「一周忌なの。一緒に飯能に行ってくれる?」
母からそう誘われたことで、あれから一年が経ったんだと美音は改めて思った。
今まで母からたびたび、「飯能の片付けに行くんだけれど、一緒に来ない?」と誘われたが、大学生といえども、そんなに暇ではないし、あのきたならしい家で、後片付けの作業をするのかと思うと、行く気にもなれず、断ってきた。
しかし、一周忌となるとそうは言っていられない。仕方無しに行くことを承知した。
「そんなに嫌がらないでよ。あれからお母さん、だいぶ家の中を片付けたのよ。多少は居心地が良くなったから、期待して。それに勝手もわかってきたから、美音ちゃんにひもじい思いはさせないわよ。今度はね、デパートの仕出し弁当を買っていくの。三千円位のを考えているのよ。お坊様もお引止めして、お昼をご一緒しようと思ってるの」
「三千円のお弁当?」
美音の目が輝いた。
「三千円のお弁当って、それ、一人分?」
「そう、一人分よ」
母は、自慢そうに頷いた。
「三千円のお弁当って、どんなお弁当かしら」
「これから予約するのよ。楽しみにしていて」
母は一年間の間に、家の中を片付けてきた。その成果を美音に見せたがっていた。
美音も、この一年間で、ヴァイオリンがけっこう弾けるようになったところを母に聞いてもらいたいと思った。
「ねえ、私、ヴァイオリン持って行こうかな? あそこの家なら私が弾いても近所迷惑にならないでしょう?」
母は、一瞬、押し黙ったように見えた。
しかし、すぐに笑顔を取り戻し、
「あら、少しは弾けるようになったのかしら?」と、言った。
「ええ、すこし」
と、美音は答えた。
少しどころか、かなりいい音で弾けるようになったのではないかな? と美音は自負していた。聞いたら驚くぞ、と密かに思った。
父の命日と定めた日、その直前の日曜日に、二人は飯能に向かった。
いいお天気だった。
母は、位牌の入った紙袋を持ち、美音は大学から持ち帰ってきたヴァイオリンを背中に背負っていた。
途中駅のデパートで、予約していた3千円のお弁当を三つ受け取った。
「うわー、さすがあ。大きい」
「あなたお弁当持ってくれる?」
「え? 三つとも? 私ひとりで?」
「だって、これからお花とお菓子を買うのよ」
「わかったわよ」
二人は両手を荷物でいっぱいにしながら、飯能の家に辿り着いた。
家の外見は相変わらずだったが、玄関に一歩足を踏み入れて、美音は目を見張った。
玄関に積みあがっていたガラクタがなくなっていた。たたきも広々として塵一つなく、板場にはマットが敷かれて、玄関らしくなっていた。
「このマットね、買ったんじゃないのよ。二階の、贈答品の箱の中から見つけたの」
母の声がはずんでいた。
居間も見違えるほどすっきりと片付いていた。床を埋め尽くしていた紙袋や鞄の類が、いっさい姿を消し、テーブルの上に細々とのっていた生活用品は取り払われ、かわりに藍染のテーブルクロスが掛かっていた。
「うわー、すてき! まるで雑誌のインテリアみたい。このクロスどこで買ったの?」
「ううん。これ、買ったんじゃないのよ。これも二階で見つけたの」
母は得意そうだった。
「でも、紙袋や書類の整理はまだ終わってないのよ。隣の部屋に押し込んだだけなんだ」
なるほど、隣室に、鞄や紙袋、書類の詰まったダンボール箱などが、ぎっしりと、詰め込まれていた。
「だから、今日は、この襖は閉めておきましょう」
母は、居間と隣の部屋を隔てる襖を閉めた。
台所も激変していた。
「台所が一番簡単なのよ。みんな捨ててしまえばいいから」
古い食器や食料品の類は、中身をあらためる必要が全く無い。それらを一切合財捨てた後、天井のはがれかかっていたペンキをガラスワイパーでこそげ落とし、換気扇、ガス台、流し、食器戸棚、壁、床等々、総ての汚れを住まいの洗剤でふき取り、磨き上げた。
「お母さん一人でやったの?」
「他に誰がいますか? 美音ちゃんからは振られっぱなしだし」
真新しい電気ポットが置いてあった。
「あ、これも二階にあったの?」
「いえ、それは買ったの。でもね、こっちのやつは戸棚の奥にあった箱の中からみつけたのよ。見て、この茶器。青磁よ。買うと高いんだから。しかも、これ、かなりいい品物だと思うのよ」
まるで宝探しだ。
母はこの1年間、休日ともなると、飯能に通い、一人でこつこつと片付け作業を行ってきた。さぞかし、骨の折れる日々であったろう、と、美音は後ろめたくも感じていたが、どうしてどうして、結構楽しんでいたのではないか?
「これ、今日、使おうと思って、洗っておいたのよ」
母はそれら茶器とポットを居間に運び、すぐ食事が始められるように、お弁当とともにテーブルにセットした。
それから仏間の襖を左右に開け放ち、父のお位牌を仏壇に置き、お菓子を供え、花を生けた。
準備万端整った。
午前十一時三十分過ぎ、お坊様が自らミニバンを運転してやってきた。
お坊様には仏間に座っていただき、美音たちは続く居間のほうに座った。
読経と焼香が終わると、母は、美音が今まで見たことがないほどあらたまって、お坊様に深々と頭を下げた。
「本日は、お忙しい中、お齋(とき)をともにしてくださるそうで有難うございます。つつましいもので、たいへん申し訳ございませんが、何卒よろしくお願い申し上げます」
「いえいえ、私も、あなたの事がたいへん気になっておりまして、少しでも故人の様子などお話できればと思いましてね」
美音の家では、父の話はタブーだったのだ。
「困った人」「悪口になるから言わないわ」
母はそう言って語らず、母の実家などでは、「そんなやついたかな」という扱いだった。
父の一周忌。
お坊様が語る。
美音にとって初めて聞くとも言える父の姿。
「時おり、頼まれてアマチュアの合唱団や大学のオーケストラなどの指揮指導にもいらしていたようですがね」
だいたいはピアノの調律で生計を立てていたようだ。
「あなたのことも話しておられました」
「まあ? 私のことを?」
母は、微笑みながら相づちをうっている。
「ええ。追い出したから、もう帰ってこなくなったんだと、言っておられましたなあ」
「まあ、そんなことを?」
と、母はそう受け答えはしたが、その通りと、顔に浮かんだ微笑が語っていた。
「なんでも、一度、お電話をされそうですね」
「わたくしが、ですか?」
「いえ、緑(ろく)朗(ろう)くんのほうから」
「はあ」
「緑朗くんはヨリを戻そうとして電話したけれど、あなたから断わられたと。心を動かすことはできなかった、取り戻すことはできなかった、と言っておられました。」
そんな話、美音には全く知らされていなかった。母はなんと言って断わったのか? 美音は気色ばんで母の唇を注視した。
「断わっただなんて……」
母は、そうつぶやいたきり、しばらく目を宙に浮かせていた。が、ようやく語りだした。その面(おもて)から微笑みは消えていた。
「六年ほど前ですか。舅が亡くなったと連絡がありました。一度、新宿あたりで会わないかと。電話はそれだけです」
「それを断わられたのですね」
「だって、わたくし、仕事がありますでしょう。当時美音はまだ中学生。高校受験を控えておりました。わたくしは、家に帰ったら洗濯物の始末、ご飯の支度。会っている暇などありませんもの」
「どんな話になるか、内容は察しておられたのでしょう?」
母の顔に紅みが差した。
「それがあの人のやり方なんです。ひとには察してくれ、ということをほのめかしておいて、はっきり言わないんです。それで、後でまずくなると、僕はそんなこと言っていないと言うんです。確かに言っていないんです。こっちが勝手にそう思っただけということになってしまう。だから、あの人の言葉で、何かを期待することはやめたんです」
母の目にうっすら涙が浮かんでいた。
母からそう誘われたことで、あれから一年が経ったんだと美音は改めて思った。
今まで母からたびたび、「飯能の片付けに行くんだけれど、一緒に来ない?」と誘われたが、大学生といえども、そんなに暇ではないし、あのきたならしい家で、後片付けの作業をするのかと思うと、行く気にもなれず、断ってきた。
しかし、一周忌となるとそうは言っていられない。仕方無しに行くことを承知した。
「そんなに嫌がらないでよ。あれからお母さん、だいぶ家の中を片付けたのよ。多少は居心地が良くなったから、期待して。それに勝手もわかってきたから、美音ちゃんにひもじい思いはさせないわよ。今度はね、デパートの仕出し弁当を買っていくの。三千円位のを考えているのよ。お坊様もお引止めして、お昼をご一緒しようと思ってるの」
「三千円のお弁当?」
美音の目が輝いた。
「三千円のお弁当って、それ、一人分?」
「そう、一人分よ」
母は、自慢そうに頷いた。
「三千円のお弁当って、どんなお弁当かしら」
「これから予約するのよ。楽しみにしていて」
母は一年間の間に、家の中を片付けてきた。その成果を美音に見せたがっていた。
美音も、この一年間で、ヴァイオリンがけっこう弾けるようになったところを母に聞いてもらいたいと思った。
「ねえ、私、ヴァイオリン持って行こうかな? あそこの家なら私が弾いても近所迷惑にならないでしょう?」
母は、一瞬、押し黙ったように見えた。
しかし、すぐに笑顔を取り戻し、
「あら、少しは弾けるようになったのかしら?」と、言った。
「ええ、すこし」
と、美音は答えた。
少しどころか、かなりいい音で弾けるようになったのではないかな? と美音は自負していた。聞いたら驚くぞ、と密かに思った。
父の命日と定めた日、その直前の日曜日に、二人は飯能に向かった。
いいお天気だった。
母は、位牌の入った紙袋を持ち、美音は大学から持ち帰ってきたヴァイオリンを背中に背負っていた。
途中駅のデパートで、予約していた3千円のお弁当を三つ受け取った。
「うわー、さすがあ。大きい」
「あなたお弁当持ってくれる?」
「え? 三つとも? 私ひとりで?」
「だって、これからお花とお菓子を買うのよ」
「わかったわよ」
二人は両手を荷物でいっぱいにしながら、飯能の家に辿り着いた。
家の外見は相変わらずだったが、玄関に一歩足を踏み入れて、美音は目を見張った。
玄関に積みあがっていたガラクタがなくなっていた。たたきも広々として塵一つなく、板場にはマットが敷かれて、玄関らしくなっていた。
「このマットね、買ったんじゃないのよ。二階の、贈答品の箱の中から見つけたの」
母の声がはずんでいた。
居間も見違えるほどすっきりと片付いていた。床を埋め尽くしていた紙袋や鞄の類が、いっさい姿を消し、テーブルの上に細々とのっていた生活用品は取り払われ、かわりに藍染のテーブルクロスが掛かっていた。
「うわー、すてき! まるで雑誌のインテリアみたい。このクロスどこで買ったの?」
「ううん。これ、買ったんじゃないのよ。これも二階で見つけたの」
母は得意そうだった。
「でも、紙袋や書類の整理はまだ終わってないのよ。隣の部屋に押し込んだだけなんだ」
なるほど、隣室に、鞄や紙袋、書類の詰まったダンボール箱などが、ぎっしりと、詰め込まれていた。
「だから、今日は、この襖は閉めておきましょう」
母は、居間と隣の部屋を隔てる襖を閉めた。
台所も激変していた。
「台所が一番簡単なのよ。みんな捨ててしまえばいいから」
古い食器や食料品の類は、中身をあらためる必要が全く無い。それらを一切合財捨てた後、天井のはがれかかっていたペンキをガラスワイパーでこそげ落とし、換気扇、ガス台、流し、食器戸棚、壁、床等々、総ての汚れを住まいの洗剤でふき取り、磨き上げた。
「お母さん一人でやったの?」
「他に誰がいますか? 美音ちゃんからは振られっぱなしだし」
真新しい電気ポットが置いてあった。
「あ、これも二階にあったの?」
「いえ、それは買ったの。でもね、こっちのやつは戸棚の奥にあった箱の中からみつけたのよ。見て、この茶器。青磁よ。買うと高いんだから。しかも、これ、かなりいい品物だと思うのよ」
まるで宝探しだ。
母はこの1年間、休日ともなると、飯能に通い、一人でこつこつと片付け作業を行ってきた。さぞかし、骨の折れる日々であったろう、と、美音は後ろめたくも感じていたが、どうしてどうして、結構楽しんでいたのではないか?
「これ、今日、使おうと思って、洗っておいたのよ」
母はそれら茶器とポットを居間に運び、すぐ食事が始められるように、お弁当とともにテーブルにセットした。
それから仏間の襖を左右に開け放ち、父のお位牌を仏壇に置き、お菓子を供え、花を生けた。
準備万端整った。
午前十一時三十分過ぎ、お坊様が自らミニバンを運転してやってきた。
お坊様には仏間に座っていただき、美音たちは続く居間のほうに座った。
読経と焼香が終わると、母は、美音が今まで見たことがないほどあらたまって、お坊様に深々と頭を下げた。
「本日は、お忙しい中、お齋(とき)をともにしてくださるそうで有難うございます。つつましいもので、たいへん申し訳ございませんが、何卒よろしくお願い申し上げます」
「いえいえ、私も、あなたの事がたいへん気になっておりまして、少しでも故人の様子などお話できればと思いましてね」
美音の家では、父の話はタブーだったのだ。
「困った人」「悪口になるから言わないわ」
母はそう言って語らず、母の実家などでは、「そんなやついたかな」という扱いだった。
父の一周忌。
お坊様が語る。
美音にとって初めて聞くとも言える父の姿。
「時おり、頼まれてアマチュアの合唱団や大学のオーケストラなどの指揮指導にもいらしていたようですがね」
だいたいはピアノの調律で生計を立てていたようだ。
「あなたのことも話しておられました」
「まあ? 私のことを?」
母は、微笑みながら相づちをうっている。
「ええ。追い出したから、もう帰ってこなくなったんだと、言っておられましたなあ」
「まあ、そんなことを?」
と、母はそう受け答えはしたが、その通りと、顔に浮かんだ微笑が語っていた。
「なんでも、一度、お電話をされそうですね」
「わたくしが、ですか?」
「いえ、緑(ろく)朗(ろう)くんのほうから」
「はあ」
「緑朗くんはヨリを戻そうとして電話したけれど、あなたから断わられたと。心を動かすことはできなかった、取り戻すことはできなかった、と言っておられました。」
そんな話、美音には全く知らされていなかった。母はなんと言って断わったのか? 美音は気色ばんで母の唇を注視した。
「断わっただなんて……」
母は、そうつぶやいたきり、しばらく目を宙に浮かせていた。が、ようやく語りだした。その面(おもて)から微笑みは消えていた。
「六年ほど前ですか。舅が亡くなったと連絡がありました。一度、新宿あたりで会わないかと。電話はそれだけです」
「それを断わられたのですね」
「だって、わたくし、仕事がありますでしょう。当時美音はまだ中学生。高校受験を控えておりました。わたくしは、家に帰ったら洗濯物の始末、ご飯の支度。会っている暇などありませんもの」
「どんな話になるか、内容は察しておられたのでしょう?」
母の顔に紅みが差した。
「それがあの人のやり方なんです。ひとには察してくれ、ということをほのめかしておいて、はっきり言わないんです。それで、後でまずくなると、僕はそんなこと言っていないと言うんです。確かに言っていないんです。こっちが勝手にそう思っただけということになってしまう。だから、あの人の言葉で、何かを期待することはやめたんです」
母の目にうっすら涙が浮かんでいた。
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