学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

永原慶二氏と『問はず語り』

2014-01-06 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月 6日(月)21時19分47秒

>筆綾丸さん
「中世国家」論となると、永原慶二氏もどうにも歯切れが悪いですね。
『日本中世の社会と国家』、久しぶりに手にとってパラパラめくってみましたが、この本では「在地領主の「家」権力」に関し、『問はず語り』を大々的に引用して論じているので、後深草院二条のような女の証言を元に一大理論を組み立ててホントに大丈夫なのかな、と心配になります。

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「家」権力と中世国家

 在地領主層がこのような形で、本領について将軍権力も及びえない強力な「家」権力を確保し、空間的にはいかなる上級支配権をも排除した屋敷地を核として、その排他的支配領域を拡大しようとしていたことは、国家体制との関連から見れば、中世国家においては国家の中に国家権力の介入できない「家」世界が存在していたことであり、近代国家的理解からはおよそ考えられない事態である。

 後深草院女房の日記『とはずがたり』によると、その女房が一三〇二(乾元元)年厳島詣の帰路、海が荒れたため、先の船中で知った備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊めてもらったが、主人が毎日男女の人々に呵責を加えるのにおどろき、程近い江田に住む和知氏の兄の家に移った。和知氏は「年来の下人に逃げられ、兄がこれを取った」と怒り、兄弟喧嘩にまでなったが、たまたま下ってきた地頭広沢与三入道に救われたという事実がある。かりそめに宿泊した貴族の女房を、「下人」というのはまことに乱暴な話としかみえないが、いったんその家に泊った者はその家の内部にあるかぎり主人の「家」権力=家父長権に包摂される、というのが当時の考え方であったから、和知氏の主張もあながち無法ではないのである。

 在地領主層の「家」世界はこのように、屋敷地・「住郷」といった空間とともに、その「家」的人間関係の一切を包みこんでいる自律的世界である。いうまでもなく、在地領主層自体は中世国家の権力基盤を構成する地方支配層であるが、かれ自身の直接的存立基盤は中世国家の「公」権が立ち入ることのできない世界となっている。こうした「家」世界の原理は、在地領主層における「領主制」の発展とともに、独自の支配領域として拡大されてゆくが、「家」はあくまでその原点であり、中世国家の構造的特質を規定する基本的契機をなしていたのである。*

*中世国家権力が、近代国家にくらべるといちじるしく限られた範囲の権能しかもちえないこと、したがって、国家としての統治機構や法規範をも十分に発展させなかった主要な理由はこのような基盤における「家」権力の存在と密接にかかわっている。このような意味での「家」権力=在地領主権力を国家の在り方との関係から捨象すれば中世国家論は表層だけの追究に終らざるをえない(Ⅱ-3に関連)。

http://web.archive.org/web/20151017054552/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-nagahara-zaichiryoshuto-iekenryoku.htm

永原氏は2004年に亡くなられましたが、その前年だったか、歴史学研究会大会の中世史部会で質疑応答に参加した永原氏を間近でお見かけしました。
中国・大連でエリート商社マンの家庭に生まれた永原氏は、歴史研究者の集まりの中ではいささか場違いなほど紳士的な雰囲気を醸し出していましたが、私は失礼ながら、謹厳な永原氏が『問はず語り』を真剣に読みふける姿を想像して、少し笑いそうになってしまいました。

いくつか纏めて書いておきたいことがあるのですが、所用のため次の投稿が少し遅れるかもしれません。
あしからず。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

この国とあの国のかたちー天皇家とハプスブルク家 2014/01/06(月) 12:12:31
永原慶二氏の著作を数冊眺めてみました。

『戦国時代―16世紀、日本はどう変わったのか〈下〉』133頁~
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784094601381
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ここで各地の大名が戦国争乱を戦うなかで構築してきた「大名領国」というものの性質を「日本国」とのかかわりで考えてみよう。
それぞれの大名領国は規模の点で大小のスケール差があるとともに、領域支配体制の在り方においても種々の差異があった。したがって戦国期の列島社会は北条・上杉・武田・毛利などという大規模に発達した大名領国の割拠併存という形だけで説明することは正確でない。大型の大名領国のはざまには、いくつもの、不安定ではあるが独立を保つ国人領があり、これも領域国家の萌芽という性質をもっていた。
他方、大名領国という荘園公領制時代には存在しなかった大規模な領域支配体制が発展したといっても、「日本国」がまったく解体されたり否定し去られたわけでもない。古代以来の天皇と公家たちが中心となって構築してきた「日本国」の中央支配の機構と権力はほとんどその生命を喪失していたし、六六か国それぞれの権力中枢としての国衙もずっと前に消滅している。天皇家と公家貴族の子弟が入寺する大寺院の荘園は畿内を中心に一部がわずかに命脈を保っていたが、年貢徴収をその権力・支配組織を通じて独自に行うことはできなくなっていた。
したがって中央支配者集団としての天皇・公家は独自の力を失っていたという他はないが、国制の形式や儀礼化された身分秩序の枠組みはなお存続していた。天皇を頂点とし、公家・武家(侍)・百姓という身分制は持続し、天皇は位と官の叙任権を独占しつづけていた。そしてその限りでは武家に対する公家の優位が持続していた。実力を基礎とする大名の支配領域の形成が進んでも、六六か国という単位は存続し、大名の領国も極力その伝統的な国を単位とすることによって「境目」(大名領国の国境)を安定化しようとした。(中略)
その意味で大名領国は、あとで述べるように日本国の下位の国家とよぶべき統治の諸機能をそれぞれに掌握していて、キリシタン宣教師たちが大名を「国王」と見なしたばかりでなく、大名みずからも「国家」「国王」と称することもあった。しかしそれでも天皇から位階官途を受け、その統一的秩序のなかに自己を位置づけようとする点では一致していたのである。
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『日本中世の社会と国家』179頁~
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784250910104
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ところで、戦国大名がこのように自己の権力・政治的立場の「公儀」性を強調し、領国支配の自立を指向した点からいえば、個々の大名領国はそれなりに一箇の地域国家といわなければならない。とすれば、「日本国」ともいうべき列島社会全体との関係はどのように理解すべきであろうか。戦国時代に大名領国がいかに発展したとはいえ、日本列島のほとんどの部分は共通の言語・文化をもち、大名たちも古代以来の天皇、もしくは将軍と結合した天皇に、それがいかに無力化したとはいえ、国制形式上の国王たる地位を認める、という関係を保持していた。またキリシタン宣教師等は戦国大名を地方国家の王と見る半面、日本列島がやはり一定の統合関係のうえに成立している一つの国家であったことも認めており、とくに中国・朝鮮等近隣国家は「日本国」を単一の国家と考えていたことも否定できない。
このような現実に立って考えるなら、戦国時代の日本の国家は大名領国を下位の国家とする複合国家という他はない。それは一種の連邦型国家構造であるが、各領国を連邦として統合するための制度そのものは極度に微弱なものとしてしか存在しなくなっていたことにも注意するべきである(補注)。その意味では、「日本国」というゆるやかな国家土壌のうえに、大名領国国家が分立しつつあるというのが十六世紀の現実であったといえるであろう。
補注 これが積極的な意味での連邦国家でなかったことは、大名領国国家間の熾烈な闘争の中から「天下」という新しい政治的統合の理念が発展し、天下一統が進められることからも明らかである。
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詮ずれば、戦国期の「この国のかたち」は、「日本国」というゆるやかな統一体のもとに、「大名領域(地域・地方)国家」という複数の「下位国家」が並立する複合国家で、消極的な意味ながらも、ある種の「連邦国家」であった、というような国家論になり、『中世に国家はあったか』を読んだ後では、なんともナイーヴな印象を受けますね。
「「神聖ローマ帝国」というゆるやかな括り糸のもとに存立していた帝国都市や領邦諸侯」(『中世に国家はあったか』12頁)と強引に比較すれば、規模はグッとダウンサイジングになりますが、天皇家を中心とした日本国がハプスブルク家の神聖ローマ帝国に、帝国都市や領邦諸侯などが大名や国人層に相当する、というようなことになりますか。・・・・・・うーむ。
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