3次元紀行

手ぶらで地球にやって来ました。生きていくのはたいへん。そんな日々を標本にしてみました。

国立新美術館とアンデパンダン展

2009-03-30 13:06:23 | アート
3月29日、
第62回日本アンダパンダン展に行った。

アンダパンダンとは、
「自立・独立を意味する言葉です。
何よりも美術を創ろうとする人一人一人の創造性、個性、人間性の発揮と批判精神を大切にし権威主義を排し、平等に大きな連帯と交流の輪をつくることをめざしています。」だそうだ。

主催者は日本美術会。

なんでわざわざ主催者を記載したかというと、アンダパンダン展というのは無審査、全作品出品という展覧会を開くときよく使われる名称らしい。芸大アンデパンダン展、読売アンデパンダン展、Zアンデパンダン展など、アンデパンダン展というのはいろいろな団体があちこちで開催しているから。

「1884年、ジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックらによってパリにアンデパンダン美術協会(独立芸術家協会、societes des artistes independants)が設立され、同年、保守的な審査のサロンに対抗して、会費を払えば誰でも無審査で出展できる展覧会(アンデパンダン展)を行った」というのが起源らしい。
無審査だからもちろん、日曜画家も出品できるが、馬鹿にしてはいけない。
アンリ・ルソーはアンデパンダン出身なんだそうだ。

で、なぜ、そんなところにいったかというと、
友人から招待状をもらった。
その友人が作品を出展したから。(冒頭の絵が友人のもの)
友人は企業のデザイナーとして、現役中は毎年何十億円もの売り上げあげていた
その友人が現役中にひらいた作品展を見に行ったことがある。
その時の絵のひとつには、包帯をぐるぐる巻きにした人物が描かれていた。
「あれは満身創痍のわたしを描いたの」
芸術家の魂をもつ友人は、激烈な競争社会の真っ只中にいる自分をそんなふうに表現していた。
その友人が定年まで勤めを頑張りぬき、リタイアしたのちゆったりと描きあげた作品。
それは「夕日」が題材の輝くような鮮やかな黄色を使った作品だった。
「いま、美しい夕日を見るのが大好きなの。もう、いまは美しいものだけを見ていたい」

 

日本アンダパンダン展は国立新美術館で開催された。

国立新美術館にはじめていった。

今回、ぬかっていたことがひとつあって、
それはなにかというと、招待状をもらったため、そこに美術館までの地図があるだろうと思い込んで事前に場所を検索していかなかったのだ。
電車に乗ってからおもむろに招待状のはがきを取り出し、「えーと、どれどれ」と地図らしいものをさがした。
しかし、招待状をためつすがめつ眺めても地図らしいものなど書かれていない。しまったな、と思った。
住所に港区六本木とあるので、とりあえず千代田線の乃木坂で降りることにした。
乃木坂にはサントリー美術館がある。そこには行ったことがあるので、そちらの方向に出ればなんとかなるだろう、と思いながら駅を降りた。

しかし、何とかなるどころではなかった。乃木坂の駅を降り、6番出口を出ると、その出口は国立新美術館に直接つながっていた。

また、美術館の中にはいってみて度肝を抜かれた。
吹き抜けのホールがあって、その前面はすべてガラス張り。
ホールには1階からコーンと呼ばれる逆円錐形のコンクリートの柱がでていて、そのてっぺんにはカフェレストランがあった。
斬新なデザインといおうか、未来都市的といおうか。
いったい誰が設計したんだ?!
ということが気になって、帰ってから検索をしてみた。

黒川紀章氏(1934年4月8日~2007年10月12日)
敷地面積30,000㎡、建築面積12,500㎡、延床面積48,000㎡展示スペースは14,000㎡。
エントランスロビーのアトリウムは21.6mの天井高で、透明で大波のようにうねる外壁面が特色、と
http://www.nact.jp/building_intro.html#link2の建築の紹介にあった。



展示は企画展と公募展がある。
公募用の展示室は10あって、ほかに講堂や研修室、アートライブラリー、ミュージアムショップ、レストラン、カフェなどがあり、美術館のテーマパークといった感じ。

施工期間は平成14 (2002) 年9月~平成18(2006)年5月。
黒川紀省さんはこの建物の落慶後の平成19(2007)4月の都知事選、7月の参院選に出馬したがいずれも落選。同じ歳の10月12日心不全で亡くなった。

今日は2009年3月30日。