だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

ホ・オポノポノ

2010-08-08 20:37:07 | Weblog
 電車に乗っていて、高校生くらいの少女たちが楽しそうにおしゃべりしている。箸が転んでもおかしい、という年代だ。その一人の屈託のない笑顔とふと、目があってしまった瞬間、こちらも思わず笑顔になってしまい、あわてて真顔になおした、というような経験は誰しもあるのではないだろうか。

 イハレアカラ・ヒューレン他著『ハワイに伝わる癒しの秘法 みんなが幸せになるホ・オポノポノ 神聖なる知能が導く心の平和のための苦悩の手放し方』徳間書店2008年を読んだ。「『ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています』たったそれだけの言葉で、誰にでも、いますぐに、簡単にあらゆる問題が解決できる奇跡の秘法ホ・オポノポノ」という内容紹介を見て、読まなくても内容はだいたい分かるとタカをくくっていた。しかし読んでみたらやっぱりよかった。
 困ったことになっていたり、悩んでいたり、あるいは周囲に迷惑なことをするなど問題を抱えている知人がいたら、その人のことを思いながら、心の中で「ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています」と唱える。そうすれば、その人の抱えている問題は解決する、という話。対象は知人に限らず、見ず知らずの人でも、遠くの国の人々でも、さらには他の動植物、はては建物や自動車などの人工物まで。
 筆者はカウンセラーをやっているが、クライアントの名前が分かれば、会わなくてもホ・オポノポノができる。このやり方で、クライアントが会いに来たときにはもうその人の問題は解決されていて、カウンセリングの場では本当は話を聞く必要すらないという。

 その哲学は意外と深淵である。個人的な問題でも社会的な問題でも、そこに問題がある時に、それは100%自分の責任だと認識するところがスタートである。知人が病気になったのも、友だちのお父さんが失業したのも、はてはアフリカで飢餓があるのも、中東で戦争が起こるのも、私の責任である、と考えるのである。本来、人間は何者にも制約されず天然自然に生きていれば、何も問題を抱えることなく幸せに生きていくことができる。しかし、さまざまな問題が発生するのは、私の(その人の、ではなく)中にあるその人の「記憶」が、その人の足をひっぱって問題を起こさせている。なので、問題を解決するには、私の中にあるその人の「記憶」を消す必要がある。
 「記憶」を消すには、私の中にある「内なるこども」インナーチャイルドに語りかける。「ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています」と。そうすれば、私のインナーチャイルドが安心して、私の中のその人の記憶を消し、その結果、その人の問題が解決する、という理屈である。

 この話を聞いて荒唐無稽と思うひとと、そのとおりと思うひとと、はっきりと分かれるだろう。なぜアカの他人の自分とは何の関係もない問題が、自分の責任なのか?現代の常識で考えれば理解できないだろう。
 私は「そのとおり」派である。理解できるできないはおいておいて、もし人々がみんなそのように考えるならば、世界が抱える様々な問題はすべて解決できる、と思うからである。逆に多くの人がそうは考えないならば、世界の平和はけっして達成できないだろう。
 この世の中は人と人の縁で動いている。人と人がふれあう時、その関係が幸せで好ましいものか、それとも怖かったり打算的なものだったりするかで、世の中のあり方が変わるだろう。そして、私のあり方が目の前の人のあり方を決める。私が不機嫌なら、相手も不機嫌となる。私がにこやかなら、相手もにこやかである。アカの他人でも、冒頭に示したの例のように、本来の笑顔と目が合えば、自然にこちらも笑顔になるのである。
 逆に過去のいろいろなかかわりの中で、私がその人に対して悪い印象を持っていれば、それが態度に出る。事態はますます悪化する。ホ・オポノポノで私の中のその人の記憶を消す、というのは、そのようないきさつから私を解放し、その人に対する私の態度を天然自然のものにリセットする、ということであろう。そして天然自然な態度とは、それが誰でも誰に対してでも、箸がころんでもおかしい少女のような、にこやかな笑顔であろう。すべての責任は私にある。これが私なりのホ・オポノポノの解釈である。

 このやり方がおもしろいのは、いつでもどこでも、苦労しなくてもできる、ということである。これはイエス・キリストが「思い煩うな、すべては約束されている」と語ったこと、ブッダが「苦行など意味がないからやめろ」と語ったこと、日本では法然が「なむあみだぶつ」と念仏を唱えさえすれば救われると説いたことと、同じ流れのものと思う。いずれも人々をそれぞれの苦悩から解放し、世界の平和を求めた偉大な先人達である。そこまでの偉人ではなくても、先に紹介した三澤勝衛は日々の暮らしの中で「感謝と謝罪を忘れずに」と説いた。多くの人が表現は違っていても、くりかえしくりかえし同じことを言ってきた。

 最近私は、電車に乗っている時とか、道を歩きながら、心の中で誰かを思いながら唱えている。日本語としては、「ありがとう。ごめんなさい。愛しています」の三つでよいだろう。おもしろいのは、思い浮かべる人によって、この順番が違っているのである。ごめんなさい、から入るのが自然に思える人、ありがとうから入る人、愛していますから入る人。家族はもちろん、研究室の学生たち、私の授業を受講している学生たち、友人たち、同僚たち、仕事でかかわる仲間たち、地元地域のみなさん。そしてお名前も知らないこのブログをいつも読んでくださっているみなさんへ。ありがとう。ごめんなさい。愛しています。

 
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1 コメント

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ブルーソーラーウォーター飲んでます (福本泉)
2010-10-26 16:14:42
ホ・オポノポノも共感しますが、リズ・ブルボーの[自分を愛して]という本も大変興味深い本だと思いました。メタフィジックという、物質を超えたレベルを見るということ。私たちの不調や病気はエゴ(自分の過去の記憶)が作り出しているという理論です。癒しが起こるためには自分を赦し愛することだそうです。
 申し遅れましたが私はおむすび通貨を通して、矢作川の伐採作業や足助の田圃の草刈りや、交流塾のお手伝いをさせていただいています。アースキャンプのスタッフにも少し協力させていただきました。11月からの炭焼きを楽しみにしています。いつかお会いできる日があればうれしいです。

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