黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

岩槻城の戦国

2010-09-15 23:53:49 | 歴史系(ローカル)
先週、さいたま市岩槻区の岩槻城址公園に行った。
岩槻城は室町時代末から明治維新まで
機能していた城で、築城したのは太田道灌とも
彼の父・太田道真とも成田氏とも言われるという。
(成田氏は後に忍城主となって石田三成の水攻めに
抵抗することになる一族である。)
岩槻城がたどった運命は、大雑把に考えると
川越城(現・埼玉県川越市)のそれに似ている。
どちらの城も室町時代末に建てられ、
初期の城主たちは小田原北条氏に抵抗していたが
やがて城主が変わって小田原北条氏の支城になり、
その北条氏が戦国時代末期に秀吉に屈すると
両城は家康のものになって、
江戸時代になってからは譜代大名の統治のもと
江戸の北の守りとしての役目を負うことになったのだ。
なお、現在のさいたま市岩槻区と川越市には
少なくとも2つの共通項があるらしい。
まず、区の花・市の花が共に山吹であること
(太田道灌の山吹伝説にちなんだためだろうか)、
それと江戸時代に使われた「時の鐘」なるものが
保存されていることである。
いま残されている川越の「時の鐘」は
明治時代に改鋳されたものだが、
下の画像の岩槻の「時の鐘」の鐘はもっと古いらしい
(1720年に改鋳されたという)。



ところで、私が岩槻城に行ってみたくなったのは
前々回にこのブログで太田資正・氏資親子を
少し話題にしたからだった。
彼らは太田道灌の養子・資家の孫と曾孫だったが、
曾孫の氏資が親父を追い出した3年後の1567年に
20代前半の若さで戦死してしまった。
この戦いを三舟山合戦といい、
氏資の命を奪った敵は資正と盟友関係の
里見氏(房総の戦国大名)であったという。
(三舟山は千葉県君津市と富津市の境にあるらしい)
氏資は少なくとも実の息子を残せなかったようで、
結局、この岩槻太田氏は氏資の死後
小田原北条氏に吸収され、
岩槻城も小田原北条氏の支城と化した。

さて、先週の岩槻城跡の様子を述べるとしよう。
岩槻城の本丸・三の丸などといった
跡地のほとんどは市街地と化してしまっているが、
戦国末期に秀吉との戦いに備える目的で造られた
出丸(新曲輪と鍛冶曲輪のこと)は
史跡公園として現在も残されている。





そして、新曲輪と鍛冶曲輪の間と思われる
上図で示した地点からは発掘調査の際に
「障子掘」が見つかったため、
現在下図のように「障子掘」が復元されている。



「障子掘」とは小田原北条氏が得意とした築城術で
堀のなかに等間隔の畝を設けたものである。
(往時の堀は上図よりもさらに深く、
畝の高さももっと高かったと思われる)。
記憶が正しければ、この畝には
堀のなかに落ちた敵兵の動きを妨げ
彼らを殺しやすくする効果があったらしい。
なお、新曲輪だったところには現在
岩槻城の「黒門」と「裏門」が移築されている。
いずれの門も往時にどこに設置されていたのか
詳らかではないようだが、設置された年については
「裏門」は1770年に修造され1825年に
修理されたことが分かっているという。






1590年になると、ほぼ全国を統一した
豊臣秀吉が小田原攻めを開始し
当時の小田原城の支城たる岩槻城にも
豊臣・徳川勢の攻撃に立ち向かう時をむかえた。
敵なる豊臣勢は浅野長吉・木村重茲ら、
それに徳川の部将・本多忠勝と平岩新吉と
鳥居元忠の総勢2万であったという。
このとき、岩槻城は5つの小田原の支城
(岩槻・鉢形・八王子・忍・津久井)のなかで
最も要塞堅固とされていたそうだが、
「多勢に無勢」だったのか実力が違ったのか
あるいは岩槻城に通ずる浅瀬のような隠れ道が
ある事を敵にバレでもしたのだろうか、
城主なき岩槻城を守っていた城代・伊達房実は
敵の攻撃が始まってからわずか二日で
降伏せざるをえなくなり、
ここに岩槻城は落城することとなった。
当時の岩槻城主・北条氏房たちがつめていた
小田原城まで秀吉らの手に落ちたのは、
それから2ヵ月後のことであった。


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