ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

岡本かの子原作・一人芝居「鮨屋の娘」から~「歴史的」?!演技論①

2023-11-29 | 演劇
前回のブログで告知した、奈良町にぎわいの家での小町座による一人芝居は11月18,19日に無事終えました。今回は、以前上演した「鮨屋の娘」を高校一年の井原蓮水が、新作の「いのちの店の娘」をアラフィフの小町座代表、西村智恵と篠原佳世が演じました。
「鮨屋の娘」は、女学校に通う鮨屋の娘が主人公なので、役柄の年齢がそのまま、役者のリアルに重なり、初々しい演技が好評でした。とはいえ、この一人芝居は、二人の人物、「娘」と、その娘が思いを寄せた「先生」の「母親」の二役を演じる構成にしたので、中々、大変でした。
 明治の女性像、家父長制の下での嫁であり母親であるということ。もちろん現在の「ママ」とは全く違います。
 お話の中の「先生」の「母親」は、幼い息子(後の「先生」)が虚弱で食が細いため、夫から責められる日々を送っています。家を継ぐ男子を立派に育てることが母親の使命。大きな家の妻ですから、家事は女中がするので、食事も自分では作りません。家の中にいる美しい奥様、といった感じでしょうか。今の私たちからすると、贅沢!に見えますね。
 しかし、妻は家の格を示す飾りであり、男子を立派に跡継ぎにすることに集中…となると、どうでしょう。妻であり母である以外の「わたくし」など、あるべきはずもないのです。そこに疑問をもたないから、なんだかもやもや苦しい…。「家」を保つために子を産み、夫には従順…。今の私たちなら「無理ーー」と叫んでしまいそうですね。
 こうした時代背景を理解しながら、その感情をリアルに持ち、表現にしていくのは、とても難しいことです。高校一年がとてもできるわけはありません。以前、西村や篠原がこの演目もした時も、この「母」がどうにもできませんでした。
 何が難しいかというと…。時代背景を押さえ、抑圧されている時代の女性を演じる、だけなら、わかりやすいのですが、それだけではない。そもそも、この「母」は自分の居場所に疑問はもっていない。なので、個別の意識的な「わたくし」は前に出てこないわけです。ただ、必死に、自分へ向かってくる「家」の圧力、跡取りの息子が虚弱であるので何とかしなければならない、ということを使命としして抱えています。
 それとは別に、もう一方向が、役を組み立てる時に必要です。苦悩する母は何にすがって生きているかということです。家の維持が第一の夫は、自分を助けてはくれない。結局、自分の分身、虚弱な息子と、二人で一つの関係性の中に、かろうじて安堵し、一方で秘め事のようなものを共有する、共犯者でもあるかのような、複雑な母子の関係性が、かの子の物語には見えるのです。
 ところで、この二人にとってのそんな「秘め事」のような感覚は、以下のセリフになっています。
「…梅の実が…好きかい…橘の実も…好きなのかい…。お前、まるで鳥みたいに…そんな実のなる場所を…良くお知りだねえ…。ああ、なんだか…気持ちがね…胸がいっぱいになってしまって…よくわからない気持ちがね、体に一杯になったりすると…ああいうものが噛みたくなる…。」
 このシーンは、息子の食の細さを嘆き「何でもいいから食べておくれ!」と懇願し取り乱した母が、沈黙してからゆっくりと語る演出にしました。。家の中で一種、閉じ込められているかのような母子が、自分たちの「美しいもの」を直感的につかむまなざしは、二人でなくてあくまで「一人」なのです。これはとても危うい感覚ですが、このあたりを表現する「詩的感覚」が、役者には必要です。なので、まだ小町座では「鮨屋の娘」に出てくる「母」は完成されていません。今回初めて演じた井原さんに、私はこう言いました。「10年後、20年後のあなたの「母」が見たい。だから長生きするわね。」と。
 その井原さんの演じた母親像は、本番は結果「子供思いの優しい母」になりました。私はこれを彼女の現時点の芝居として、納得しています。そして、お客様もそこが良かったようです。確かに、「子どものことを思う母」というイメージは、広く共感を得やすいでしょう。しかし、先に書いたように、それだと、ただのお母さんの苦労話に終わってしまいます。そうではない、先に述べたような感情を、時間を越えて令和の今にリアルに出現させたい。それが、岡本かの子の作品と対峙するということだと思っています。
 確かに、かなり特殊な感覚ではあります。けれど、魅惑的な感覚でもあります。
 こう考えていくと、現在は「わかりすい」ということが作品には必須、のような時代ともいえますが、岡本かの子の原作を読むと、「明るい、暗い」「やさしい、厳しい」という、対立するに方向には到底収まらない、不思議な「もの」があるのです。この空気感を「歴史」と呼ぶのは、少しためらいもありますが、人が生きてきた時間を「歴史」と呼ぶなら、こうしたかつての人々の感じた気持ちや情緒的に乗っかっている「もの」を「歴史」と呼んでもいいのではないか、などと思うわけです。
 私たちは、亡くなったかつての人々に会うことはできない。が、優れた過去の作品によって、当時の呼吸を文の間から知ることができます。それを今、生きている私たちが表現するということは、まさに、一人一人の小さな「歴史」に向き合っているということではないか、と今回の一人芝居を終えて思いました。小町座はプロでないですが、だからこそ、「商品」とは別のところで、市井に生きた人々の気持ちに向き合えるのかもしれません。キャストは苦しみ苦しみ、記録には残らない、個別の人間の「歴史」を体現してくれる…んでしょうが、いえいえ、その作業はほんとに苦しい、苦しい…。でも、私はとても期待をしているんです。
 その「鮨屋の娘」の写真です。(撮影…河村牧子) 直前までキャラクターが混乱した井原さん。本番前日というのに私は「今から私が全部読むから、それを参考に。」といって終えました。そして本番前のリハーサル、明らかに違った「娘」がそこにいました。井原さんと二人思わず抱き合いましたが、まあそれくらい、ものすごく大変なことを高校一年生はやりました。心からありがとう、お疲れ様と言いたいです。
次回は、もう一つの一人芝居「いのちの家の娘」について書きます。






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