だいずせんせいの持続性学入門

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私のがん患者学(3):プラシーボ

2007-12-13 23:23:29 | Weblog

 たまたま病院の待ち時間に近くをぶらぶらしていて、小さな本屋に入って見つけたハワード・ブローディ『プラシーボの治癒力-心がつくる体内万能薬』日本教文社2004年は、そこで私が来るのを待っていたかのような、というか、そこへ私を引きつけたかのような一冊だ。病気や死や健康に関する私のこの間の一連の経験や考察が、この本の中で見事に体系づけられているような気がする。この本の内容については一度には語りきれないので、断片的に語りながら、いずれ全体像を整理してみたい。

 プラシーボというのは「偽薬」のことである。19世紀の終わり頃、西欧の医師はそれまで使っていたいろいろな薬が実は十分な効用がないことに気づき、それならばと、乳糖を含んだ錠剤とか、はてはパンくずを固めたものとか、そういうニセの薬を、患者に薬だと言ってウソをついて渡していたという。なぜなら、それで一定の効用があるからだ。患者のある者はまさに医師が説明した(ウソの)効用どおりに病気が回復していたという。このように化学的には治療効果の期待できない「偽薬」のことをプラシーボと言い、それが「効いて」治療効果があった時、その時に患者の身体に起こった反応をプラシーボ反応と言う。
 20世紀に入ると、薬学の進歩とともに、本来の効用が期待できる薬が開発されて、「ウソ」の診療はだんだん許されなくなった。しかしながら、新薬の開発に大きくたちはだかったのが他ならぬプラシーボ反応だった。本当に薬に効果があるかどうかは、二重のブラインドテストに合格して、プラシーボ以上の効果があることを証明しなければならなかった。二重のブラインドテストとは、ある症状を持つ患者を二つのグループに分け、一方には件の新薬を、一方にはプラシーボを投与して、症状の経過を観察する。患者もその患者を担当する医師も投薬されるのが本物の薬かプラシーボかは分からない、という条件のもとでこれを行う。
 そうすると、プラシーボを与えられた患者の一部にはたいてい必ず「効果」があらわれる。その「効果」の中には、医師から説明された「副作用」まであらわれることがあるというのだから不思議だ。そしてプラシーボの「効果」があらわれる患者の割合にはマジックナンバーがあるらしく、だいたいどんな状況でも1/3なのだそうだ。そして、新薬を与えられた患者で効果があらわれたものの割合が、この数字を超えなければ、薬としての効果は否定されてしまうのである。

 このように20世紀の西洋医学の中ではプラシーボ反応は医療にまつわるうさんくささややっかいものの役割を与えられていた。しかしながら、むしろこれを積極的に利用して治療に役立てようという動きもまた20世紀後半の西洋医学の中に出てきた。
 この本はやっかいものとしてのプラシーボ反応を見極める研究と、治療にとってプラスの意味をもたせる研究の両方の流れをたくさんの研究論文に基づいてレビューしている。これを読むと西洋医学の研究の厚さをいまさらながら見せつけられる思いがする。

 この本の著者はミシガン州立大学の研究者にして、家庭医としての開業医でもある。大学におけるプラシーボ反応の研究と、開業医としての実践が結びついたのが、プラシーボ反応を最大限活用する医療である。それはプラシーボだろうがなんだろうが、直ればよいではないか、という考え方ではない。むしろプラシーボ反応にこそ、人間が自分の病気を治癒する力の本質がある、という考え方である。つまり心が病気を治すということだ。

 著者はそのメカニズムを説明するのに、「体内の製薬工場」という比喩を用いる。そもそも身体は病気を治癒するためのさまざまな物質を自らつくりだすことができる。その働きが、心とつながっていると考えるわけだ。仮にプラシーボであっても、これが効くと心から納得すれば、そのような「薬」が体内の製薬工場でつくられる。
 さらに体内の製薬工場は偽薬に対する反応だけではなく、医師が患者の話をよく聞くとか、治療にあたってはスキンシップを多くするとか、そういうことによっても活性化されるという。これらの個別の事例を整理して理論化する中で、著者は以下の条件がそろったときに、プラシーボ反応が起こる、すなわち体内の製薬工場がフル回転するようになるという。
1)病気についてよく理解できる説明を受け、それに耳をかたむけること。
2)治療者や周囲の人々からの思いやりといたわりを感じること。
3)病気やその症状を把握し、自分が主導権をもっているという気持ちが高まること。

 最近ではインフォームドコンセントが大事だと言われる。十分な説明を受け納得した上で治療を受けることは患者の権利である、という考え方である。これは人権として大事だということだけでなく、実は上の三つの条件を満たすために大事なのだ。つまり、プラシーボ反応の力を活かしつつ治療行為を行うことによって、治療効果を最大限引き出すことができるというわけだ。逆に、プラシーボ反応の力を利用できなければ、治療行為は首尾よく効果をあげられないとも言える。

 私の例ではどうだったか。私が6月に胃に小さながんが見つかり、そして退縮したとき、たしかにこの3条件がある程度整っていたと思う。一応、医師からはいろいろと説明を受けた。また、何と言っても周囲のみなさんからの励ましやいたわりのメッセージをたくさんいただいたことがうれしかった。そして3番目の条件は病院との関係では満たされなかったけれども、自分でいろいろと勉強したり、がんになった経験のある方のお話を聞いたりして、ある程度達成できたと思う。
 まさに私が悩んでいたのは、主導権のあり方をめぐってであった。医師は当然のごとく手術を薦めたが、私はこれほど小さいがんはしばらく様子をみてもいいのではないか、という迷いがあった。主治医は私の悩みを理解しなかった(というか、こういう迷いを口にできる雰囲気ではなかった)。一方、書物を通して、従来のやり方を反省した西洋医学の医師の発言にふれることによって、悩みながらも主治医の言うことを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で判断する方向にすすみつつあったと思う。逆を言えば、自分の病気について医師からの説明しか知識がなければ、十分に主導権をもてないのが現状である。

 一方、この本にはプラシーボ反応の力がネガティブに働く場合もあることが、豊富な実例を通して説明されている。つまり、自分は治らないと思いこんだら最後、本当に治らずに死んでしまうという事例である。また、本人はもちろん治りたいと自分では思っているつもりだけれども、実は心の底では病気のままいたい、回復すると困る、と感じているということも多くあるという。このような場合にもネガティブなプラシーボ反応の結果として治療の効果はなかなかあがらない。この場合には心理学的なカウンセリング等によって、まずは心の底から治りたいという気持ちになることが大事だという。

 まさに病は気から。そして病から回復するのも気から。このことが西洋医学の中でもきちんと認識されていたということに、科学者のはしくれとしては少しほっとするとともに、日本の普通の医療現場でこのような考え方がまったくと言っていいほど普及していない(少なくとも患者には感じられない)のはとても残念なことである。
 

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3 コメント

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その本読みたくなりました。 (funabashi)
2007-12-14 06:06:24
「プラシーボの治癒力-心がつくる体内万能薬」
この本読みたくなりました。
病は気から全くそう思います。
また治りたい意志を持たないと治癒に向かわない。
人は人として生きたいと思わないと人間として育たない。現代社会でニートといわれる人たちが多いこと、引きこもりが多いこととどこかでつながっていませんか?

人が意欲を持ち、意志を持ち、未来に希望を持って生きないと社会の中で生きていくことができない。
ということにつながっていますよね
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谷口雅春氏 (SUZUKI)
2007-12-19 10:03:15
 いつもブログ楽しく拝見させていただいております。
 私は本当に一宗教団体を宣伝する者ではないのですが・・・。 
 以前ご紹介させていただいた生長の家の創始者である谷口雅春氏の哲学書を読んで癌が癒えるという人がいるのも、この効果もあるとおもわれます。
 
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プラセボは私の領域です。 (ヤン・イー)
2007-12-23 16:45:19
先生、またヤン・イーです。
プラセボ効果は約40年前の大学でも習いましたよ。
その頃は「3た効果」が評価されていました。いわゆる「診た、服薬した、治った」の3つの「た」です。有名な医師が効いたと言えば世間に通った社会が、ほんの30~40年前の日本に実在したのです。これはおかしいと高橋厚生(?)という東大の助手が批判の本を出して我々も、それで勉強したんですが結局高橋先生は最後まで助手でしたね。人間の体はまだ分かっていないことが多くあるようですよ。三分の一の人はプラセボに騙されないそうですから先生は、ドコに入るのでしょうか?私などはコロッと騙されますからね?そのほうが自分も自身で騙せるので先生の理屈で言えば喜ばしいことですね!!
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