だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

二つの物語

2015-01-03 18:53:27 | Weblog

「そういうわけで、ピュタゴラスだったという、あの雄鶏をいくら褒めても褒めたりません。この雄鶏は、一身にしてあらゆるもの、つまりは哲学者、男、女、王、平民、魚、馬、蛙、それに海綿にまでなったと思いますが、いかなる動物も人間ほど悲惨なものはないと判断するに至りました。ほかの動物はすべて自然が与えてくれた境遇に満足しているのに、人間だけが定められた境遇を踏み越えようとしてるからだというのです。・・・そういう次第で、人間の中で知恵を深めることに鋭意務める者が、幸福からは最も遠ざかるのです。こういう愚かに輪をかけて愚かな連中は、人間として生まれながら自分の分際を忘れて、神々の生活を得ようと、巨神族の例を真似て技芸・学芸という機巧(からくり)を用いて自然に闘いを挑むのです。ですから、できるだけ動物の本性と愚かさに近づき、人間の分際を超えるようなことは何一つ企てたりせぬ人たちこそが、最も不幸ではないように思われます。」エラスムス『痴愚神礼賛』中公文庫p.88-89

 キリスト教神学者エラスムスがこれを書いたのは1508年、近代科学技術という技芸・学芸の祖と称されるニュートンが生まれる130年も前の話である。今私たちが問題にしている社会の持続不可能性というのは、近代科学技術によって豊かな社会を手に入れた私たちが直面している、その文明の限界と衰退ということである。定められた自然の制約を踏み越え、地下資源を利用することでもたらされる豊かさによって、幸福になれると私たちは素朴に信じてきたのであるが、すでにその何百年も前からそれは「幸福から最も遠ざかる」と指摘されていたとは、感慨深いことである。

 この物語と共鳴するのが、宮崎駿『風の谷のナウシカ』(漫画版・徳間書店)の未来の物語である。これは「火の7日間」という大戦争によって荒廃し、近代文明が崩壊したあとの地球で生きる人類の物語である。人間は毒を放つ腐海と呼ばれる森と蟲の世界のそばでその脅威にさらされながら暮らしている。残った土地をめぐって戦争の行なわれる凄惨な戦場が物語の舞台である。
  ナウシカが謎解きをするのは、森、蟲、人間の秘密。毒によって汚染された大地を森が少しずつ浄化していく。「火の7日間」戦争によって絶望の淵に立たされた人類は、それまでの叡智を結集して、大地を浄化するプログラムを実行していた。すなわち、蟲を含めた森の生き物たちは浄化のために働く生態系を構成するために人工的に作られた生き物であり、人間も毒のある世界に適応できるよう身体のつくりを人工的に変えられていた。浄化プログラムが成就するとき、人間を含め、それまでの生き物たちは死に絶え、新たな生き物、すなわちもとの清浄な世界で生きていた生き物たちが復活し広められる。そのプログラムは「神」となり、秘かに世界に君臨していた。

 ナウシカが挑むのはその偉大な智恵である。「目的のある生態系・・・その存在そのものが生命の本来にそぐいません」。生命は(人工的につくられたとものとしても)それ自体としての輝きをもっている。ただしそれは闇から生まれ闇に帰るものとして。「王蟲(おーむ)のいたわりと友愛は虚無の深淵からうまれた」とナウシカは主張する。その運命は人工的なプログラムにではなく、生命それ自体に委ねられるべきものである。世界の浄化という光に対して、ナウシカは闇の体現者としてたちあらわれる。最後には、火の7日間をもたらした最終兵器である「巨神兵」の力を借りて、浄化プログラムを破壊する。

  近代文明の前と後の二つの物語が提示するのは、私たちが社会のさまざまな問題を解決しようとするそのやり方についての根本的な問いである。その象徴として、例えば原発事故がある。近代科学技術という技芸・学芸のひとつの到達点として原発があり、その結果として大地が放射能で汚染された。その現実に対して、また同じ技芸・学芸の枠組みの中で解決と再生を求めるのが妥当なのだろうか。これほどの事故であっても誰もその責任を問われていないように、近代科学技術とそれを支持してきた私たちも、その根本的な反省には向かっていないのではないだろうか。これは私たちが前提しているものを問うという難しい課題である。

 再びエラスムスの言葉に耳を傾けよう。
「自然というものは、われわれ死すべき運命の人間が、その分際を越えようというような気を起こさぬかぎり、なんであれ欠けることなく与えてくれます」(エラスムス前掲書p.86)
つまりその手がかりは実は日常生活の中にたくさん隠れているようなのである。


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