さよなら北陸本線【その5・芦原温泉】

2024年08月04日 15時31分52秒 | 旅行記
月イチ更新ならず……。
というのも、じつは7月に入ってから、第二子となる男の子が生まれました。
名付けにあたって、長男と同じように、①古典由来、②読みやすい、③小学校で習う漢字、という三条件を設けて考えていたところ、福井の偉人、松平春嶽の漢詩に良い漢字を見つけたので、そこから拝借することにしました。
今年は北陸新幹線が福井・敦賀まで延伸開業した年ということで、その意味も込めています。
そういえば、長男は西九州新幹線部分開業の年の生まれでした。彼らが大きくなる頃には、どちらも全通していてほしいものですが……。

さてさて、そんな北陸道中の続きです。
【その4】の続きとなります。

武生始発の列車で鯖江に移動します。
この武生・福井間の普通列車は私鉄との競合区間ということもあってそこそこの利用があり、三セク移行後は増便されたようです。

改札前にはメッセージボード。


(やや離れていますが)新幹線の停まる武生とは異なり、その直接的な恩恵を受けない鯖江では、走り去る特急列車を惜しむ気持ちもまた違うのでしょう。
サンドームへ向かう旅客の動向も気になります。特急なき後は敦賀か福井でハピラインへの乗り換えが必要となり、乗車券も通しでは買えなくなる区間もあることから、より丁寧な案内が必要になるものと思われます。


改札口に駅員さんが立つ、地方の特急停車駅らしい風景。
昔はどこでも見られましたが、橋上駅舎や高架駅は増えた現在では貴重な光景となりました。あるいは改札のフネが残っていても、無人駅というケースもありますね。


券売機は経営移管を控え、一台は既に使用停止。
残る一台も券面は変わりますから、こちらでも入場券を買いました。

続いて窓口内にある駅スタンプを押印し、窓口の入場券を求めるべく列に並んでいましたが、ここであえなく時間切れ。
列を離脱し、滑り込んで来た「しらさぎ9号」で福井を飛び越えて芦原温泉へ向かいます。沿線では、いわゆる「丸岡ストレート」の辺りでは、多くの撮影者を見かけました。


朝から今庄、湯尾、武生、鯖江ときて、新幹線開業予定駅に降り立ったのはこれが初めて。
恥ずかしながら、福井より先、芦原温泉と加賀温泉と、二つの温泉駅に新幹線が停まることをこの訪問の少し前まで知りませんでした。小松は既に高架駅ですから「それっぽさ」はありましたが、概ね「サンダーバード」の停車駅に合わせてあるのでしょう。


「サンダーバード」と「しらさぎ」が並ぶ発車案内も、まもなく見納め。


ホーム上の時刻表。
上述した2列車は敦賀までに短縮されますが、「ダイナスター」「おはよう(おやすみ)エクスプレス」は列車そのものが消滅します。
結局、最後まで見る機会がありませんでした……。


改札近くの乗車案内。
今なお「富山」があるのが嬉しいですが、経営移管後は行先の東端が金沢、西端が敦賀になることから、やがて整理されるのでしょう。

時間があったので、駅の外に出て、反対の「しらさぎ」を見送ります。


(写真には映っていませんが)出張ふうのサラリーマンが見送りを受けてゾロゾロと乗車して行くのが見えました。
新幹線連絡のビジネス特急らしい光景です。


こうしたやり取りも、今後は高架の上で行われるのかもしれません。

さて、芦原温泉駅でも駅スタンプを押し、入場券を求めるべく列に並びますが、知ってか知らずか、先客のなかには「3月16日」の関西から金沢方面の「最終」サンダーバードの切符を求める声が。当然のごとく指定席は満席で、自由席を案内されていましたが、最終列車に巻き込まれる彼女の運命やいかに。
また、チラッと聞こえてきたのが、16日に関西へ、17日に北陸へ戻ってくる往復の利用。行きはJRですが、帰りは三セクに移行されているわけで、窓口氏が丁寧に説明されていました。我々鉄ヲタにとってはお祭り同然の2日間ですが、世間大多数の人にとっては普通の休日で、それが会社都合を押し付けられて不便になるのですから(通勤通学客であれば、定期の買い直し等も迫られるでしょう)、新幹線開業は必ずしも「光」をもたらすだけではないのだと、改めて気付くこととなりました。


用事を済ませた後は、後続の普通列車に乗車して、もう少し北上します。

途中、細呂木駅では撮影者の姿を多く見かけました。
「あそこからああいう風に撮れるのか」と驚くことは、実際に現地を訪れて初めて知ることが多いです。


細呂木の次、牛ノ谷で下車しました。
カーブの先に消える列車を見送ってから、駅の周囲を散策します。

【その6】へ続く

さよなら北陸本線【その4・武生】

2024年06月29日 01時30分58秒 | 旅行記
梅雨に入ってしまいました。
何とか月イチ更新は死守できそうです。
今までだと祝日のない6月は体感的に長く感じていたのですが、それもあっという間に思えてきたのは、子どもにかかる時間が増えたせいか、それとも年のせいか。
流れ去る日々のなかで、足跡はしっかりと残していきたいものです。

【その3】の続きです。

今庄、湯尾を経て、武生に着きました。
ここからはしばし鉄路を離れ、歴史の世界に浸ります。
嶺北地域の今年のトレンドと言えば新幹線開業ともう一つ、大河ドラマ「光る君へ」の舞台になったことですが、恥ずかしながらつい最近まで紫式部が越前と関わりのあったことを知らず、ならばと行ってみようと思い、今回の行程に組み込んだ次第です。


武生駅から大河ドラマ館までは新幹線開業前までは無料のシャトルバスがあったのですが(開業後は越前たけふ駅発着&有料化)、窓口で入場券を買い求めている間に逃してしまったので、後続のコミュニティバス(100円)で近くまで。


公園を突っ切るようにして、「光る君へ越前大河ドラマ館」に着きました。


紫式部を演じる吉高由里子さんが迎えてくれます。


ロケのセット。何度も登場している京都の屋敷ですね。
この記事を書いている6月現在でこそ越前編に突入していますが、訪問当時は放送回数も一桁の3月。越前編がどうなるかも予想のつかない頃だったので、衣装や題字のこだわりは伝わってきましたが、まだ「旬」ではない印象を受けました。おそらくは、これから色々と追加されていくのでしょう。
それでもお目当ての公式グッズだけはたくさん買い求めて、次の目的地へと向かいます。

帰りこそ無料バスをと目論んでいたのですが、これまた時間が合わなかったので、武生の街並みを散策します。


行きのコミュニティバスからも少し見かけましたが、町の中心、メインストリートに商家の建ち並ぶ街並みは、この規模の都市にしてはなかなか珍しいのではないでしょうか。
他はことごとく失われているか、観光地化されている印象があります。これは歩いて正解でした。


越前市武生公会堂記念館に着きました。
もとは1929年築の「武生町公会堂」の建物が現在も活用されています。


こちらでは企画展「越前市へ通じる道~人・モノが行き交う道~」を見学。
紫式部の父・藤原為時が越前の国司に赴任する際の下向ルートの推定や、越前国府跡の調査事業の紹介があり、ドラマをきっかけにようやくこの時代の歴史・地理に興味を持った人間としてはより理解を深める内容でした。また「道」ということから展示内容は平安時代に留まらず、近代の「鉄道」も最後に触れられており、鉄道会社設立にまつわる史料のなかに松平慶永の名を見つけることができました。松平慶永(春嶽)については、以前、福井市の郷土歴史博物館で彼にまつわる講演を聞いたことがあり、また幕末大河では常連メンバーであることから興味を抱いていたのですが、東京で華族に列せられても地元を気にかけていた「情誼」の人の一面を垣間見ることができました。

記念館を出てからはいよいよ駅へ戻りますが、


市役所の一階にカフェを見つけたので小休憩。




何と言っても今年の「推し」はこの二つ。どこに居ても視界に入ってきます。
しかし、大河ドラマは一過性、新幹線も途中駅。「ブーム」の火をつけたあと、来年以降をどうしていくかが、今後沿線の多くの都市にとって課題になるところでしょう。


遅めの昼食はパスタにしました。
実はこの後の行程はほとんど決めていなかったので、ここでしばらく思案。

ある程度考えがまとまったところで、ようやく武生駅に戻ってきました。


改札に面した1番線は都会からの特急に譲り、2番線には当駅折り返しの普通が収まる、そんな「特急ファースト」な北陸本線の光景も、まもなく見納め。


ひと駅乗車して、隣の鯖江へ移動しました。
こちらも駅名の横は目張りがされていて……と思いきや、周辺案内はそのままでした(訪問日現在)。

【その5】へ続く

さよなら北陸本線【その3・湯尾】

2024年05月18日 22時15分20秒 | 旅行記
5月も半ばを過ぎてしまいました。
書くことは本当にたくさんあるのですが(メモ書きだけが溜まっていきます……)、なかなか時間がとれず。
またしばらく間が空きましたが【その2】の続きです。

今庄から湯尾の営業キロは3.6km、今までにたくさん駅間徒歩を試みてきた身としては、歩けない距離ではありません。
列車の時間が近付いてはいましたが、先ほどの燧ヶ城址から見えていた旧線のトンネルが気になったので、思い切って歩いてみることにしました。


今庄駅構内のはずれから、いったん線路をくぐります。


ガード下につきものの、緊急連絡先の案内。
こうした掲示物の内容も経営移管に伴って変更されるのでしょうか?

少し歩いて、国道の信号を渡ります。


ワムが置いてありました。
伯備線のときも思いましたが、こういう貨車はかつてその地を走っていたのか、それとも全く別のところから持ってきたのか……?

少し歩くと、現在線の湯尾トンネルが見えてきました。



その隣に口を開ける、旧線の湯尾トンネル。
開通は1895(明治28)年頃、国の登録有形文化財に指定されています。


坑口よりも大きな擁壁が目立ちます。このおかげで現在も道路として使えているのかもしれません。


近付いてみると、行き止まりの標識にカラーコーン。
実はワムの置かれていた信号辺りから通行止めじたいは分かっていたのですが、近付けるところまでは近付いてみようと思い、ここまで。
中からは音が聞こえていて、何か作業をしているようです。ちょうど右手に伸びる道があるので、ここは大人しく迂回します。


歩いてきた今庄駅方向を振り返ります。
切り替えは1962(昭和37)年。切り替えの区間じたいは短いものの、複線化と電化が同時におこなわれましたから、それこそ今年の新幹線に匹敵するくらいの激変だったのではないでしょうか。


山をぐるっと迂回して(歩道のある国道で良かったです)、南越前町に入りました。

しばらく集落を進んでいくと、


古戦場跡にぶつかりました。
この辺りの北国街道は戦国武将のひとり・柴田勝家によって整備されましたが、それ以前からも木曽義仲が京へ攻め上る際に、そして南北朝時代にはここ上野ヶ原で湯尾峠の要害を争って、実に熾烈な戦いが繰り広げられたようです。
この後ろを振り返ると、湯尾トンネル直江津方の坑口となります。


作業車が見えます。
先ほどの音はこの車が出していたものでしょう。
両側には桜並木、鉄道の現役当時からあったものかは分かりませんが、もし今でも列車が走っていれば人気の撮影地になっていたことでしょう。

旧線跡をしばらく進むと、現在線との合流地点が見えてきました。


ちょうど普通列車が通過。
旧線との位置関係がよく分かります。

本線との合流地点の少し前では、小さな川を渡ります。
もしや……? と思って河原に降りてみると、


レンガ積みの橋台が残っていました。
強固で撤去の必要がないから残っているのでしょうが、やはりこうした面影を見つけると嬉しくなるものです。

合流地点には踏切があったので、渡ってみます。


背後には高速道路が立ちはだかりますが、鉄道のほうは防風林(?)に田園、集落の風景と、なんとも模型的です。
いまは冬枯れですが、季節や条件を変えて撮ってみたいですね。

ここまで来ると湯尾駅も近くなってきますが、もう少し寄り道をします。


沿線にある日吉神社。


境内のすぐ後ろを北陸本線が走っていて、ちょうど「サンダーバード」が通過して行きました。前6両は「和倉サンダー」です。


続いて「しらさぎ」が通過して行きます。
こういう「そこにしかないもの」と絡めて撮るのが今回の目的でした。

今庄から2時間近くをかけて、湯尾駅に着きました。


山小屋風の駅舎です。
十数年前に一度訪れたことがありますが、それほど変わっていないように思います。当時は「雷鳥」や、普通列車の419/413/475系が現役でした。

ちょうど敦賀行きの普通列車が入線します。


「米原方面」の文字も、既に直通列車はなく、経営移管後は福井県内の地域輸送がメインとなることから、いずれ消されてしまうかもしれません。


跨線橋を渡ってお見送り。
ここから隣の南条駅との間に有名撮影地が点在しているからか、乗降ともにカメラを持った撮影者の姿を見かけました。

私はというと、反対の福井行きに乗車して、


武生で途中下車。
久々の「街」で少しホッとしますが、ここからはしばし線路を離れて観光へ。

【その4】に続く

さよなら北陸本線【その2・今庄燧ヶ城址】

2024年03月24日 11時31分33秒 | 鉄道関係
【その1】の続きです。

燧ヶ城址に登り、麓で買っておいた缶コーヒーで一服。
望遠レンズを取り出して、今庄宿を行く列車を撮影します。

最初にやって来たのは、上り敦賀行きの普通列車。


湯尾トンネルを抜けた列車がスピードを落とし、ゆっくりと今庄駅構内に滑り込みます。


停車時間も束の間、いまは保線車両の基地となっているSL時代の設備を横目に敦賀を目指します。
新会社に移る521系は新たなカラーリングが施されるようで、419系時代から続く青帯もこの区間ではいずれ見納めになるものと思われます(JRに残留する編成はそのままだと思いますが)。

続行して上り「しらさぎ」が通過します。




街道と線路の距離感はこの通り。
中央の近代建築は旧昭和会館(今庄地区公民館今庄分館)。1930年に今庄の篤志家・田中和吉によって建てられた地域のシンボルです。

さらに続いて上り「サンダーバード」が湯尾トンネルから顔を出します。


壁のように立ちはだかる越前の山々を抜け、一路関西へ。

今回の越前行もあって、最近、福井ゆかりの作家・水上勉の文章を読み返していたのですが、『日本紀行』(1975年)の「越前大滝」について述べた文章のなかに、以下の一節がありました。

---

 味真野は、謡曲「花筐」にも出てくるのどかな山里である。ここから月尾谷をこえて、上池田の村を訪れると、もう岐阜県境に近い。山また山の奥に、ぽっかり穴があいたような谷間がある。福井市を流れる足羽川の上流だから、越路の山の奥の院だろう。

  み雪ふるこしの大山すぎゆきて
   いづれの日にかわが里をみん

 万葉の歌だが、都をはなれて、北辺の地に赴任していった昔の官吏が、敦賀の北に壁のように立ちはだかる南条の山々をみて、流恨の嘆きを託したものと思われる。味真野は、大山を越前側へ越えたとば口に近い。

---

「味真野」とは、現在の越前市、北陸新幹線の新駅・越前たけふ駅にも近い地区ですから、まさしくこの山が立ちはだかる方向に当たります。
交通の便では随分と便利になった関西と嶺北の行き来ですが、実際にこうして「こしの大山」を前にすると、昔日の人々が感じていた「隔絶」が偲ばれます。

下り方面は普通列車がやって来たかと思えば、今庄駅に長く停車しています。
列車運行情報を見ると「サンダーバード」が後ろから接近中。退避のための停車でした。


最長の12両編成が通過します。
経営分離後の旅客列車は最長でも4両編成でしょうか。願わくばここで寝台特急を撮ってみたかったですね。

大阪寄り3両は旧塗装の編成でした。


リニューアルが開始されて9年近く。
見納めになると思われた旧塗装の編成は(付属編成のみですが)意外にも敦賀延伸まで生き残ることになりました。
右側に見えるトンネル坑口は旧線時代のもの。単線かつ非電化時代なので現在線と比較すると小ぶりですが、現在は道路に転用されています。

最後に「サンダーバード」を退避した普通列車を撮影して下山します。
経営分離後はこうした退避もなくなりますから、普通列車でも相当なスピードアップとなるようです。


旧昭和会館周辺をクローズアップ。


今庄宿を後にして。
【その1】でも触れた「矩折」がよく分かります。

駅前に下りてきました。


駅名標は「JR」部分に目張りがされ、新会社への移行準備がされています。
もっとも、これは駅の外側、駐車場を向いていますから、列車内の乗客が直接見ることはない面。
奥の駅名標は車内から見える面で、妙に綺麗ですが、これは丸ごと剥がすと下から3セク仕様の駅名標が出てくるのでしょう。今回の越前行では、こうした措置をこの先至るところで目にすることとなりました。

【その3】へ続く

さよなら北陸本線【その1・今庄】

2024年03月23日 19時15分26秒 | 鉄道関係
3月16日のダイヤ改正に伴い、北陸新幹線が敦賀まで延伸。
それに伴う並行在来線の経営分離はもはや新幹線開業時の恒例行事ですが、いよいよ「北陸本線」は米原から敦賀までとなり、大幅に区間が短縮されます。
京都からは比較的近いこともあり、今までにも「サンダーバード」で何度も通ったエリアですが、やはり最後にもう一度、ということで、嶺北地域の「北陸本線」を訪ねてきました。

3月7日(木)の出来事です。

行きは「サンダーバード3号」で北上しようと思っていたところ、春休みのせいか窓側がほぼ満席。
仕方なく4分後の新幹線で米原へ行き「しらさぎ51号」に乗り換えるルートを選びました。これでも目的地には同じ普通列車に接続することになります。


「しらさぎ51号」は米原始発。15分ほど前に入線してきました。


ダイヤ改正後も米原には来ますが、全便が敦賀止まりとなり、金沢行きは見納め。
名古屋発着は引き続き残りますが、米原を起終点とする便は「超」がつくほどの短距離特急となってしまいます。とは言え、この区間は特急を除けば新快速という名の各駅停車があるだけ、時間帯によっては近江塩津で乗り換えが必要ですから、特急の存続は当然と言えましょう。


新幹線との乗継割引と、北陸本線の自由席特急券の組み合わせもダイヤ改正で見納めとなります。
さらに背面テーブルには全車指定席化を告げる案内も貼られており、この敦賀開業が在来線特急にとっても大きな変化であることを示しています。


車内に入って驚いたのは、座席の枕カバーが以前の布製から合成皮革素材(?)に変更されていたこと。
一昨年頃からJR九州で導入され、西日本でも北近畿系統の特急では既に見られるようですが、このたび北陸特急においても導入されたようです。
短距離化に合わせて交換の手間とコストを削減したのかもしれませんが、どうも安っぽい印象は拭えません。

当初は空いていた車内でしたが、名古屋方面からの新幹線が着くと窓側の座席は8割方埋まり、新幹線連絡特急らしい様相に。
ノートPCを開けるビジネスマンや、大きな荷物を抱えた帰省客にインバウンドの外国人観光客など、意外にも乗り納めのファンの姿は少なめです。それでも特急の区間短縮は新幹線開業が近付くにつれて多くの人の知るところとなったのか、一見ファンではなさそうな人も「金沢」表示をスマホのカメラに収める姿も散見されました。

走り出した列車は湖北を一路嶺南へ、途中長浜で小休止を挟みながら、余呉湖のほとりを軽やかに駆けていきます。
トンネルを抜けると近江塩津、湖西線の高架を走る普通列車を一瞥すると、またトンネルを抜け、もうすぐ本格稼働を迎える新幹線基地を横目に敦賀駅に滑りこみました。所要時間にしてわずか30分程度、新幹線開業後はここが終点となるわけですが、乗り換えによる時間短縮を便利と捉えるか、手間がかかると捉えるか、目的地によっても評価が変わるところでしょう。


カラフルな特急の乗車位置案内を見ると、北陸に来たことを実感します。
新幹線開業後の特急列車は高架下の専用ホームに収まりますから、これらの表示も新幹線開業に合わせて撤去されるのでしょう。

敦賀では、向かい側のホームに停車中の普通列車に乗り換えました。
あまりにガラ空きなので拍子抜けしていたら、発車の少し前に、先ほど近江塩津で見かけた普通列車が到着。多くの乗客が我先にとダッシュで乗り換え(18きっぷシーズンの風物詩でしょうが、見苦しいことこの上ありません)、通勤電車のような混雑となりました。あと少しで18きっぷでは特例を除いて北陸本線の敦賀から先には乗れなくなりますから、私と同じように「乗り納め」の向きが多いのでしょう。


混雑も少しの辛抱、ふた駅目の今庄で下車しました。
米原や敦賀は多少温暖であったのが、北陸トンネルを抜けるとやはり肌寒く、嶺北に来たことを実感します。


そんな今庄と言えば、時折列車もストップする豪雪地帯。それに備えてか「JR」マークを掲げた除雪車が待機していました。
これもあと少しでロゴを消されるのか……と思っていたら、帰りにはなんと解体作業が始まっていました。おそらく除雪気動車(キヤ143)に置き換えられるのでしょうね。


跨線橋を上ると、新幹線開業を告げるポスターがお出迎え。


前回訪問時は確か10年ほど前、当時は委託の窓口が営業していました。
「サンダーバード」の手書きの指定席券を発行してもらった覚えがあります。


出入口には発車標(?)が掲げられています。
かつては到着列車ごとに駅員さんが並べ替えていたのかもしれません。北海道あたりでは今でも現役ですね。

駅舎全景。


窓口こそ無人になりましたが、観光案内所が併設されていて、人の気配はあります。
待合室も暖房完備、お手洗いも綺麗になっていて、新幹線開業でやって来る観光客を迎える準備は万全のように見えました。

今庄はかつて北国街道の宿場として栄えた町で、いまも街並みにその面影を残しています。


駅から少し歩くと、素晴らしい分岐に出会えました。
右が歩いてきた道(駅からの道)、左が旧北国街道です。北国街道のこの見通しの悪さは「矩折(かねおり)」と呼ばれ、宿場を整備する際に防御も兼ねて考えられたそう。




街道筋のほうでは、約1kmにわたって宿場の街並みが広がります。
列車は1時間おきですから、その間に歩くのにちょうどよい規模の街並みです。今でも現役の商家もあり、火災の延焼を防ぐ「うだつ」が目立つのが特徴。
そのなかでも、古い街並みを生かしながら新陳代謝が起こっているようで、空き家を活用したお店が今まさに開業の準備中でした。こちらのお店のようです。

時がゆっくりと 築90年の古民家利用のコーヒー専門店 今庄宿に完成


そのお店の向かいにあるのが、新羅神社。


その名の通り、新羅からの渡来民がこの地を開発したようで(このページが詳しいです)、新羅→今城(いまき・いまじょう)→今庄という地名の変遷は納得させられるところがあります。この後訪れた武生でも「叔羅(しくら)」という場所を通り過ぎましたから、この越前が古くから渡来民と関わりながら発展してきたことは間違いないでしょう。

神社にお参りを済ませてから、


愛宕山を登ります。
「源平古戦場」の石碑が示す通り、木曽義仲と平家の戦いの折に燧ヶ城(ひうちがじょう)が築城され、その後一向一揆勢が織田信長に敗れるまで山城として存在していたそうです。山じたいは標高267mとそれほど高くありませんが、由来が由来だけに傾斜がきつく、なかなか良い運動になりました。


いかにも城址らしい石垣の並びを抜けると、


頂上に着きました。




今庄宿が一望できる燧ヶ城址から、本日の撮影を始めます。

【その2】へ続く