人間ですが、それに賛同する人がいながら私見も出さないというのは困ったものですね。2chなのでよく見る「自分がそう思ったからいいんだ」的な人間にしか思われないですよ。

批判派は良く考え、また良く観察・分析しながら発言をしている。ここに彼らの凄さが垣間みます。なぜなら、自分の想像や雰囲気だけで物を申してないからです。また、反論や意見に対するデータも凄い。

それに対し、いや、そうじゃないんじゃない?という人がいるのは私もそちら側の人間だからわかりますが、誰も出してこない・・・さてさて、という感じですね。

たとえ論破されたとしても、自分はこういう理由や現象に対してこう思う、ぐらいは言わないと、想像で物を言っているかA宗や管長が好きだから、という風にみなされるかと。

まあ、私はそういうのが嫌ですから後で書き込みますが、やはり意見は意見で言わないと悔しさだけが残りますよ、と思うのですが、いかがですか?