学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「知的惰性」

2009-10-31 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年10月31日(土)09時20分18秒

>筆綾丸さん
司馬遼太郎の『花神』も唐突でしたが、「あとがき」のアイザック・ドイッチャーへの言及も奇妙な感じがしました。
高橋昌明氏は「あとがき」で次のように書かれています。

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 『以前』を書いたから、清盛を出すのは自然な延長と思われるかもしれないけれど、少し大げさにいえば、私にはアイザック・ドイッチャーが『スターリン─政治的伝記』(上原和夫訳、みすず書房、一九八四年。原著初版の出版は一九六一年)を書いたような決意と力量に欠けている、という自覚があった。
 よく知られているように、ドイッチャーは、「スターリンの手で無残に打ち破られた人々の一人」であり、反スターリニズムの著名な研究者・著述家である。彼は同書の序論で「この本を知的惰性から書かない」と宣言する。いわんとすることは、党派的感情を交えず、以前の仕事にも安住せず、スターリン勝利の不可避性の原因・結果を冷徹・清新に究明し、しかも非スターリン化に向けての闘いも不可避であることを明らかにする点にある。その巌のような信念が、党組織と同一化した、個人的な彩りに乏しい、たぐい希な政治的人間像を、深く印象的に描き出すことに成功したのである。
 私はドイッチャーほどには、対象への感情を抑制することができない予感があり、なにより父忠盛クラスならともかく、歴史と王家への果敢な挑戦者であり、時代を創造的に切り開いた政治的巨人の像をとらえる視覚と方法、いや叙述の具体的材料さえ当時はほとんど手許にもっていなかった。が、何時ものことだが、なんとかなるという根拠のない楽観、矛盾するようだがドイッチャーのように自らを厳しく追い詰めてみたいというモノ書きに憧れる気分、それで日ならずして、鷲尾さんに承諾の手紙を書いた。

※『以前』は『清盛以前-伊勢平氏の興隆-』(平凡社選書、1984)、「鷲尾さん」は「講談社の学術局長だった鷲尾賢也氏」。
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高橋氏には「ドイッチャーほどには、対象への感情を抑制することができない予感」があったそうですが、実際に『平清盛 福原の夢』を通読してみると、対象への感情を抑制できないどころか、対象への感情を抑制しなければならない、という姿勢も感じられないですね。
ドイッチャーを目指して、なぜこんな本ができるのか。
それと、細かいことですが、『スターリン─政治的伝記』の「原著初版の出版は一九六一年」とあります。
しかし、これでは1956年のスターリン批判の後になってしまいますね。
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