惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

高速哲学入門(316)

2011年11月20日 | 素人哲学の方法
哲学。なんでいまだに精神分析ってのは哲学の対象になるんだろう?カウンセリング的にはもう終わってる方法でしょう?治療に役立たない理論をいまだに知的好奇心でこねくりまわしているのってどうなんでしょうねぇ。ドゥルーズも好きだけど、そこだけがイヤだ。精神分析はつくり話の域をでない。
(Y_Matsutani)

そもそも哲学は治療のためにするものではないわけだ。治療の役に立つかどうかは哲学が関心を寄せることにとって一義的なことではないと思う。たとえば心の哲学では場合によっては無意識(心であってかつ意識とは呼び難いもの)について考察することだってあるわけだが、その考察を精神分析理論の批判という形でやるのは今でも別におかしなことではない。「無意識」を論じて批判的にでも取り上げるに足るだけの内容なり体系性なりを備えているものは、今もってほかにはないからだ。役に立たないのはそれがどこか間違っているからだとしても、どこがどう間違っているのかは考察を重ねるほかにつきとめようもないことだ。

精神分析が「カウンセリング的にはもう終わってる方法」だというのも俗な偏見に近い言い草であるはずだ。なるほど、フロイトなりユングなりラカンなりの枠組みのそのまんまで精神分析をやってる、つまりそれを売り文句に使っているカウンセラというのはいまどきあんまりいないはずだが、多様な方法のうちのひとつとしては終わってもいなければ死んでもいないと思える。クスリとおんなじで、クライアントによって効果があったりなかったりの個人差が激しいから「用法・用量をまもって」使われているという印象だ。だいたいカウンセラがフロイトもユングも何も知らない、そんなもの読んだこともないと言われたとしたら、その方が気味が悪い話だ。

「精神分析はつくり話の域を出ない」というのは本当だが、それを言ったら心理学をはじめとして、人の心についての理論や記述が主観的な事柄に触れている限り全部「つくり話の域を出ない」と言えてしまうわけだ。俺がいま読んでる発達心理学の文献なんかもそうだしな。もとが理科系の俺が理科系の素のままで読めば「まァた見てきたような嘘ばっかりww」としか言いようのない話ばっかりじゃないかということにはなるんだ。

けれどももちろん、理科系の素のままの世界(つまり物質の理論の世界)からは、人の心(意識)について、特にその重要な特徴であるところの「内性」「質性」「志向性」には指一本触れることもできない、触れられるとぬかすのは「トンデモ」科学(と、特にわが国の心の「トンデモ」哲学の一部)だけだというのも本当のことなわけだ。

そして、それを抜かしたら、誰もがこの世界で生きている間に経験するような事柄のほとんどについては何も言えないことになってしまう。何も言えないということは何をするにも根拠が与えられないということだとすれば、我々は誰も指一本動かせないことになってしまう。もちろん明らかに現実はそうしたものではない。誰もが各々の意図のもとで行為しまくっているし、それぞれの行為について明瞭に言えなくても何かの意味があるように思ってやっている(そう思っていなかったらやれるわけがない)わけだ。

これが全体としていったい何をしていることになるのか、それを考えることの一切がただの「知的好奇心」だとか「つくり話の域をでない」の一言で片がつくというなら、つけてみせたらいいことだ。誰もつけられないし、つけられない挙句に心を病んだりもするから分析家や療法家は無理を承知でつくり話をつくったり壊したりすることを繰り返しているわけだ。つくり話だろうと何だろうと体系性を備えた「話」を背景に置かなければ、個別のケースに遭遇して治療の方針も何も立たないからだ。そして、そうした事情は重々承知の上で哲学の批判的な考察というものもあるわけだ。
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