我が国の国土を守り、領海+排他的経済水域(EEZ)を他国の干渉から排除することは、海洋国家国民として当然の権利である。それらを祖先から有難く受け継ぎ、自分達の時代にこれを大切に扱い、汚さず失わずに子孫に渡すのが私達の義務なのだ。
北方四島は、敗戦後旧ソ連、只今はロシアに占拠されたままである。様々な交渉経過はあったが、現在もその状況は殆ど変わらない。これは、ロシアと息の長い交渉をするより仕方が無い。間違っても、二島返還等で妥協してはならぬ。
さて、竹島問題である。今回の調査船派遣案件を通じて、この領土問題を改めて考えさせられた。4月25日の盧武鉉大統領特別談話を読んでいたら、余りにも滅茶苦茶な「歴史認識」で、私自身の知識へもいささかの混乱を与えてくれた(笑)。
戦前の竹島帰属に関する論考や情報は、解説書やwebで詳しく述べられている。大東亜戦後に、竹島領有権が始めて日韓の問題となって来たのだ。それで問題化した理由を振返り、改めて竹島の「歴史認識」をきちんとしてみたい。下條正男氏の著書「竹島は日韓どちらのものか」と次の年表を参考にしながら、竹島の戦後史を辿ることになる。
http://toron.pepper.jp/jp/take/sengo/sengohen.html
○李承晩ライン
敗戦の翌年(1946)9月に、日本の周囲に形成された「マッカーサー・ライン」では、竹島は日本の領土に含まれていなかった。このラインは、当初旧日本軍の軍管区を参考にして作られた制限漁獲水域である。60年を経過した只今の混乱は、当初マッカーサー・ラインを設置したGHQの考えに遠因がある。歴史的にも竹島の日本帰属が正当である事を証明出来る資料は、当時も充分に揃っていた。日本政府が筋道を立てて米国へ申し立てを行った結果、1949年に竹島は改訂マッカーサー・ラインの内側に入り、日本領土に戻った。
米国は、ハワイにいた反日運動家老人李承晩を連れ戻し、1948年2月(大韓民国成立)に初代韓国大統領とした。竹島の日本復帰に不満な李承晩(当時73才)は、1952年1月18日に海洋主権宣言を行い、マッカーサー・ラインの日本海側に変更を加え、竹島を含む形で自国に都合の良い「平和線」(日本名:李承晩ライン)を設置した。日本には未だ占領軍がおり、朝鮮戦争(1950.6-1953.7)の戦闘が38度線で膠着していた頃である。
時の首相は吉田茂、彼は3ヵ月後に発効するサンフランシスコ講和条約においては竹島が韓国の帰属になっていないと言う訳で、安心していただろう。また、国際法違反の李ライン設置に不満はあっても、占領下の日本は事実上どうする事も出来なかった。マッカーサー・ラインは、講和条約発効寸前の1952年4月25日に廃止された。
李ラインは、設定後から米国、英国、中華民国により国際法違反と批判されたが、反日の権化李承晩老人は動じなかった。1953年1月18日、恐れを知らぬ李大統領は、李ライン内の日本漁船拿捕を命令、それにより2月13日「第一大邦丸事件」が起きる。同船(57トン)の瀬戸重次郎漁労長(34才)が韓国漁船により射殺されたのだ。折しも、第1次日韓国交回復交渉が話題とされた頃であった。
http://captainyamanote.blog5.fc2.com/blog-category-4.html
当然、日本国民の対韓感情は極めて悪化した。更に韓国政府は、追い討ちを掛けて竹島(独島)の領有を宣言する。ここから、事実上の竹島問題が発生した。日本では、海上警備隊が海上保安庁に改組された。同年7月に海保は巡視船を竹島に送り、島根県標識を設置するが、その時も韓国側から発砲を受けた。標識は、まもなく韓国側により破棄される。
1954年に韓国警備隊が竹島を不法に占拠して以来、この状態が続いている。我が国は、1956年に国連加盟が出来たので国際司法裁判所で決着を付ける事を提案、また不法占拠に対して口頭でクレームを付けて来たが、韓国政府に無視されるだけであった。また、李ラインを越えたと言って不法に拉致され、漁船・漁具を奪われた抑留漁民は3929人にも達した。死傷者も44人出ている。拿捕漁船数は328隻。
抑留漁民は、13年間も海藻で命を繋ぐ等、塗炭の苦行を強いられた。また、これらの抑留漁民を解放してもらうために、在日朝鮮人犯罪者472人を解放し、在留特別許可を与えている。その内容を知ると、憤怒の感情が沸き上がる。私達日本人は、第一大邦丸事件と共に、この傷ましい悲劇を決して忘れてはならない。
結果的に、米国政府とGHQは、日本の独立時において李ラインを解消しないままに放置、これは日本漁民の悲劇を伴いながら1965年まで続いた。
朝鮮戦争直後に出た1954年のバン・フリート報告では、当時の米国の考えが述べられている。てっくさんのブログは、それを詳しく紹介した。
http://tech.sub.jp/2006/04/post_503.html#comments
日韓国交回復交渉は、第1次が1952年に第2次と第3次(久保田発言で有名)が1953年に、続いて第4次(1958)、第5次(1960)と続く。特に、第2次交渉では、竹島問題で紛糾した。交渉が仲々まとまらなかったのは、賠償問題に関して韓国側の意見が強引過ぎたためだ。
1960年、李承晩は国内悪政が原因で4選目の選挙直後に下野、同年5月29日に追われるようにハワイへ亡命、5年後に客死した(90才)。李老人の後は、張勉が政権を取った。
実に悪名高い国際法違反の李ラインであるが、韓国側はこれを今もなおも正当化している。それに対するlancer1 氏の厳しい論評がある。
http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/10014974.html
http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/50327395.html
(以下続く)
北方四島は、敗戦後旧ソ連、只今はロシアに占拠されたままである。様々な交渉経過はあったが、現在もその状況は殆ど変わらない。これは、ロシアと息の長い交渉をするより仕方が無い。間違っても、二島返還等で妥協してはならぬ。
さて、竹島問題である。今回の調査船派遣案件を通じて、この領土問題を改めて考えさせられた。4月25日の盧武鉉大統領特別談話を読んでいたら、余りにも滅茶苦茶な「歴史認識」で、私自身の知識へもいささかの混乱を与えてくれた(笑)。
戦前の竹島帰属に関する論考や情報は、解説書やwebで詳しく述べられている。大東亜戦後に、竹島領有権が始めて日韓の問題となって来たのだ。それで問題化した理由を振返り、改めて竹島の「歴史認識」をきちんとしてみたい。下條正男氏の著書「竹島は日韓どちらのものか」と次の年表を参考にしながら、竹島の戦後史を辿ることになる。
http://toron.pepper.jp/jp/take/sengo/sengohen.html
○李承晩ライン
敗戦の翌年(1946)9月に、日本の周囲に形成された「マッカーサー・ライン」では、竹島は日本の領土に含まれていなかった。このラインは、当初旧日本軍の軍管区を参考にして作られた制限漁獲水域である。60年を経過した只今の混乱は、当初マッカーサー・ラインを設置したGHQの考えに遠因がある。歴史的にも竹島の日本帰属が正当である事を証明出来る資料は、当時も充分に揃っていた。日本政府が筋道を立てて米国へ申し立てを行った結果、1949年に竹島は改訂マッカーサー・ラインの内側に入り、日本領土に戻った。
米国は、ハワイにいた反日運動家老人李承晩を連れ戻し、1948年2月(大韓民国成立)に初代韓国大統領とした。竹島の日本復帰に不満な李承晩(当時73才)は、1952年1月18日に海洋主権宣言を行い、マッカーサー・ラインの日本海側に変更を加え、竹島を含む形で自国に都合の良い「平和線」(日本名:李承晩ライン)を設置した。日本には未だ占領軍がおり、朝鮮戦争(1950.6-1953.7)の戦闘が38度線で膠着していた頃である。
時の首相は吉田茂、彼は3ヵ月後に発効するサンフランシスコ講和条約においては竹島が韓国の帰属になっていないと言う訳で、安心していただろう。また、国際法違反の李ライン設置に不満はあっても、占領下の日本は事実上どうする事も出来なかった。マッカーサー・ラインは、講和条約発効寸前の1952年4月25日に廃止された。
李ラインは、設定後から米国、英国、中華民国により国際法違反と批判されたが、反日の権化李承晩老人は動じなかった。1953年1月18日、恐れを知らぬ李大統領は、李ライン内の日本漁船拿捕を命令、それにより2月13日「第一大邦丸事件」が起きる。同船(57トン)の瀬戸重次郎漁労長(34才)が韓国漁船により射殺されたのだ。折しも、第1次日韓国交回復交渉が話題とされた頃であった。
http://captainyamanote.blog5.fc2.com/blog-category-4.html
当然、日本国民の対韓感情は極めて悪化した。更に韓国政府は、追い討ちを掛けて竹島(独島)の領有を宣言する。ここから、事実上の竹島問題が発生した。日本では、海上警備隊が海上保安庁に改組された。同年7月に海保は巡視船を竹島に送り、島根県標識を設置するが、その時も韓国側から発砲を受けた。標識は、まもなく韓国側により破棄される。
1954年に韓国警備隊が竹島を不法に占拠して以来、この状態が続いている。我が国は、1956年に国連加盟が出来たので国際司法裁判所で決着を付ける事を提案、また不法占拠に対して口頭でクレームを付けて来たが、韓国政府に無視されるだけであった。また、李ラインを越えたと言って不法に拉致され、漁船・漁具を奪われた抑留漁民は3929人にも達した。死傷者も44人出ている。拿捕漁船数は328隻。
抑留漁民は、13年間も海藻で命を繋ぐ等、塗炭の苦行を強いられた。また、これらの抑留漁民を解放してもらうために、在日朝鮮人犯罪者472人を解放し、在留特別許可を与えている。その内容を知ると、憤怒の感情が沸き上がる。私達日本人は、第一大邦丸事件と共に、この傷ましい悲劇を決して忘れてはならない。
結果的に、米国政府とGHQは、日本の独立時において李ラインを解消しないままに放置、これは日本漁民の悲劇を伴いながら1965年まで続いた。
朝鮮戦争直後に出た1954年のバン・フリート報告では、当時の米国の考えが述べられている。てっくさんのブログは、それを詳しく紹介した。
http://tech.sub.jp/2006/04/post_503.html#comments
日韓国交回復交渉は、第1次が1952年に第2次と第3次(久保田発言で有名)が1953年に、続いて第4次(1958)、第5次(1960)と続く。特に、第2次交渉では、竹島問題で紛糾した。交渉が仲々まとまらなかったのは、賠償問題に関して韓国側の意見が強引過ぎたためだ。
1960年、李承晩は国内悪政が原因で4選目の選挙直後に下野、同年5月29日に追われるようにハワイへ亡命、5年後に客死した(90才)。李老人の後は、張勉が政権を取った。
実に悪名高い国際法違反の李ラインであるが、韓国側はこれを今もなおも正当化している。それに対するlancer1 氏の厳しい論評がある。
http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/10014974.html
http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/50327395.html
(以下続く)
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