3月26日、誘ってくれる人がいて、映画を見に行きました。
「ディア・ドクター」
西川和美という人が、原作・脚本・監督をした作品です。
この日、監督が舞台挨拶に来ました。
その若さに驚きました。
うっかりして、写真を撮るのを忘れました。
写真を撮るなという場内アナウンスがなかったからチャンスだったのですが、うっかりしました。
場内アナウンスがなかったのは視覚障害、聴覚障害を持つひとのための上映会だったためかもしれません。
この映画は第22回日刊スポーツ映画大賞を受賞した作品です。
Catmouseにはこの賞の権威がどのくらいのものかわかりませんが、この賞一つだけでは物足りないくらい、西川和美という監督に才能を感じました。
山間の小さな村の診療所に住み込みで勤める医師を笑福亭鶴瓶が演じます。
そこに、若い研修医がやってきますが、赤いスポーツカーで登場。しかも道路交通法違反である、携帯で話しながらの運転で、話している中身といえば、ジャンケンで負けたためこんなド田舎を研修先として選択せざるを得なかったわが身を嘆くといった内容。まさに軽薄そのもの。そのチャラオを演じるのが瑛太という役者さん。
診療所には先生のほかに、たったひとり看護師さんがいます。
それを演じるのは余貴美子。話が進むにつれて、この看護師は医師だった夫と離婚して、喘息もちの小学生の男の子を育てていることがわかります。
出入りの薬屋には香川照之。
薬を一錠でも多く売りたいセールスマンとしてひとくせありながら、ボケておかしなことを言う老女には体をはって話を合わせるといった人情味も持っています。
村長に笹野高史。Catmouseはこの人が好きですが、名前が全然覚えられません。これを機会に憶えようと思います。彼は、「無医村だったこの村に、こんないい医者を見つけてきたのは村長のこの俺だ」と酒席で自慢をしますが、そのシーンにcatmouseは笑いこけました。
物語はいかに先生がいいお医者さんだったかというエピソードがつづられます。
夜中でも、急患がでれば駆けつけるお医者さんです。
村人達の
「先生! たいへんだ!」
ですぐきてくれるお医者さん。
こういうお医者さんは昔はいましたが、いまや伝説ですね。
産気づいた産婦を産院まで付き添ってあげたり、臨終を迎えたというおじいさんを抱きしめ、そのために喉につかえていた寿司ネタがとれて生き返らせたりします。
大事故にあって、骨折し、肺に穴が空いて気胸をおこした患者が運び込まれたときは、看護師が「先生、こういう患者、わたし何人も見ています。気胸を起こしています。胸に穴をあけて、空気を逃がして。そうすれば助かるから。わたしは看護師だから、それができないから。はやく先生やって!」と躊躇する医師にせまります。この、診療所でたったひとりの看護師が、いかに有能でしっかりものか、わかるシーンです。
このとき、この医者が、なんで躊躇したか。
それは、彼は実は無免許の偽医者だったからです。
もう一人、重要な登場人物がいます。
それは、医者になって、東京の大学病院で働いているという娘さんを持つ未亡人です。
この未亡人を演じるのが八千草薫。
八千草薫が登場したとき、「ああ、八千草薫もふけたな」と思いました。
しかも、あの、八千草薫が、田舎の人がよく着る柄物のエプロンを着用し、ほっかむりをし、寝るときはガーゼ寝巻きを着ています。
なんで未亡人の農婦を八千草薫が?
と思いましたが、八千草薫が演じているのです。
もうそれだけで、フラグがたったと思わなくてはいけませんでした。
この未亡人は具合が悪くても診療所に来ません。
「娘さんが医者だから娘さんに相談しているでしょう」
というのが村のみなさんがみるところです。
また、お医者の先生は、診療所に来ない人のところにまわって、健康診断をしているのですが、その未亡人のところにはいきません。
「何で行かないんですか?」
という問いに、医者は
「(領海侵犯になるからと言ったかな?)他のお医者さんのテリトリーだから」というような意味のことをいいます。
ところが、ある日、この未亡人が倒れて、医者は呼ばれ、診察することになります。
医者は癌を疑いました。
が、未亡人は夫を癌で亡くしており、ああいう思いを娘にさせたくないので、娘には黙っていてくれと頼みます。
未亡人は医者である娘にも全く相談していなかったのです。
医者はその頼みをひきうけ、ついでに実際は癌であるけれども本人には胃潰瘍だと嘘をついて安心させます。
医者は未亡人のうちでご飯をよばれたり、未亡人は夜の往診で点滴をうけたりします。
それだけの間柄ですが、二人の間にほのかな心の交流が生じます。
だから、この未亡人の役は、八千草薫じゃないといけなかったのですね。
八千草薫はいくつになっても、マドンナなんです。
ドラマは終わりを迎えます。
どうして終わったか。
未亡人の娘の医者が帰省して、ゴミ箱に薬の空き袋をみつけて不審に思い、診療所に医師を訪れることから始まりました。
偽医者は胃カメラの写真などを見せ(多分その写真は薬屋の胃カメラの写真)、胃潰瘍であることを説明をし、娘はその説明に納得して帰ろうとするのですが、娘の次の帰省が一年後ときいて、医者は娘をひきとめます。
(一年後にはもうお母さんは死んでいる)医者はその言葉を飲み込み、
「ちょっと、まってて、すぐ戻るから」
そういい遺して、偽医者は村を出奔するのでした。
途中すれ違った出入りの薬屋に、今まで隠していた未亡人の、癌が写っている本物の胃カメラの写真を託します。
村に刑事が着て、医者が無免許だったことが村中に知れ渡ります。
村人達は「どうりで。俺の腰の痛いのがちっとも直らないと思ったよ」
とか、未亡人は未亡人で「なんにもしてもらわなかったわよ」と批判らしいものを口にします。
しかし刑事は感じています。
「もし、ここで、実際に逮捕したら、俺は村人に取り囲まれて葬られるのはこっちだ」
刑事は 医者で未亡人の娘に問いかけます。
「訴えますか?」
娘は「いいえ」と答え、あとでそっとつぶやきます。
「あの人が、どのようにして、母を死なせるか、見たかった」
映画は美しい田園風景を写し出します。
その美しさは、村の人々の労働の賜物。
村からは若人が流出し、老人とわずかな子どもしか残っていないのですが、そこの人々は、収穫を楽しみにしている誰かのために農作業に精を出しています。
農作業に精を出したことから来る足腰の痛み、
年齢から来る体の不調、
人は誰でもいつかは死に、
直らない病気もあります。
医者は、人々の訴えに耳を傾け、不調や病の症状をできる限りおさえ、痛みや苦しみを和らげるよう力を尽くしていました。
もし、そのお医者さんが、ずっと村にいたならば、人々は、普通の生活のなかで、普通に暮らしながら、人生の終末を迎えたことでしょう。
それは私たちが望んでいる理想の医療の姿ではないでしょうか?
免許を持たない医者が、そうした理想の医療を提供していたというのは、皮肉な話です。
医者が偽であったため、この理想の医療には終止符がうたれます。
しかし?
映画は最後に、私たちに希望を見せて終わります。
その希望とは?
ここでは語らないでおきましょう。
「ディア・ドクター」
西川和美という人が、原作・脚本・監督をした作品です。
この日、監督が舞台挨拶に来ました。
その若さに驚きました。
うっかりして、写真を撮るのを忘れました。
写真を撮るなという場内アナウンスがなかったからチャンスだったのですが、うっかりしました。
場内アナウンスがなかったのは視覚障害、聴覚障害を持つひとのための上映会だったためかもしれません。
この映画は第22回日刊スポーツ映画大賞を受賞した作品です。
Catmouseにはこの賞の権威がどのくらいのものかわかりませんが、この賞一つだけでは物足りないくらい、西川和美という監督に才能を感じました。
山間の小さな村の診療所に住み込みで勤める医師を笑福亭鶴瓶が演じます。
そこに、若い研修医がやってきますが、赤いスポーツカーで登場。しかも道路交通法違反である、携帯で話しながらの運転で、話している中身といえば、ジャンケンで負けたためこんなド田舎を研修先として選択せざるを得なかったわが身を嘆くといった内容。まさに軽薄そのもの。そのチャラオを演じるのが瑛太という役者さん。
診療所には先生のほかに、たったひとり看護師さんがいます。
それを演じるのは余貴美子。話が進むにつれて、この看護師は医師だった夫と離婚して、喘息もちの小学生の男の子を育てていることがわかります。
出入りの薬屋には香川照之。
薬を一錠でも多く売りたいセールスマンとしてひとくせありながら、ボケておかしなことを言う老女には体をはって話を合わせるといった人情味も持っています。
村長に笹野高史。Catmouseはこの人が好きですが、名前が全然覚えられません。これを機会に憶えようと思います。彼は、「無医村だったこの村に、こんないい医者を見つけてきたのは村長のこの俺だ」と酒席で自慢をしますが、そのシーンにcatmouseは笑いこけました。
物語はいかに先生がいいお医者さんだったかというエピソードがつづられます。
夜中でも、急患がでれば駆けつけるお医者さんです。
村人達の
「先生! たいへんだ!」
ですぐきてくれるお医者さん。
こういうお医者さんは昔はいましたが、いまや伝説ですね。
産気づいた産婦を産院まで付き添ってあげたり、臨終を迎えたというおじいさんを抱きしめ、そのために喉につかえていた寿司ネタがとれて生き返らせたりします。
大事故にあって、骨折し、肺に穴が空いて気胸をおこした患者が運び込まれたときは、看護師が「先生、こういう患者、わたし何人も見ています。気胸を起こしています。胸に穴をあけて、空気を逃がして。そうすれば助かるから。わたしは看護師だから、それができないから。はやく先生やって!」と躊躇する医師にせまります。この、診療所でたったひとりの看護師が、いかに有能でしっかりものか、わかるシーンです。
このとき、この医者が、なんで躊躇したか。
それは、彼は実は無免許の偽医者だったからです。
もう一人、重要な登場人物がいます。
それは、医者になって、東京の大学病院で働いているという娘さんを持つ未亡人です。
この未亡人を演じるのが八千草薫。
八千草薫が登場したとき、「ああ、八千草薫もふけたな」と思いました。
しかも、あの、八千草薫が、田舎の人がよく着る柄物のエプロンを着用し、ほっかむりをし、寝るときはガーゼ寝巻きを着ています。
なんで未亡人の農婦を八千草薫が?
と思いましたが、八千草薫が演じているのです。
もうそれだけで、フラグがたったと思わなくてはいけませんでした。
この未亡人は具合が悪くても診療所に来ません。
「娘さんが医者だから娘さんに相談しているでしょう」
というのが村のみなさんがみるところです。
また、お医者の先生は、診療所に来ない人のところにまわって、健康診断をしているのですが、その未亡人のところにはいきません。
「何で行かないんですか?」
という問いに、医者は
「(領海侵犯になるからと言ったかな?)他のお医者さんのテリトリーだから」というような意味のことをいいます。
ところが、ある日、この未亡人が倒れて、医者は呼ばれ、診察することになります。
医者は癌を疑いました。
が、未亡人は夫を癌で亡くしており、ああいう思いを娘にさせたくないので、娘には黙っていてくれと頼みます。
未亡人は医者である娘にも全く相談していなかったのです。
医者はその頼みをひきうけ、ついでに実際は癌であるけれども本人には胃潰瘍だと嘘をついて安心させます。
医者は未亡人のうちでご飯をよばれたり、未亡人は夜の往診で点滴をうけたりします。
それだけの間柄ですが、二人の間にほのかな心の交流が生じます。
だから、この未亡人の役は、八千草薫じゃないといけなかったのですね。
八千草薫はいくつになっても、マドンナなんです。
ドラマは終わりを迎えます。
どうして終わったか。
未亡人の娘の医者が帰省して、ゴミ箱に薬の空き袋をみつけて不審に思い、診療所に医師を訪れることから始まりました。
偽医者は胃カメラの写真などを見せ(多分その写真は薬屋の胃カメラの写真)、胃潰瘍であることを説明をし、娘はその説明に納得して帰ろうとするのですが、娘の次の帰省が一年後ときいて、医者は娘をひきとめます。
(一年後にはもうお母さんは死んでいる)医者はその言葉を飲み込み、
「ちょっと、まってて、すぐ戻るから」
そういい遺して、偽医者は村を出奔するのでした。
途中すれ違った出入りの薬屋に、今まで隠していた未亡人の、癌が写っている本物の胃カメラの写真を託します。
村に刑事が着て、医者が無免許だったことが村中に知れ渡ります。
村人達は「どうりで。俺の腰の痛いのがちっとも直らないと思ったよ」
とか、未亡人は未亡人で「なんにもしてもらわなかったわよ」と批判らしいものを口にします。
しかし刑事は感じています。
「もし、ここで、実際に逮捕したら、俺は村人に取り囲まれて葬られるのはこっちだ」
刑事は 医者で未亡人の娘に問いかけます。
「訴えますか?」
娘は「いいえ」と答え、あとでそっとつぶやきます。
「あの人が、どのようにして、母を死なせるか、見たかった」
映画は美しい田園風景を写し出します。
その美しさは、村の人々の労働の賜物。
村からは若人が流出し、老人とわずかな子どもしか残っていないのですが、そこの人々は、収穫を楽しみにしている誰かのために農作業に精を出しています。
農作業に精を出したことから来る足腰の痛み、
年齢から来る体の不調、
人は誰でもいつかは死に、
直らない病気もあります。
医者は、人々の訴えに耳を傾け、不調や病の症状をできる限りおさえ、痛みや苦しみを和らげるよう力を尽くしていました。
もし、そのお医者さんが、ずっと村にいたならば、人々は、普通の生活のなかで、普通に暮らしながら、人生の終末を迎えたことでしょう。
それは私たちが望んでいる理想の医療の姿ではないでしょうか?
免許を持たない医者が、そうした理想の医療を提供していたというのは、皮肉な話です。
医者が偽であったため、この理想の医療には終止符がうたれます。
しかし?
映画は最後に、私たちに希望を見せて終わります。
その希望とは?
ここでは語らないでおきましょう。