だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

モノの値段について

2011-12-26 11:56:24 | Weblog

 農村に行って農家の話など聞き、また自分でもままごとのような農作をやってみて思うのは、食べ物を作るというのはなかなか時間も労力もかかるということだ。それでいて農家の収入は少ない。いきおい農家は忙しい。
 高度成長期以前の農村の話を聞くと、朝は夜明けと共に起き、田起こし、田植え、草刈り、稲刈り、脱穀、山仕事、水路や道路の修理・・・である。一日四食、五食という生活だったというが、それはそれくらい食べなければ、体がもたないほど、忙しく激しく働いていたということだ。
 現代の農家はそこまでではないけれども、やはり忙しい。私は講演を頼まれて、市民向けに農の大切さを説いたりするけれども、そういう場所に農家が来ることはまれである。忙しくてそんなひまな話につきあっていられないのである。
 これを現代社会では、労働単価が低い、と言う。つまり労働の単位時間あたりに受け取るオカネの金額が少ないということだ。

 一方、私の講演を聞きに来てくれるのは、たいてい第3次産業に従事しているみなさんである。私の話につきあっていられるほど余暇があるということで、つまり、短い労働時間でそこそこ暮らせる、つまり、労働単価の高いお仕事をされているということである。

 ある商品の値段というのは、それを生産するのにかかった材料費や設備費、労働に対する対価、さらに利益の和である。材料や設備の値段も同様なので、つきつめると、その値段とは、それを生産するのにかかったすべての労働の対価と、何段階かある取引ごとに上乗せされる利益の総和ということになる。これは売る側の都合で決まる値段である。
 一方では、商品の値段というのは、需要と供給の関係や消費者心理で決まる面もある。多くの人が欲しいけれども供給がおいつかないような場合は、少々高めの値段設定でも売れる。消費者にとって「割高」だと思われれば売れないので、そういう場合は値段設定を下げざるを得ない。こちらは買う側の都合で決まる値段である。
 売る側の都合と買う側の都合。二つの都合をどこかでおりあいをつけなければなならない。買う側の都合の値段が、「原価割れ」の水準まで低くなれば、もうそのような商品を作って供給する人がいなくなる。ただ、そのような場合はまれで、基本的には、売る側が買う側の都合に合わせることになる。そうすると、利益が場合場合に大きくなったり小さくなったりするのは当然であるが、もうひとつの構成要素である、労働の対価の部分でも調整が発生する。つまり労働単価が伸縮自在に調整されるというわけである。

 食糧はそれがなくては生きていけない。一方で、どんなにたくさんあっても消費できる量は限られている。そういう特殊な性質をもった商品である。食糧が人々が生きていくのに必要な量ぎりぎりしか作れない場合には、値段がつかない。つまり市場で取引されるわけではなく、だいたいみんなが農作をやって自給するか、社会全体で配給制となる。
 それが、一人の農家が自分で食べるよりもはるかにたくさんの食糧を作ることができるようになると、農作をしなくても暮らせていける人がでてきて、農作物は市場で取引されるようになる。つまり農作物が市場で取引されるという状況は、基本的に農作物が豊富にある、つまり、傾向として需要よりも供給の方が上回る状況だ。
 そうすると、農作物の値段というのは、基本的に常に安く抑えられることになり、その結果、農家の労働単価は安く抑えられることになる。封建時代には農家は「生かさず殺さず」とされたそうだが、資本主義市場経済のもとでも、同様なメカニズムがはたらいている。

 今では規模の小さい兼業農家は、米を作って出荷するのは赤字となる。それでもかろうじて作っているのは、自分たちが食べる米を考えれば、買うよりは作る方が安いからである。東北や北海道の大規模経営の米専業農家はたいへんである。もちろんTPPが始まれば日本の米農業は息の根が止まってしまうのであるが、そうでなくてもすでに行き詰まりつつある。
 生鮮野菜などは、値段が市場での需要と供給の関係で決まるというのは幻想である。今日ではその値段はスーパーのチラシの上で決まる。客寄せの「大安売り」の対象となり、スーパーとしても利益にならないような安い価格が設定されることになっている。いわば人身御供のような存在で、農家としてはたまったものではない。

 一方の第3次産業。例えば携帯電話のサービスを考えてみると、携帯電話がまだなかったころ、誰も携帯電話を必要としていなかった。それがいつのまにか、携帯電話を持っていないと社会生活がなりたたない(つまり人に迷惑をかける)ような社会になってしまった。そうすると、誰もがそれをほしがるので、少々高めの値段設定でも契約する人が続出することになる。
 買う側からすれば、提示された値段で、買わないという選択肢もあるのだから、逆説的だが、買うのならばその値段で買わざるを得ない。基本的に売り手が値段を決めることができる。携帯電話会社で働く人の労働単価は、おおむね農家のそれをかなり上回っているだろう。

 今日では、日本人の一人あたりの一ヶ月のお米の消費量は約5kg*、小売価格は1kgあたり400円くらい**なので、一ヶ月の一人あたりお米代は2000円くらいである。一方、携帯電話の月額料金は平均で7685円***ということになっている。携帯電話に月7000~8000円も支払うなら、お米にもっとたくさん払ってもよさそうなものではないだろうか。

 そう考えると、妥当な農作物の値段というのは、どうやって決めたらよいのだろうか。参考になるのは、意外に思われれるかもしれないが、結婚式のお祝儀や出産祝いにいくら包むのか、というようなことではないだろうか。それは市場で何かが取引されるわけではないので、特に基準がない。世の中の相場というものがあるけれども、それは基本的には、どれほどの気持ちを込めるかということを、やや無理やり金額で表現したものであろう。

 我が家では、一年に食べるお米の半分くらいを、知り合いから購入している。この知り合いは、近くで米を作っているおじいさんから米の販売を請け負って売っている。私は、このおじいさんの田んぼに一度連れて行ってもらって、驚いた。急斜面にせりあがるような、みごとな棚田で作っている。しかも戦後、この家族だけで、こつこつと作りあげた棚田なのだ。美しく積んだ石積みに、その途方もない労力と、この家族の執念のようなものを感じた。おじいさんはもう80歳を超えているが、元気に米づくりをしている。私の知り合いはせめて、この努力に見合う値段で米を売りたいと、「棚田米」というブランド名にして口コミで売っている。私は、その思いに共感して、市場価格よりはかなり高いそのお米を購入している。

 この例のように、モノの値段というのは、お礼の気持ち、感謝の気持ち、評価する気持ちを買う側の人たちが金額で表現したらよいのではないだろうか。私たちはとかく、同じものを安く買えるなら、高く買うのは「損」をするような気持ちになってしまう。でも何事もそうだとすると、結局、めぐりめぐって私たちが働いた労働の単価も、極限まで引き下げられざるを得ない。そうではなくて、すべてにおいて、オカネを払うということが、感謝の気持ちを表現するということである、という社会になれば、とても住みやすい社会になるのではないだろうか。
 もちろん、同じ結婚式に出席してもご祝儀の金額は違っていてよい。その人の収入にあわせて、できる範囲で気持ちを表現すればよい。もしそのような条件が整って、よいものを相場より高く買うことができれば、「得」をする=「徳」をすると考えようではないか。
 アダム・スミスは経済の「見えざる手」を説いた。今、私たちは、顔の見える関係の中で、売る側と買う側の「見える手」をつなぐことが求められているのだと思う。私は、財布を開けるたびに、お礼の気持ちをもってオカネを使いたいと思う。

* http://www.maff.go.jp/j/press/shokusan/keikaku/080522.html
** http://www.maff.go.jp/j/nousei_kaikaku/n_kaigou/05/pdf/data2.pdf
*** http://japan.internet.com/wmnews/20080812/4.html
 

 

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1 コメント

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共感します (オオカワヨシエ)
2011-12-27 14:27:08
私も同じようなことを考えたことがあります。
実家は専業では無理だと踏んだ父が早くから兼業として、農家をやりました。

日本の農家は跡継ぎが農家として残れないです。

サラリーマンしていたほうが
安定なんですよね・・・

これは案外、国の農業政策の失敗だと思います
自給率より他国からの輸入で補うやり方は日本の未来を考えていないように思えてなりません

別ルートでさばいて目立てば、地元の農協連から何か言われるか分からないみたいな所もあるので、料金設定の安い農協にうるしかないのでしょうね・・・

出来上がるまでの苦労なんてわからなくてもいいけど、それを感じたら適正な価格はつけてほしいと願いますし、潔く払っていただきたいし・・・。
私も感謝の気持ちを持ってお金を払いたいと思います。
それはすべての買うものに対しても同じ気持ちです
顔が見えれば見えるもの程こそ、一言の喜びの言葉も添えて・・・
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